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トリスケルはウルガゾンテで唯一の大都市だ。
辺境国とはいえ王都である。大きな市場がたち、さまざまな人間が集まった。旅人は広場の泉で休み、商人はせわしなく大通りを行き交う。朝から場末の酒場で寝ている傭兵もいれば、路地で犬と一緒に塵に埋もれている物乞いもいた。
余所者や見知らぬ人間がさほど珍しくないのも、大都市ならではの風景だろう。田舎では余所者は珍しく、たまに行商人や吟遊詩人などが訪れれば村をあげて歓待し、外の話を聞きたがるものだ。
だがトリスケルのような大都市では、人々は名前も知らず、顔も覚えることなくすれ違い、遠ざかっていく。見知らぬ場所で生まれ育った者どうしが、長い人生のなかでようやくこうしてすれ違うことができたのに、そのことにさしたる感慨も抱かぬまま、二度と会うことのない道をお互いにすすんでいくのだ。そうしてまた次の、見知らぬ場所で育った者とすれ違い、同じく遠ざかっていく。
港の裏通りに、午時になると開かれる露店があった。売っているのは串焼きだが、なんの肉かは不明である。香辛料のよくきいた濃い味付けの肉は、とりあえずは美味と言えた。そして安かった。それで充分で、肉の正体など誰もあえて聞かない。
日が真上近くまでのぼると、どこからともなく人が集まり、肉が売られるのを待つ。水夫や沖仲仕もいたが、貧民街が近いためにひと目で宿なしとわかる者たちもいた。顔見知りもいれば、見たことのない者もいる。
その日も多くの者が露店が開くのを待っていた。そのなかに、まわりとくらべてやや厚着の男がふたりがいたが、誰の注意も引かなかった。
ぶつぶつと口のなかでつぶやくような口調は、よほど耳をかたけないと聞き取れない。
もっとも、聞こえたとしても、たいていの人間にはその内容は理解できなかったに違いなかった。
「——聞いた話によると、『蝙蝠』は自分の縄張りをつくりあげたようだ」
「まずいな。『罌粟』だけならそれほど害はなかったが、蝙蝠は自分で飛んでいく知恵がある」
「だが『森』は深い。あの謎が解けるものか」
寒いのか、ふたりはときおり無意識に服をかきあわせていた。
「しかしなぜ『蝙蝠』は、獣どもと争いを起こすことなく縄張りをつくることができたのか」
「まあ、今さらもとの巣穴に戻ることもできないからな。戻っても、どうせ穴に閉じこめられるだけだ。腹をくくったのかもしれん」
「馬鹿な奴だ」
そのとき、露店を営んでいる夫婦がやってきた。夫が幕を張り、妻がそのうしろで肉を焼きはじめる。たちまち香辛料の香りが流れ、皆の注意はそちらにむかった。
皆の注意がそれたことをいいことに、ふたりの男は顔をつきあわせた。
「……『蝙蝠』は退治して、『罌粟』も抜いてしまわなければな」
「そうだな。だが俺たちの手の届く場所ではない。近くにいる奴に任せることにしよう。俺たちは引き続き、外の仕事をするんだ」
「わかった」
露店の用意ができて、皆が店の前に輪を作った。ふたりの男は立ちあがると、ばらばらに輪にくわわる。そして別個に串焼きを買うと、それぞれ違う方向へ立ち去った。
同じく露店をかこむ輪のなかから、男たちをそれとなく観察している者がいた。一見したところ、沖仲仕のようだ。事実、彼に親しげに話しかける同業者らしき男たちが数人いた。
彼は串焼きを食べながらふたりの男が違う方向に去っていくのを見ていた。そして串焼きを食べ終わると、指揮杖のように串を軽くふった。
それを合図にふたりの人物が、周囲にたむろしている者たちのなかから立ちあがる。ひとりは占い師らしき老婆で、もうひとりははしっこそうな少年だった。ふたりはわかれて、それぞれ男たちを追っていった。
彼らも去ってしまうと、串で指示をだした男はようやく立ちあがった。たくましい体つきは、いかにも沖仲仕らしい。
だが彼の正体は沖仲仕でなく、狩人だった。
イースの右腕であり従兄弟でもある、カイである。
彼は食べ終わった串をつかの間眺めて、無造作に捨てた。
(餌だ)
どんな動物でも食べなければ生きていけない。餌場の把握は重要だ。
(狩りはなんでも同じだ。足跡を見つけ、餌場を探して、行動範囲を特定する。通り道を探して巣を見つけだしたら、こっちのものだ)
大都市の数万人のなかから特定の人間を捜すのは至難の業だが、迷宮の侵入者たちの場合、迷宮の丘の周辺に出没することは確実である。同時に、迷宮周辺をうろつく者はひじょうに稀だった。
つまり迷宮の丘の周辺をよく調べれば、侵入者たちの痕跡を見つけることは存外たやすいことだった。また、彼らは迷宮の侵入や探索については高い技術を持っていたかもしれないが、迷宮をでればそれほど手強い敵ではなかった。
(迷宮のなかじゃ、それこそ無敵なんだろうが。あいにくトリスケルの迷宮は、草ぼうぼうの屋外にあるんだよなぁ)
もちろん、フィリグラーナ人たちも相当に慎重に行動していた。しかし獲物があらわれるのを辛抱強く待ったり、踏みつけた草の痕跡や泥の上の足跡を見きわめたりする技術に関しては、カイたちのほうがはるかに上だった。
カイはイースとともにノズの地で生まれ育った。痩せた土地を耕し、大角鹿を育てて暮らしていたが、それだけでは生きていけないので、子供のときから狩人としての訓練を受けた。
カイたちが暮らしていたのは小さな村で、家をでると目の前に森がそびえていた。
そう、森はそびえていた。そうとしか言いあらわしようがない。森は山塊のように大地に深く根ざし、枝は天にも届かんばかりだった。
森に一歩踏み入れれば、針葉樹が鬱蒼と茂り、もはや空は見えない。太陽や雲、風はしめだされ、昼間でも暗かった。そこは外界から隔絶され、巨大な獣がうごめいている異世界だった。
ノズの民には、この世界を去った神々や精霊は、北の森のどこかに隠れていると信じている者もいた。その話を信じぬまでも、森にはなにかふしぎなものがいると思う者は多かった。森では説明のつかぬ気配を感じることがよくあったし、ふしぎな現象もよく起こったからだ。
そんななにものかの気配に魅入られてか、ときおり誘われるように森に入っていく者がいた。たいてい、二度と帰ってこない。
十中八九、彼らは獣の胃に消えたはずだが、しかしそもそも、いったい彼らはどこへたどりつくつもりだったのか。カイはそんなことを思ったものだ。そして今でも折に触れて、その疑問は頭によみがえる。
森にむかう人の数は、特に飢饉の年に増えた。七年前の飢饉の年も、そうだった。
ただでさえ痩せた農地は、見捨てられて、またたくまに荒廃した。森の狩人たちにとっても麦や野菜は必要だ。それを作ってくれる農民がいなくなっては、狩人たちも生きていけない。
イースの父は長としてなんとか部族を立てなおそうと、禁忌とされていた大狼の狩りを試みた。森の王と称される大狼の毛皮は、もっとも高値で売れるからだ。
だが知力に優れた大狼の狩りには多大な危険が伴う。大狼の毛皮数枚の対価として、イースの父をはじめ、多くのノズの民が死んだ。
その貴重な毛皮を、北の領主はどこかから聞きつけ、税としてすべて奪っていった。
父のあとを継いだイースが、反乱を決意したのはあのときだ。
イースはまだほんの若造だったが、生来のガキ大将というのか、皆に慕われていた。部族の長だった父について、他の部族との集まりや交渉ごとにも顔をだしていたので、顔も広かったし、各地の情報にも通じていた。
皆がイースについていった。もちろんそれはイースを慕ってのことだったが、そうでもしなければノズの民はもう農奴にでもなるしかなかったのだ。言わば賭けだった。
だがイースは賭けに勝つべく努力し、そうして運を引きよせて、見事に勝った。
けれど、イースはこれからも勝たなくてはならない。少なくとも、負けがこまないようにしなければならない。
カイは、子供のころからそうしていたように、イースについていって彼を助けるだけだ。
子供のころから、獣の居場所をさぐったり追跡したりする手腕については、カイの右にでる者はいなかった。イースについて森をでて、戦にでるようになってからは、カイは人をさがし、追いかけ、とらえるようになった。
都市という森に慣れてしまえば、やることはさして変わらない。
カイは町の中心にある広場を目指して歩いた。先刻わかれた手下と落ちあうためだ。彼らが尾行に区切りをつけるのはまだもう少しかかるはずだが、先に行ってあたりに異常がないかたしかめておきたかった。
占い師の老婆はカイとイースの遠縁で、彼らが物心ついたときにはすでに高齢だった。千里眼で、戦のときにはまず彼女がトリスケルに占い師としてもぐりこんで、情勢を集め、知らせてくれたものだ。彼女の情報の精度は、どんな間者よりも優れていた。カイに人の観察の仕方を教えてくれたのは彼女だった。
老婆は月の出にあわせて路地で仕事をはじめる。それをひやかすふりをして報告を聞くつもりだった。
少年のほうは、もともとトリスケルで生まれ育った掏摸だ。彼のほうは、折を見てむこうから近づいてくるはずだった。
町の中心まで来たところで、カイはふと足をとめた。目抜き通りの先を、見覚えのある人物が歩いていた。
痩せた背をわずかに丸め、うつむきがちに足早に歩く。その姿は、どこか痩せた仔犬を思いださせた。
いちばんの特徴である、あのあざやかな赤毛は今日は見えない。布で覆って隠していたのだ。
(しかし、あれは……)
カイは意を決すると、さりげないふうを装って相手に近づいていった。
「——トゥーレ」
呼びかけると、トゥーレはびくっと身をふるわせてふりかえった。予想以上に驚かれて、カイはなんとなく後ろめたい気になる。
「カ、カイさん……?」
「驚かせて悪かったな。だけどその格好はどうしたのかと思ってさ」
トゥーレはうろたえてうつむき、自分の衣装を見下ろした。
トゥーレが身につけているのは、女ものの衣装だった。おそらく古着だろう、清潔だが毛織りの生地は少しすりきれている。本来ならぴったりと体にそっているはずの胴着は寸法があっていないらしく、脇や肩などあちこちがあまっていた。
頭を布で覆うのは、ウルガゾンテの農家や商家の女によく見られる風俗だ。若い娘らしく、布の縁にこまかな刺繍がしてあったが、それだけで寂しげなトゥーレの顔が驚くほど華やかに見えた。
胴着の胸元にもほどこされているはずの刺繍は見えなかった。トゥーレが重そうな本を三冊ほど抱きかかえていたからだ。
「あ、あの……これには理由があって……」
「外にでるのを控えろってイースに言われてたはずだろ? いったいどうしたんだ?」
カイは目抜き通りのむこうを見やった。たしかこの先には——。
「もしかして王立学問所か?」
「そのすぐ横にある王立図書館に本を返して、べつの本を借りようと思って。でも今、図書館や学問所の人は城の人間を信用してないらしいんです。俺も、城から来たってばれたら閲覧させてもらえないかもしれないから……それで」
「それで変装したってわけか?」
意外と実行力があると驚きかけたが、すぐに思いなおした。なにしろトゥーレはあのイースにもの申して、彼を黙らせたのだ。ひねくれ者のマグメルにしても、唯一トゥーレだけが彼を手懐けている。意外な度胸があることは、今や城の誰もが知っていた。
だがトゥーレはあくまでも消え入りそうな声で弁解した。
「変装ってほどじゃ……でも俺の赤い髪は目立つから、俺が城から来たってばれるかもしれないでしょう? マグメルもウルガゾンテ人らしくないから、あやしまれるでしょうし。だから俺が来るしかなくて、でも自然に髪を隠そうとしたら女の格好をするしかなくて、それで、あの——」
カイは苦笑した。
「わかった、わかった。で、わざわざ王立図書館にかよって、なにを調べているんだ? たしか、今は城内で以前の迷宮管理者の手がかりを探していたはずだろう?」
指摘されてトゥーレはしゃんと背筋を伸ばした。
「そうです。迷宮管理者の作業所は焼き払われたので、まず城の図書室で、数学の専門書を調べたんですよ」
「だがあの図書室は、迷宮管理者が使ってたわけじゃないだろ? 役人は、専門書は自分の執務室に並べてるって聞いたぞ」
「直接迷宮に関することじゃなくても、おいてある本の傾向で、トリスケルの迷宮でどんな分野が使われているか、ある程度推測できるってマグメルに教わったんです。例えば、迷宮管理者の専門が素数で、迷宮にも素数が使われているなら、素数に関する文献や論文がそろっているはずだって。それで俺たち、図書館の数学と建築の本を一覧にして、整理したんです」
カイは思わず眉をひそめ、眉間のしわを指先でのばした。
「……聞いてるだけでもたいへんそうだな。そういう調査は俺たちには無理だ」
トゥーレはにっこりと笑った。
「マグメルのおかげなんです! マグメルが読み終えていて、内容を把握している本が多かったから、一覧もほとんどつくってくれて! そうしたら、基礎的な書物はひととおり、まんべんなくあったんですけど、最新の論文や文献は、幾何学ばかりだったんです」
あれほど強情で頑なだった男が、なんと熱心に働いていることか。だがこれもトゥーレの功績だろう。
「マグメルが言うには、迷宮管理者の素性は極秘なんですけど、事実上、全員が王立学問所の出身なんですって。ふつうは学問所で候補者を見つけて、おもてむきは病気やなんかで死んだとか故郷に帰ったってことにして、迷宮管理庁に迎えいれるらしいんです。でも完全にごまかすのはむずかしくて、そこに手がかりがあるかもしれないって」
カイはうなずいた。生きて存在した痕跡を消し去るのがむずかしいというのは、狩人である彼にもよく理解できることだった。
「けど、王立学問所をやめた奴ってのも多いだろう? それをしらみつぶしに調べたのか?」
「そこなんです」
トゥーレは首を大きく縦にふった。
「実は俺とマグメルで、以前の迷宮管理者の手がかりがなにか残っていないか、城のなかをもういちど端から調べたんですよ。あの、キーン様を疑うとかじゃなくて、やっぱり自分でたしかめるのが必要だから。管理者の手がかりが『ありそうな』場所を予想してそこを探すのでなく、敷地を端から順に、徹底的に見ていったんです」
トゥーレはなにかを仕分けるように、空中を手で切った。カイはうなずく。ものを探すときには最良の方法である。
「そうしたら、北の納屋で、角が焼け焦げた文箱が見つかったんです。資材や道具の棚におきっぱなしになってました。その文箱のふたに、紋章が刻印されていたんです」
「……文箱? 北の納屋って、修理されたばかりの建物かい?」
北の納屋は大きいが、居館とは庭園をはさんだ場所にぽつんと建っていて、厨房や厩舎からも遠く、使い勝手が悪い。戦で壊れたのを、最近になってやっと修理しおえたのだが、荷物はまだほとんど運びこまれていなかった。
「べつに荷物を運びこまなくてもいいんです。あの北の納屋って、実は納屋じゃなくて、温室だったみたいなんです」
「温室?」
「あたたかくして、寒くても植物を育てられるようにした建物です。うまく使えば、冬でも薔薇を咲かせたり、ウルガゾンテでも南の珍しい花を咲かせられるんですって」
「贅沢だな」
カイがうなると、トゥーレは控えめに笑った。
「あの建物、南側の窓枠がやたら大きいでしょう? 戦のときに壊れたんでしょうけど、あそこには硝子が入っていたみたいです。そうして日の光をいっぱい取りこんでいたんですって。庭園のそばだし、マグメルにはすぐに温室跡だってわかったようでした」
「温室はわかったが、なんでまた、そんな場所に文箱なんかがあったんだ?」
「トリスケル城って、図書館もどこも窓が小さいから、夏でも本を読むには暗いんです。その点、温室は明るいし、前にあるのも庭園だから静かで、読み書きするにはうってつけの場所なんですよ。文箱を持ちこんで、そこで書類仕事をすることもあったでしょうね。俺だってそうします。蝋燭がもったいないですもの」
「だけど、その文箱が管理者のものとは限らないよな」
指摘すると、トゥーレは心得たようにうなずいた。
「そこで紋章なんです」
トゥーレは、胸に抱いていた本のひとつをカイに見せた。かなりぶ厚い。
「なんだい、そりゃ」
「紋章の一覧です。王都にいる貴族や官吏の紋章が載っているものなら城にもありますが、これはもっと詳細な、たぶんウルガゾンテでいちばんくわしい本です。新しく紋章院に登録された紋章も載っているんですよ。俺、貴族相手の武具商人の店で働いているって言って、借りてきました」
「登録?」
「マグメルの話では、王立学問所の学士は、自分の紋章を持っているんですって。論文を書いたときなんかに、表紙に自分の紋章を入れるそうなんです。紋章を持っていないような家の出身の人でも、王立学問所に入ったときに紋章官につくってもらって、自分の持ち物に入れるそうです」
カイは身をのりだした。
「待てよ。ってことは——」
トゥーレも大きくうなずいた。
「温室で見つかった文箱の紋章は、このくわしい本で調べてみたら、十年ほど前に王立学問所の女性が登録したものだってことだけ、わかりました。名前もちゃんと載っています」
「……ふむ」
「おそらく学問所の数学科の人だと思います。お城の図書室にはなかったけど、学問所の図書館や倉庫なら、その人がまだ学問所にいたころの研究論文や文献があるかもしれません。それをなんとかして手に入れようと思ってます」
カイは両腕を組んだ。
「——よし。それは俺たちが引きうけよう」
トゥーレはきょとんと、灰色の瞳を大きく見ひらいた。
「調べたり、必要なら忍びこんで手に入れたりするのは俺の仕事だ。俺がやるよ。あんたとマグメルは、数学や迷宮のことに専念してくれ」
「——はい! ありがとうございます、お願いします!」
トゥーレは思わずというように、手にしていた本をぎゅっと抱きしめた。子供のような仕草に、カイは思わず微笑んだ。
「で、その代わりと言っちゃなんだが、次からはでかけるなら、俺に声をかけてくれないかな?」
トゥーレは首をかしげる。
「迷宮で襲われただろう? 相手はまだあんたを狙ってるだろうし、いくら変装していてもひとりは物騒だよ。だいたい、王立図書館にでかけることも、イースに許可を得たのかい?」
しかつめらしく問うと、トゥーレは少し赤くなった。
「い、いえ。イース様からは、迷宮に行くのを控えろって言われただけでしたから。町ならいいかなって思ってました」
「町だって危険だ。襲撃者どもがこっちにまぎれこんでいる可能性は高いんだからな。帰りは俺が送るよ」
トゥーレはしゅんとしおれた。
「お手数をおかけして、申し訳ありません」
「よせよ。それどころかあんたには感謝してるんだ。本当によくやってくれてるよ」
カイは身をかがめ、トゥーレの顔をのぞきこんだ。
「イースの役にたってやってくれ。あいつもきっとあんたに応えるからさ」
トゥーレは青白い頬を紅潮させてカイを見つめ、それから大きくうなずいた。
「はい!」
いじらしい。そんな言葉が浮かんで、カイは苦笑した。
トゥーレを殴ってしまったイースが、今までにないほど後悔して落ちこんでいたことを思いだす。カイや詩人がどう慰めようと反応せず、実に面倒くさかったものだ。
だがトゥーレをこうして見ていると、その気持ちもわかるような気がした。これは殴れない。
「じゃ、行こうか。その重たい本を返さなきゃな」
「はい。そのあと市場によって着替えるので、少し待ってくださいますか? 帰るときにまた部屋を貸してくれるよう、古着屋に頼んであるんです」
「なんだ。その格好で城に帰らないのか?」
「も、もちろんですよ!」
カイはもういちど苦笑を浮かべた。そうしてまた、従兄弟の無愛想な顔を思いだした。