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祝福の地 簒奪者と列柱の迷宮  作者: 西東行
第3章 トゥーレ
16/20

「キーン? 大っ嫌いだね」

 マグメルはこともなげに言い放った。

「そりゃもちろん、あんたにはすごく腹を立てているし、大嫌いだよ、イース」

 面とむかって言われて、イースはさすがに苦笑した。いっぽうマグメルは気にもとめず話を続ける。

「だけどそれは、キーンに対する嫌悪とはべつだ。あんたが俺を誘拐した理由は、納得のいくものだからね。俺にとっちゃ大迷惑だったけど、俺があんたの立場でも同じことをしたよ。迷宮を解くには専門家が必要だし、手に入れるとなれば一から育てるか、他国からさらってくるしかない。あんたの自分の国の民を飢えさせたくないとか、奴隷にさせたくないって考えは立派だ。そういう奴が王位を簒奪するのは、悪いことじゃないと思う。だがそのためには、迷宮管理者が絶対に必要なんだ」

「……どうも」

「感謝しなくていい。俺はあんたが大嫌いだ」

「わかってる。——で、キーンの場合は、なにがお前の気に食わないんだ?」

 マグメルはふんと鼻を鳴らした。

「俺がここにつれてこられたときのことだよ。あんた、フィリグラーナの奴らだって西方諸国でさんざん奴隷狩りをしているって言っただろ。あのときキーンがなんて抜かしたか覚えているかい?」

 ——あれは農奴や宿なしです。それをまがりなりにも商人から買いあげているんです!——。

 マグメルはもういちど鼻を鳴らした。

「ふざけるな。西方諸国の人間を無理矢理かっさらって異国で奴隷にするのは正当な行為だけど、フィリグラーナの民を奴隷にするのは倫理的に問題があるっていうのか」

「かもしれないぞ」

「くそくらえ!」

 マグメルは噛みつくように言った。

「そりゃ政治的には、たしかに国家の権標を守る迷宮管理者を拉致すれば大問題になるさ。だけど奴隷は、理不尽にさらわれて、売られた先できつい仕事を強制されるんだ。非がなくても鞭で打たれることもある。そんな人間が大勢いるんだぞ。それだって大問題だろう。農奴だろうが宿なしだろうが関係ない。そもそも奴隷商人たちは、目に入った人間なら身分に関係なくさらってくるぞ。それを知らないってのか。俺はあいつが心の底から大嫌いだ。気にくわない!」

 マグメルはちらりとイースを見やった。

「あんただってあいつを信用していないんだろ? だから俺をさらってきたんだ」

「そうだ。キーンはフィリグラーナ人だからな」

 イースは平然として答えた。マグメルも驚いた様子もなくうなずく。

「だと思った。奴の奴隷に関する感覚って、フィリグラーナ貴族そのものだからね。見た目は西方人みたいだし、訛りもうまくごまかしているけど、咄嗟にでる態度は修正しきれないもんだよ」

「機を見て手を切ろうと思ってる。そろそろ頃合いだしな。手だしは無用だ」

「しないよ」

 マグメルはそこで考えこむように、首をかしげた。

「あんたはいつ、あいつがフィリグラーナ人だって気づいたんだ? あいつもまさか、すぐにばれるようなことはしてなかっただろう」

「当たり前だ。アミクト人だって触れこみだったよ。だが俺たちみたいな貧乏人に愛想よく近づいてきたっていうのが、そもそも怪しかったからな。こっそり正体を探ってやったんだ」

 イースは低く笑った。

「ノズの地は辺境だが、それでも注意深く商人や吟遊詩人の話に耳を傾けていたら、よその国の状況もわかる。フィリグラーナは昔から、他国が力をつけてくると、その国に間者をもぐりこませて、内乱や家督争いを起こしてきただろう。そういう手口も、ちゃんと知っていたさ」

 マグメルはため息をついた。

「たしかにね。目障りな国どうしに戦をさせたり、そういうのはたしかにフィリグラーナの常套手段だ。自分の手はできるだけ汚さず、両方が弱ったところに干渉して利をかすめとる」

「リメリックが俺たちに反乱を持ちかけてきたとき、同じことをする気だとすぐにわかったよ。ウルガゾンテはこのところ力をつけていた。北のほうでは鉱山も見つかったしな」

「それで不満を持つノズの民に援助して、内乱を起こさせたってわけか」

 ますます深いため息をつく。

「すまない。同じフィリグラーナ人として申し訳なく、恥ずかしく思うよ」

 イースは目をみはった。

「お前が謝ることじゃないだろ」

「だが俺はフィリグラーナ人だ。それを誇りに思ってるし、フィリグラーナにもいいところはたくさんある。だが平気で他国の人間を奴隷にしたり、戦を画策したりと、えげつないふるまいをしているのも事実だ。不本意だけど、そうして得た富を俺もこれまで享受してきたんだよ。無関係じゃない」

 意地のように言いはった。イースはなかば呆れて首をふる。

「だが少なくとも今回のウルガゾンテの件については、お互い様だ。こっちも最初からわかっていてリメリックの話に乗ったんだからな。ウルガゾンテの前王はノズの地が飢えたことにつけこんで、俺たちを完全に奴隷にしようとしていた。俺たちは前王を倒すしかなかったし、そのために金が必要だったんだ」

 今度はマグメルが目をみはった。

「わかっていて、軍資金をださせた上に参謀もさせていたのか。あんたも悪い奴だな」

「貧乏人や弱者ってのは、意外としたたかなものなんだよ。利用できるものは利用する。少なくとも、お前に心配される筋合いはない」

 マグメルはおかしげに笑った。

 イースは椅子の背に深くもたれた。

「フィリグラーナの目的は、ウルガゾンテの力をそぐことだ。キーンは俺をウルガゾンテ王にする気はないんだろう。知恵試しなんかで迷宮の管理者を募ろうとしたのがその証拠だよ。たしかにトゥーレは頭のいい奴だが、素人ひとりで迷宮を解くなんて無茶だ。だが俺みたいな田舎者は、そのことに気づかないと思っていたんだろうな」

 マグメルは髪をいじる。

「迷宮か……」

「奴の思惑は、迷宮を俺より先に解いて権標を横取りするか、俺に迷宮を解かせないままでいるか、いずれにせよこのままウルガゾンテに王のいない状態を続けて、不安定な状況にしておくことなんだ」

 そこでイースはマグメルを指さした。

「だからお前をさらってきたときには、血相を変えて反対したんだよ。お前なら、迷宮を解けるだろうからな」

「それで俺とトゥーレが迷宮に行ったときには、いい機会とばかりに襲ってきたわけだ」

 イースは眉をひそめた。

「あのときはすまなかった。お前を奪い返されることは想定していたが、同国人のお前を殺すつもりで襲撃してくるとは思わなかったんだ」

「甘いね。現管理長は合理性の権化みたいな人で、人の情なんかないんだよ」

「城内なら不審者を見張ることもできたんだが、迷宮の結界内では、俺たちは自由に動けない。けどお前たちは迷宮の管理者だから、迷宮の丘に行かないわけにもいかないし。前回は、詩人がお前たちのあとを追ったおかげで助かったが……」

 マグメルは意外そうに目をみはった。

「詩人? 彼女はあんたの命令で、俺たちを守ってくれていたのか?」

「俺の命令じゃない。自分で行くって言ったんだよ。珍しく言いはってな。襲撃されるとわかっていればそんなことをさせなかったんだが、うまくやってくれたようだ」

「得体の知れない女だな」

 マグメルは巻毛を幾重にも指にまきつけ、考えこんだ。

「吟遊詩人なんてあんなものだろう」

「いや、それにしても謎すぎるよ。素性はなにもわからないのかい? あんたの情人なんだろう?」

 イースは動きをとめた。マグメルをにらんだが、その目にあまり力はない。

「……なぜわかった」

「そりゃ、見たらわかるよ」

 イースは顔をしかめて、この話題は不快である旨を示したが、そんな意思表示を素直に受けいれるマグメルではない。むしろ調子にのって話を続けた。

「寝物語くらいするだろ? なにを話すんだ? ねぇねぇ、あんたも話すわけ?」

「うるさい」

「あの詩人、絶世の美女ってわけじゃないけど、雰囲気があるよね。まあ、ちょっと浮き世離れしすぎていて、俺の食指は動かないんだけど」

「言っておくが、あいつは俺の愛人だとか、そんなんじゃないぞ。窓辺にとまった鳥が、ちょっと歌を聴かせてくれたってだけだ。すぐにどこかへ飛んでいくだろうし、俺だってつかまえる気は毛頭ない」

「べつに俺に言い訳しなくてもいいよ」

 イースはマグメルがすわっていた椅子の脚を軽く蹴った。マグメルはゆれる椅子にしがみつきながら、笑った。

 イースはため息をつく。

「しかし、フィリグラーナの迷宮管理長がそれほど厳しい人物となると、トリスケルの迷宮を解いても、お前を故国に帰さないほうがいいかもしれないな」

 話題を戻すと、マグメルは驚いたように顔をあげた。

「あんた、俺をフィリグラーナに帰してくれるつもりだったわけ?」

 イースは眉をひそめる。

「……始末するとでも思っていたのか」

「可能性として充分ありうると思ってたよ。まあ、でもそうだね。当分ウルガゾンテにいさせてもらったほうがありがたいかな」

「わかった」

 イースは答えて、少し逡巡して尋ねた。

「しかしなんでまた、迷宮管理庁なんて厳しいところに入ったんだ?」

 言外に、よりによってお前が、とでも付けくわえるような気配があった。マグメルは肩をすくめた。

「たしかにいろいろ制約はあるけど、その分ほかの待遇はいいんだよ。研究する環境はすばらしく整っているし、なにより稼ぎもいいし」

「金が理由なのか?」

 意外そうな声で問うた。マグメルは金などに己を左右されないと思っていたのだろう。

 マグメルはふっと視線をそらせた。

「俺の実家に奴隷が大勢いたって、言ったろ」

 奴隷は家畜同然に扱われる。逃亡は許されない。もし逃げれば、ふだんは反目している奴隷商人同士までもが協力して徹底的に追跡する。そうして見せしめのために、酸鼻をきわまるやり方で殺された。

 たいていの奴隷はあきらめ、家畜のように働く自分自身に折りあいをつける。

 もっとも、奴隷が自由になる道も残されていないわけではなかった。金だ。

 死ぬ気で何十年か働けば、自分を買い戻して自由になることができる。その程度の希望は残されていた。完全に絶望し、自棄になった人間は使いものにならないからだ。

 だが、やっと自由になっても、遠い故郷に戻るまでにはさまざまな苦労が待ち受けている。そしてたとえ戻ったとしても、もう自分を知っている人は誰もいないかもしれない。

 それでも、故郷に戻りたい一心で、大切な人にもういちど会えることに希望をつないで、奴隷たちは必死に働く。

「——人のそんな気持ちを利用して働かせるって、悪魔みたいじゃないか」

「そうだな」

「でも俺の家族は、奴隷だからかまわない、気にすることないって言うんだ。話にならないね」

 マグメルは疲れたように頭をふった。

「つくづく家族には愛想が尽きたからさ。王都の学問所にすすんで、迷宮管理者になってやったんだ。管理庁に入るとき、まとまった金をもらえるからね。俺はその金で、家にいた奴隷を三人買いとった。俺に数学や生物なんかを教えてくれた奴隷たちだ。俺は彼らのおかげでいい成績を取れたみたいなものだから、正当な報酬だろう?」

「——迷宮管理者になったのは、そいつらを自由民にするためだったのか」

 愕然とした声で言った。マグメルは顔をしかめる。

「大勢いるなかの、三人だけだよ。俺の力なんてそんなものだ」

「だがそのためにお前は、制約の多い迷宮管理庁にしばられることになったんだろう」

「それがなんだっていうんだ。自分を犠牲にしたなんて思ってない。俺は自分の思いどおりにしただけだ。父に金をつきつけてやったときは、心の底からすっとしたよ。迷宮管理庁に入って、俺が買い戻した奴隷たちとは連絡が取れなくなったけど、たぶん故郷に戻ったと思う。俺は心から満足している。悔いはないね」

 そこでマグメルはイースの表情に気づいて、意地悪く笑った。

「俺を誘拐させた張本人が、なんて顔してるのさ?」

 無視したわけではないが、イースは答えなかった。マグメルはいっそう心地よさげに笑った。

「どうせ人間はなにかに束縛されるんだ。それこそ、蒼い衣の吟遊詩人でもないかぎりはね。俺はその範囲で、自分のすべきこと、したいことをする。あんたたちに拉致されたことなんか、俺にはたいしたことじゃないんだよ。腹はたったけどね。わかるかい?」

 イースはしばらく黙っていた。

 それから、なんの脈絡もなく言った。

「酒でも飲むか」

 唐突な申し出だったが、マグメルは気にしたふうもなかった。

「あんたと? まずそう」

「ウルガゾンテの火酒は、気にいらない相手を補ってあまりあるほどうまいんだ」

「ふーん。だったらもらおうかな」

 イースとマグメルは立ちあがると、つれだって図書室をでた。

「そうそう、芋からも蒸留酒を作ることができるんだよ。奴隷たちもこっそり自分たちでつくって飲んでいたんだ」

 自分も分けてもらっていたに違いない。悪党面でにやりと笑った。

「なんだよ。芋ってなんでもありか。本当に奴隷の食い物なのか?」

「女でも男でも、いくら完璧でもお手軽すぎると扱いが軽くなるだろ。それと一緒さ」

 イースは声をあげて笑った。マグメルも笑う。

 広間のほうに行く途中で、詩人と行き会った。詩人は楽器を手に持ち、アシュリンを従えていた。

「あら。珍しい組み合わせね」

「まあね」

「トゥーレはどうしたの? 奥の郭からでた様子はないんだけど、見あたらないの」

「さっき、本を持ってでていったよ。どこかで本でも読んでいるんじゃないかな」

「だったら邪魔しないほうがいいのかしら」

 詩人はアシュリンを見おろし、頭をなでた。

「残念ね、アシュリン。お前はトゥーレが大好きなのに、なかなか会えなくて」

 アシュリンは答えるように鼻を鳴らした。

「かわりに俺がいるぞ、アシュリン?」

 マグメルは腰をかがめてアシュリンに呼びかけたが、アシュリンは無視した。マグメルは本気で寂しそうな顔をする。

「なんでアシュリンは、詩人とトゥーレにはなつくんだろうな」

「俺にもなついている」

「それはあんたの狼だからだろ」

「そう。俺が育てた。……毛皮を取るために、俺たちがこいつの母狼を殺したからな」

 マグメルが顔をあげた。イースはおだやかな表情でアシュリンを見おろしていた。

「大狼の毛皮一枚で、村ひとつが冬を越せる。狩る側にも犠牲がでるから、大狼を狩るなんてことはふつうしないんだが、あの年は食い物が足りなかったんだ」

 そのアシュリンが、突然ぴんと耳を立てた。

「アシュリン? どうしたの。なにか聞こえるの?」

 詩人が顔をのぞきこみ、問うた。

 アシュリンはしばらくじっと耳をすませていたが、いきなりぱっと詩人のそばを離れ、かけだした。

「アシュリン!」

 詩人が狼を追いかける。イースがあわてて声をあげた。

「はやく奴をおさえろ! 出会い頭にぶつかった奴がかみつかれるぞ。奴は人間の男が嫌いなんだ!」

 詩人にむかってそう叫びながら、イースもあわててアシュリンを追った。詩人ひとりではアシュリンに力がかなわないと見たのだろう。

 残ったマグメルは、少し迷っていたが、自分も加勢するためにふたりを追った。

「アシュリン!」

 城のなかを、牛ほどもある大狼が全力で走っている。皆、あわてて端へよるなどして逃げるが、アシュリンは彼らには目もくれない。どこか目的があるように走った。

 そのあとを吟遊詩人と城主、迷宮管理人が追いかける。

 矢のように走るアシュリンがようやく足をとめたのは、西の塔の前だった。

 さかんにうなりながら建物の前をうろうろしているところに、イースたちがようやく追いついた。

 ほとんど同時に塔からでてきたのは、キーンだった。

 そのとたん、アシュリンが身を低くしてうなりだす。キーンは凶暴な獣の姿を見て目をむくや、あわてて建物のなかにかけもどった。

「アシュリンに背中を見せるな、キーン!」

 イースが怒鳴ったが、キーンはとまらない。塔の狭い階段をかけあがっていく。アシュリンも建物のなかに突進し、大きな図体で器用に階段をのぼってキーンを追いかけた。

「アシュリン、どうしたの? だめよ! とまって!」

「いやに興奮してるな」

「発情期じゃないのか?」

 三人もかたまって階段をのぼっていった。

 キーンは塔の屋上で、矢狭間の前で身を縮めていた。アシュリンがその前で四肢を踏んばり、低いうなり声をあげている。

 キーンはイースが屋上にあがってくるのを見るなり、救われたように声をあげた。

「イース殿! どうかすぐアシュリンをなだめてください」

「ああ。すまなかった」

 イースはすすみでて、アシュリンの首をつかもうとする。だがアシュリンは首をふってその払いのけると、イースにまでうなり声をあげた。

「——イース。おかしいわ」

「そうだな」

 イースは我が身を抱くようにしているキーンにむきなおった。

「狼は俺たちより耳も鼻もいい。お前、そこになにか持ってるんじゃないのか?」

 キーンはわずかに表情をこわばらせた。

「どうした」

「い、いえ。なにもありません。ですが先ほど軽い食事をとったので、その匂いが」

 そのときアシュリンが跳躍し、イースがとめる間もなくキーンにとびかかった。キーンはひとたまりもなく倒れ伏す。

 大きな袖のなかに隠していた書物が、床に落ちた。

「それは——!」

 マグメルが走りよった。嫌いな男に近づかれたのに、アシュリンは嫌がりもせず、かえってせかすようにマグメルに吠えたてる。

 マグメルは拾いあげた書物を、キーンにつきつけた。

「トゥーレが王立図書館で借りてきた本じゃないか! なぜあんたが持っているんだ」

 キーンは一瞬、視線をゆるがせかけたが、すぐに落ちついて答えた。

「物騒な物言いはおやめください。たいへんおもしろそうな書物でしたので、少しお借りしたまでです」

 そんな言葉など聞こえなかったかのように、詩人が一歩すすみでた。

「トゥーレはどこ?」

「存じません。また本でも借りに、王立図書館のある町の丘に行ったのでは?」

「勝手にでていかないよう、見はりを強化したんだ。トゥーレは外にでていない。あの赤毛を見逃すはずがないだろう」

 イースの言葉に、キーンは黙りこんだ。イースもすすみでて、キーンの前に立った。

「お前。なにをした」

「……それは——」

 その言葉をさえぎるように、アシュリンが矢狭間に前肢をかけ、下にむかって吠えたてた。詩人はとなりの矢狭間にとびつき、身をのりだす。

「——トゥーレよ! 岩のあいだに赤いものが見えるわ。落ちたのよ」

 ふりかえって叫んだ。イースは詩人をおしのけて矢狭間から顔をだす。

 次の瞬間、イースは身をひるがえし、塔をおりる階段へ突進した。彼はもはや、キーンのことなど頭にないようだった。

 アシュリンも大きく吠え、イースを追いぬく勢いで塔をおりていく。

 突風のようにイースとアシュリンが去ったあとには、マグメルと吟遊詩人、そしてキーンが残された。

 キーンはアシュリンにおしたおされたままだったが、小さく苦笑して身を起こした。マグメルがあわてて片手をあげる。

「おい。動くな」

「どうするおつもりです。力ずくでとめますか」

 キーンは身繕いをすると、落ちついて懐から短剣を取りだした。イースや兵士相手ではとても役に立たなさそうな細身の剣だが、マグメルと詩人は動きをとめる。

 キーンは口の端をあげた。

「そろそろ頃合いのようです。まだ仕事の途中であることが心残りですが、こうなっては致し方ありません」

「……あんた、やっぱりフィリグラーナの手先だったんだな。ウルガゾンテに内乱を起こすために送りこまれてきたのか」

 詩人がマグメルを見、キーンを見た。キーンは笑みを深めた。

「私はイース殿が必要なものを提供してさしあげたのです。損はさせていませんよ」

「トゥーレのことはどうなの」

 詩人が、低く鋭い声でとがめた。

「あの子をここから突き落としたんでしょう。いちばん弱いあの子を狙うだなんて、卑怯だわ」

「それについては耳が痛いですね。しかしトゥーレ殿は、イース殿のお気持ちを和らげましたし、マグメル殿がウルガゾンテへなじむ手助けもされました。結果、列柱の迷宮が解かれようとしています。それはなんともまずいのですよ。せめてイース殿とマグメル殿が衝突したままだったなら、こんなことをせずともよかったのですが」

 詩人はすっと半眼になった。緑の瞳のなかで、金色の斑がゆらりとうごめく。

 だが彼女が口を開く前に、マグメルがすすみでた。

「いいかげんにしろ。どんな大国でも、他国や他人をもてあそぶような真似が許されるはずはないぞ」

「べつにもてあそんでなどおりませんよ。古王国フィリグラーナも、大国なりに必死なのです。私も故国のために命をかけている。それだけのことです」

「ふざけるな!」

 マグメルはキーンに詰めよろうとした。が、それをキーンの短剣の切っ先がとめた。

 立ちどまったマグメルを見て、キーンは冷笑をうかべた。

「老人と見くびられては困りますな。イース殿相手では難しいが、女性と文官相手ならなんとかなりますよ」

 だが今度はマグメルがせせら笑う番だった。

「文官ね。——あんた、俺をなんだと思ってるんだ」

 そう言ってマグメルは、キーンの足下を指さした。

 キーンはマグメルを注意しつつ、足下にそっと目をやる。

 床石には壁にそって、塔の屋上をぐるりととりかこむように1という数字が書きつけられてあった。

「これは……?」

「俺は迷宮の手がかりを探して、城内を端から端まで見てまわったんだよ。そんな絶好の機会に、この俺がなにもしなかったと思うのか?」

 キーンはすばやく短剣をかまえた。だがマグメルはそれよりもはやく、指で印を結ぶ。

 とたん、糸が切れたように、キーンの手ががくりと下がった。手からは短剣が、軽い金属音を立てて床に落ちた。

 そのまま、キーンはゆっくりと膝をついた。だが短剣に手をのばすこともなく、子供のように体を丸め、静かに倒れ伏する。

 マグメルはキーンのかたわらに立ち、足先でその背中をつついた。キーンはかろうじて動く目でマグメルを見あげたが、それだけだ。なんの反撃もできずにいる。

「よし。意識ははっきりしてるな」

 マグメルは目をほそめた。

「迷宮にかかわろうってわりには、迷宮管理者の力がよくわかってないね。知恵の神が操った迷宮の術は、人の認識や感覚に作用する。斬ったり突いたりはできなくても、あんたの感覚を永遠に狂わすことができるし——廃人にすることもできるんだ」

 キーンの目に恐怖が浮かんだ。マグメルはキーンの肩を足先でおし、体をあおむかせる。そうして、自分の姿がキーンによく見えるようにした。

「あんたはトゥーレをこの高さから海に落とした。俺はあんたを、人間から堕としてやろうか? もう少し術を強くして、腹が減ったら自分の手を食べるくらい、正気をなくしてやることだってできるんだよ」

 キーンは極限まで目を見ひらいた。

「……や、め——」

 かすかな、かすれた声をあげたが、マグメルは表情を動かさなかった。

「あんたの計算能力が、俺が術をかけるよりはやければ、助かる可能性はある。どうかな、あんた、ここの塔の床にぐるっと書いた1の数列を、素数だけの並びになるように区切れるかい? 最初は11だ。次は? わかるかい?」

「やめろ……やめてくれ、頼む——」

「やめる義理なんてないよ。あんたは命をかけてるんだろう?」

 マグメルは両手を腰にあてた。

「廃人になるのが嫌なら、あんたの受けた命令も仲間も、洗いざらいぜんぶ喋ることだ」

 キーンは息を切らしている。

「言うまでもないけど、嘘をついたり、ちょっとでも俺の機嫌を損ねたら、あんたは糞尿まみれで丘の麓をさまよう哀れな狂人になりはてる。もっともあんた自身は、その状態でも幸せかもしれないけどね。肝に銘じておくことだよ」

 今やキーンはすすり泣いていた。流れる涙をぬぐうこともできず、ただ顔を見にくく歪ませ、マグメルの言うままうなずいている。

 いつのまにか、詩人が足音も立てずにマグメルの隣に立っていた。

「こわい術ね」

「だよね。誰だって泣いて陥落するよ。俺もやられたときは泣いた」

 マグメルはかたい声で答える。詩人はマグメルを見た。

「あなたもされたことがあるの?」

「あるさ。でなきゃ加減がわからなくて、他人に術なんかかけられないからね。いちおう薬師の立ち会いのもとで迷宮管理長に術をかけられたんだけど、恥も外聞もなく泣いたよ。あのときは管理長が悪魔と思えたね。こういう恐怖を自分で理解するのは大事なことだってわかっちゃいるけどさ」

 長いため息をついた。

「……あのときは、自分が他人にこの術をかける日が来るなんて思わなかったな」

「いいじゃない。あなたがしなければ、私がこの男に手をだしていたわ」

 詩人の言葉に、マグメルは驚いたように目をみはってふりかえった。

「あんたが? なにをするつもりだったんだい?」

「詩人には詩人のやり方があるの。いろいろと」

 詩人はマグメルを見ずに、やわらかな声でそれだけ答えた。

「……それがなにかは、聞かないでおくよ」

 マグメルは詩人から目をそらせながら言った。

「なんにせよ、イースがここから立ち去ってくれて助かった。迷宮の結界は相手を選ばないから、イースがここに残っていたら、彼も俺の結界の影響を受けていただろうからね」

 詩人はくすっと笑った。

「ものすごい勢いで走っていったわね。ほかは眼中にないって感じだったわ」

 マグメルも笑った。

「さてと。このままこいつに結界の術をかけとくから、そのあいだに縄かなにかをもってきてくれるかな?」

「ええ。待ってて」



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