3
ふたりは王城の丘をくだり、迷宮の丘へむかった。
三角形をかたちづくる三つの丘のうち、王城の丘と町の丘のあいだには港があって、建物や道もよく整備されている。当然、人も多い。貧民街も港に近いところにあった。
一方、迷宮の丘と、そのほかのふたつの丘のあいだには道もなく、集落もほとんどなかった。宿なしたちもほとんどいない。あいだにある草原には、小さな紫色の花をつける灌木がわずかにおいしげっているばかりだった。
草を踏みしだいて迷宮の丘の麓までいくと、門衛のいない城門にたどりつく。城門の上部には紋章が浮き彫りにされていた。
「金色の蛇だね」
マグメルは門を見あげて言った。
「角もあるし、竜じゃないの? ウルガゾンテでは建国の英雄が、悪い竜を退治したって伝説があるから」
「そうなのかい?」
トゥーレの言葉に、マグメルは首をひねる。
「いや、やっぱりあれは蛇だよ。たしかに角があるけど、でも手足はないし、それに迷宮管理庁の象徴は、みずからの尾を咥えて円環をなす蛇なんだ。迷宮は大地の神がつくったもので、その大地の神の象徴が蛇だからね」
「そうだったんだ」
マグメルは両腕を組んで、しげしげと紋章を見つめる。
「でも角のある蛇なんて珍しいな。ただの意匠か……それとも昔はこんな蛇もいたのかな。ウルガゾンテには珍しい獣が多いって聞いたし」
「とにかく、なかに入ろうよ」
門前から動こうとしないマグメルを促しつつ、トゥーレは古い鍵を取りだした。迷宮の丘をかこむ城壁の、門の鍵である。
王城の城門や町の城門は、夜明けとともに開かれ、夕暮れには閉ざされるが、迷宮の丘をかこむ城壁の門は、一日中鍵がかかったままだ。
石の壁には地衣類がはびこり、廃墟めいて見えた。トゥーレは両手で抱えこむほどの錠に鍵をさしこみ、苦労してまわして開けた。
重い門扉を開けると、とたんに強い風が吹きよせ、トゥーレたちの髪をなぶった。
草に覆われたなだらかな斜面が、麓から空にむかって続つづいている。城門の近くに一本の灰色の柱が屹立しており、そこからさらに五十歩ほどすすんだところにべつの柱が建っていた。
斜面にそって丘を見あげると、点在する柱は上に行くほど数が増えていき、頂上のあたりではほとんど一個のかたまりのように密集していた。
「——これがトリスケルの列柱の迷宮か」
マグメルは丘を見あげ、感嘆の声をもらした。
「見てのとおり、柱は丘の上にのぼるほど密集していて、丘の麓あたりはほとんど建っていないんだ。柱が密集してくると感覚も狂ってくるんだけど、城門のあたりだとあまり影響はないよ」
トゥーレが説明すると、マグメルはうなずいた。
「壁もない迷宮だから当然だけど『入り口』もないんだな。四方のどこからでも丘の上を目指すことができるってわけだ。……うーん、フィリグラーナのは地下迷宮で閉ざされた空間だったから、こういう開放型の迷宮って勝手が違うなあ」
「迷宮は知恵でのみ解かれるものだからってことで、本来、迷宮には鍵をかけない伝統らしいけど、ここは子供や旅人が知らずに足を踏みいれかねないでしょ。あぶないから、ずっと昔の王様が迷宮の丘のまわりにも城壁を建てたんだって」
「そういう俗っぽい臨機応変さは、きっととても大切だね」
それからマグメルは目を細めて、周囲を見わたした。
柱が林立していても、圧迫感はない。丘が充分に広いからだ。まわりをかこむ城壁も、丘の斜面をまわりこむあたりで見えなくなる。おかげで閉塞感もなかった。
丘には柱のほかに建物はない。木もなく、岩もない。あるのはウルガゾンテの淡い青空と灰色の列柱、そして大きくなびく草だけだ。
風が吹きわたる音だけが聞こえる。だが風の音が強いほど、丘の静寂は深まると感じられた。ひたすら沈黙を守り立ち続ける柱は、なにかを待つ人の列のようにも見えた。
(だとすれば、なにを待っているんだろう——)
「きれいな迷宮だ」
「うん」
マグメルの言葉に、トゥーレも誇らしい気持ちで答えた。
「地下じゃなくて、丘の上にあるのがいいよね。空が見えるなんて最高だよ。柱だけで壁がないから、風もよく抜けるし。フィリグラーナの迷宮は地下だから、保全作業を一日続けてると、気が滅入ってしかたなかったんだ」
マグメルは大きく息をついた。晴れ晴れとした表情だった。
「でもここはすごく『外』って感じがするよ」
「——本当ね。門のなかに入ったのに、ぜんぜんそんな感じがしないわ」
突然女の声がして、トゥーレとマグメルはそろってふりむいた。
目の前にひるがえったのは、そこだけはやく宵闇が訪れたかのような、蒼い衣だった。
「おい、あんた!」
「詩人! ついてきたの?」
「ええ。ずいぶん驚かせてしまったみたいね。ごめんなさい」
詩人はさして罪悪感のなさそうに呑気に微笑んだ。
「あなたたちが迷宮の丘へむかうのが見えたから、ついあとを追ってきてしまったのよ。だって、権標を守る迷宮を見る機会なんて、ふつうはないでしょう? だから、ぜひ見てみたかったの!」
「だ、駄目だよ! 迷宮は部外者の立ち入りは禁止なんだから」
トゥーレは詩人をとどめようとしたが、詩人はからりと受けながした。
「まあ、トゥーレ。本来、迷宮は人を選ばないし、拒みもしないのよ。ただ知恵だけが、挑戦者をはばむの」
「そりゃ建前上は鍵もかけないし、人も拒まないことになってるけどさ。だけど迷宮は危険な場所でもあるんだ。迷ったが最後、二度とでられなくなるおそれもある。引き返したほうがいい」
マグメルの脅しにも、詩人は笑うばかりだ。
「マグメルったら。危険を避けて生きる人は、はなから吟遊詩人になんかならないわ」
飄々とマグメルを黙らせた。
「それに、迷うというのは、どこか行くべき場所がある人が陥る状況よ。流浪を運命づけられた私が、迷うもなにもないでしょう。私はただ自分のしたいようにして、行きたいところに行くだけ。それをとめることは、あなたたちにはできないわ」
詩人はそういい残すと、ひとりで先に丘をのぼりだした。トゥーレとマグメルは顔を見あわせる。
マグメルが肩をすくめた。
「手強いね。どうしようか」
「ちなみにフィリグラーナでは、部外者が迷宮に入ろうとしたら、どうしてるの?」
「入り口は見張りもいなくて、けっこうゆるいよ。それが迷宮の伝統だから。でも迷宮の衛士がいて、たいてい迷宮の入り口付近でとらえてしまう。迷宮内の追いかけっこは知恵くらべって解釈になってるみたいだからね」
「つ……つかまえたあとはどうするの?」
おそるおそる尋ねると、マグメルは目をそらせた。
「俺は知らない。けど、まあ、容赦はしてないんじゃないかな。王国の権標を狙うなんて、王国に対する——少なくとも王権を手放したくない人に対する、大罪に違いないからね」
「そんな! 詩人にひどいことなんか、できるわけないじゃないか! 俺、いやだよ」
思わず大声をだすと、前を歩いていた詩人がふりかえり、トゥーレとマグメルを遠目に見てほほえんだ。だがトゥーレは気づかず、マグメルに身をよせて訴えた。
「イース様だって、そんなことしたくないはずだよ。イース様もアシュリンも、詩人が好きなんだもの。それに詩人は、俺と同じに、イース様の知恵試しに合格してお城に雇われたんだよ。ねえ、マグメル、ひどいことなんてしなくていいよね!?」
「うーん」
マグメルは頭をかく。困っているというより微苦笑しているように見えら。
「まあ、今の迷宮管理者の首座は君だからね、トゥーレ。君がそう言うなら、それで問題ないと思う。もしイースの野郎が文句を言っても、俺が君の味方をするよ」
「ありがとう、マグメル!」
トゥーレはほっとして、肩の力を抜いた。その肩に、マグメルは手をおいた。
「さあ、行こうか」
ふたりは詩人を追いかけた。追いつくと詩人は斑入りの瞳をちらりときらめかせて、待っていたようにふたりと並んだ。
三人は柱から柱をたどるようにして丘をのぼる。途中、マグメルがなにかをつまみとったかと思うと、手のひらに転がした。
「なに?」
のぞきこんでみれば、小さな甲虫が裏返しにされ、足をさかんにうごめかしていた。
「フィリグラーナにはいない種類だよ。羽の色や模様がとてもきれいだ」
マグメルは優しい声で言うと、名残惜しそうに虫を放してやった。
「マグメルって、生き物が好きなの?」
蛇の紋章を興味深げに見つめていた姿を思いだし、聞いてみた。
「そうだね。獣や魚、鳥、昆虫。生物全般が好きだよ。俺は田舎で生まれ育ったからね。王立学問所に入るときも、数学を学ぶか生物を学ぶかで、最後まで悩んだんだ」
「じゃあ、もしかして大狼も好き?」
「あ、ばれてた?」
「はじめてアシュリンを見たときのマグメル、あんまり怖そうには見えなかったから」
マグメルは照れたように笑った。
「お察しのとおり、大狼は大好きだよ。北の森の古代獣は子供のころからの憧れなんだ。もともとそれで生物が好きになったみたいなものだから」
「だったら、あとで大角鹿のいるところを教えてあげる。お城にいるんだ」
「へえ! 大角鹿が?」
マグメルは目を輝かせ、それから苦笑した。
「古代獣をあきらめて、数学を選んで迷宮管理者になったのに、誘拐された先で見ることになるとはね。おかしな話だ」
「あきらめて、ってことは数学より生物のほうが好きだったの?」
マグメルは困ったように頭をかいた。
「どちらも同じくらい好きだよ。ただ、まとまった金がほしかったんだよね。迷宮の管理は王国の権標に関わる重要な仕事だから、俸禄も生物学者より段違いにいいんだ。それで数学を選んだってわけ」
金というのは、マグメルにすれば少し意外な理由に思えた。とは言え、人には事情がいろいろとあるのだろう。トゥーレはあえて質問しなかった。
「最初はただの迷宮の研究者になるつもりだったんだけど、俺に迷宮の結界を張る素質があることがわかってさ。そういう奴は滅多にいないから、否応なく管理者にならされたんだ。そうしたら、思った以上に自由が少なくて、まいったよ。正直、窮屈だった」
「大国フィリグラーナの迷宮の管理者なんて、堅苦しそうだものね」
トゥーレが問うと、マグメルはため息をついた。
「そうなんだよ! 外部に迷宮の秘密がもれないよう、行動も厳しく制限されるんだ。外出も滅多に許されないしね。今回は、久しぶりに許可をもらってやっと町にでたら、まるで見はからったみたいに誘拐されてしまってさ。王都じゃ、俺が外部と示しあわせて出奔したと疑っているんじゃないかな」
「そんな」
トゥーレは反論しようとしたが、マグメルは首をふった。
「そこは当然可能性として考えるべきところだから、仕方ない。古王国として、その権標の権威も相応に重いから、守る責任だって重くなる。そこは俺も承知しているんだよ。ただ、わかっていてもね……」
最後はため息にまぎらせた。それから自嘲気味に苦笑して、詩人を見やる。
「こういう世知辛い話は、吟遊詩人のあんたには馬鹿みたいに聞こえるだろうな」
「馬鹿とは思わないけど、気が知れないとは思うかしら」
詩人はいともにこやかに言った。そして空を見あげた。
「私はずっと、世界を放浪してきたわ。私には国境も、都市をかこむ城壁も関係ないの。この世界にはもともとそんなものはなかったのよ。その証拠に、鳥や風はそんなものやすやすと超えるでしょう? 勝手にあると思いこんでいる人間がいるだけだわ」
マグメルは、今度は心からと言うように笑った。
「さすが吟遊詩人だね。あんたが言うと真実らしく聞こえる」
「物語は、信じる者の心のなかではいつだって真実なのよ、マグメル」
詩人も笑い、両手をひろげた。
「世界のすべてが、私のなかで力強くうずまいているわ。私はそれにつき動かされるまま声をあげて歌うだけ。私には名前も居場所もないの。必要ないのよ。だって私はこの世界そのものだもの」
「いいな、そういうの」
マグメルはのんびりした、しかし染みいるような口調で言った。
丘の石柱は、ひとつひとつ太さや高さが違うが、丘を三分の一ほどのぼったところに、ひときわ太い柱がある。そしてその柱のあたりから、周囲の柱の数は急激に増えていた。
トゥーレはそこで立ちどまった。
「このあたりから感覚が狂いはじめて、上にのぼるほど強くなっていくんだ。どうする、マグメル? まだこの先にすすむ?」
「そうだね、ここの結界をちょっと体験してみたいから」
いっぽう詩人は、太い柱を見あげていた。
「すごい柱。私とトゥーレが手をつないでも、ひとまわりできないんじゃない?」
「俺の知るかぎりでは、これと同じくらいの柱があと二本あるよ。丘をまわりこんだところにあるから、ここからは見えないけど」
「高さもあるし、なにかの目印かしら?」
「どうかなあ。全部の柱を見たわけじゃないから。丘の上の、俺がまだ行ってない場所にもっと太くて立派な柱があるかもしれないよ」
マグメルも太い柱に手をつき、周囲を調べてまわっている。彼は詩人と違って、柱の表面を仔細に眺め、根もとの地面を観察した。
「——トゥーレ」
ふいに、今までとは違う声音でマグメルに呼ばれた。見ると、マグメルがむずかしい顔で柱のすぐそばの地面を見つめている。
「これを見てごらん」
視線の先には、指の太さほどの穴が開いている。
「……なんだろう。虫かなにかの巣かな?」
「いや。これは棒を突き立てた跡だね。はっきりしてるから、比較的最近のものだろう。同じ跡がそこと、それからこっちにもある」
「棒……?」
見れば、棒の跡は三角形を描くようについている。トゥーレははっと顔をあげた。
「俺は知らない——まさか、誰かがこの丘に入りこんでいるってこと?」
焦って言いかけ、すぐに思いなおした。
「あ、でもキーン様かイース様が、ここに来てらっしゃる可能性もあるのか……。俺に鍵をくださったのはキーン様だし、合い鍵だってあるのかも」
「かもね」
マグメルは少し微妙な口調で言った。トゥーレには、彼がまだなにか言いたいことがあるように感じられたが、マグメルはそれ以上なにも言わなかった。
三人はふたたび丘の上にむかって歩きはじめる。それにしたがい、柱の数は増えていき、やがて柱のあいだを縫って歩くまでになった。
視界は柱でさえぎられ、柱のあいだから望む風景も分断されて狭く細くなっていく。空は狭くなり、やがて真上を見あげなければ見えないようになっていった。
「……これはけっこう、きついな」
マグメルがつぶやいた。
「平衡感覚や遠近感が狂ってきたのが、自分でもわかる」
「まわりを完全に柱でかこまれて、丘の外の風景がまったく見えなくなると、感覚の狂いはもっとひどくなるんだよ。なんだかすごく不安になるんだ。けっこう柱が高いから、太陽も見えなくて、方向もわからなくなるし」
「だろうね。外の風景や太陽は方向を教えてくれる重要な要素だ。それが遮断されると完全に迷宮の結界の影響下に入ってしまう」
マグメルは自分の髪をいじった。
「列柱の迷宮か——思っていたよりずっと厄介だな。特に壁がないことで、動線がおそろしく複雑になってる。今日はこれ以上深入りせず、帰ったほうがよさそうだな。だいたいの感じはわかったし」
「うん、そうだね。詩人も」
トゥーレは詩人に声をかけようとふりかえり、声をのみこんだ。
「……あれ? 詩人?」
いつのまにか、蒼い衣の吟遊詩人の姿が消えていた。
「まさか、はぐれたのか?」
「で、でも、さっきまでそばにいたのに」
「迷宮じゃ人なんて一瞬で見えなくなるよ。やばいな」
トゥーレとマグメルはあたりを見わたしたが、蒼い色はちらとも見えない。太さの違う柱の森をじっと見つめていると、遠近感がますます狂いそうになった。詩人をさがしてまわりたいが、これでは下手をすれば自分たちまで迷いそうだ。
「どうしよう」
ぐるりとあたりを見まわして、思わず足をふらつかせた、そのときだった。
空を斬る音がしたかと思うと、つい今までトゥーレの頭があった位置で鋭い音がした。そして小さな石のかけらがぱらぱらと顔にふりかかってくる。
「——トゥーレ! よけろ!」
よけろと言われても、なぜ、どこへどうよければいいのか。状況を把握できず、木偶の坊のように突っ立っていると、マグメルがいきなりトゥーレの手を取って、走りだした。
柱が密集した、迷宮の中心にむかって。
「マグメル?」
「弾弓だ! 投石具だよ。狙われてる。迷宮のおくにむかって逃げるんだ!」
「待って! おくへ逃げたら俺たちが迷ってしまうよ!」
「それは相手も一緒だ。正面からでくわしたり、弾弓でねらわれるよりはましだよ」
トゥーレは背後を肩越しに見やり、それから前を見た。
正体不明の襲撃者と迷宮と、どちらかより危険かと問われれば、正直わからない。ただ襲撃者は明らかに害意を持って襲ってきていた。ここは逃げるしかないだろう。
列柱の迷宮には隠れる場所が多かったが、それは襲撃者にとっても同じだった。完全に姿をひそめて、こちらの思いもよらない方向から、つぶてを飛ばしてくる。どうやら襲撃者は、トゥーレやマグメルを直接狙わず、わざとべつの方向にある柱を狙い、跳ねかえったつぶてをトゥーレたちにあてようとしているようだ。おかげで、どの方向からトゥーレたちを狙っているか、皆目見当がつかなかった。相手は狭い場所での襲撃に、相当に慣れているのだろう。
しかも、柱にあたると表面の石が大きく欠けるところから見て、かなりの威力で撃たれているようだ。あたれば死んでしまうだろうかと、頭の片隅でちらりと思った。
マグメルが逃げながら、衣嚢から木炭を取りだした。そして柱のすみに、数字を書きつけていく。
10、11、12、13、14……
「マグメル? なにしてるの?」
「簡単な結界を張ってるんだ。少しは相手の目をごまかせるかと思ってね」
「結界のなかに、またべつの結界を張ることができるの?」
「できるよ。入れ子構造の結界はわりとよく使われる。うまく使えば相乗効果も期待できるんだ。けど、ここは俺がおおもとの結界を解いてないから、本当に気休めだな」
そう言いながら、また柱に数字を書いた。
……15、16、17、20、22……
「それ、俺たちを追ってくる目印になってしまわない?」
マグメルはにやっと笑った。
「それを期待しているんだ。なにも考えずにこの数列を目で追っていけば、迷ってしまうはずだよ。でもきみならこの数列がなにかわかるだろう、トゥーレ?」
……24、31、100、121、10,000
「もしかして、全部16?」
十進法の16は、十六進法であらわせば10、十五進法で11——そして二進法では10,000だ。
マグメルは満足そうにうなずいた。
「ご明察」
数列の結界が効いたのか、ふたりにむかってつぶてが飛んでくることがなくなった。
だがそのころには、トゥーレとマグメルも、迷宮のかなり奥深くまで来ていた。
襲撃者をまくことは成功したが、かわりにふたりも危険な領域まで足を踏みいれてしまったらしい。柱が密集して、まっすぐに走ることもままならなかった。
それなのに、ふしぎに空間が広く感じられた。無数の直線に、感覚を狂わせられている。もはや見ただけでは、そこが空間なのか柱なのかも定かではない。視野は完全に結界の影響をうけ、距離間も、自分の存在さえ、失われているような気がした。
無数の垂直の線に追いつめられるようだ。
「……マグメル」
トゥーレはマグメルに身をよせた。マグメルは手を握ってトゥーレを力づけてくれたが、彼の手も冷たかった。
「マグメル——俺たち迷宮の中心近くまで迷いこんだんじゃないかな。もとの方向に帰ったほうがよくない?」
「今もとの方向に帰ったりしたら、襲撃者と鉢合わせになる怖れがあるよ。しっかりして。そんなふうに判断力を失うのは結界のせいだ」
「誰かの足音が聞こえるような気がするんだ。これも気のせいかな?」
「……ごめん、俺もわからない」
マグメルの声も、不安そうだった。
トゥーレはあえぐように天を仰ぎ見た。見えるのは薄い玻璃のような、ウルガゾンテの空だけだ。せめて太陽が見えれば、方向もわかるのだが。
(今、丘のどのあたりにいるんだろう? 中腹? それとも頂上近くかな)
坂をくだれば麓にたどりつくはずである。
しかし丘の傾斜を、自分が今ちゃんと認識できているのかどうか、はなはだ疑問だ。
(この柱が実は垂直じゃなかったら、傾斜も錯覚してるかもしれないものな)
そんなことすら、おぼつかなくなっていた。
「トゥーレ!」
そのとき、マグメルが緊張した声をあげ、トゥーレははっとしてふりかえった。
マグメルが顔をこわばらせ、柱と柱のあいだを見ている。
視線をたどると、柱と柱のあいだに誰かが倒れているのが見えた。
トゥーレは一瞬、吟遊詩人かと思った。だが倒れている人物の衣はありふれた茶色で、風雨にさらされてぼろぼろになっている。そばには、やはり汚れて色あせた杖が落ちていた。旅人が持つものにしてはかなり細めの杖だ。
衣の袖からのぞいている手首は、明らかに死体のものだった。
(こんなところで風雨にさらされているってことは——)
迷宮への侵入者だ。
トゥーレは緊張して、不安も忘れた。
マグメルが慎重な足取りで死体に近よった。トゥーレもあとに続く。そっと死体をあおむけにして顔をのぞき見ると、落ちくぼんだ眼窩がこちらを見返してきた。
男だった。肌や瞳の色はわからないが、残っている頭髪は栗色だ。
じっと見ていると、マグメルが声をかけてきた。
「トゥーレ。死体を見るのは平気かい?」
「うん。俺、宿なしだったから。わりと見慣れているんだ」
特に冬はよく見た。春の祝福を受けた都市とはいえ、やはり宿なしにとっての冬は厳しい。毎日のように凍死者や餓死者がでた。行き倒れは数刻のうちに洗われたように身ぐるみをはがされ、昼には空き地にうち捨てられる。空き地に人の気配がなくなると、飢えた野良犬や、あるいは人目を避けた誰かが空き地に忍んでいく。翌朝には死体の痕跡すら残っていない。そうして昼頃にはまたあらたな死体が投げこまれた。
つまりトゥーレがよく目にしたのは、死んだ直後の死体だった。だが迷宮の死体は、腐乱こそしていなかったが、見慣れているものよりもずっと日がたっているようだ。
「この人、いつ死んだんだろう? いつ、迷宮に侵入したのかな」
「むずかしいな。この迷宮は風とおしもいいし、乾燥してるし。フィリグラーナの迷宮は地下で水気も多くて、条件がかなり違うから、俺もいつごろ死んだかはっきり断定できないよ。ただ、迷宮管理者たちは戦のとき殺されて、それは春だったんだよね? だったらこの男はそのあと迷宮に忍びこんで、結界にとらわれて力つきたと考えるのが妥当だな。迷宮の管理者がいないから、今まで死体を始末する者が誰もいなかったんだ」
「……迷宮管理者って、死体の後始末までしなくちゃならないの?」
「そりゃ、管理者だからね。迷宮内のことはなんだってするよ。衛士も手伝ってくれるけど、でも深い階層だと彼らも判断力がなくなるから」
マグメルも死体の後始末をしたことがあるのだろうか。トゥーレはふと思ったが、口にだして尋ねる気にはなれなかった。
マグメルは死体の衣服をあらためだした。ややあって、服の下から小さな丸いものを取りだした。トゥーレはマグメルに顔をよせた。
「なにこれ……巻尺?」
「そうだね」
ほかにマグメルが取りだしたのは、汚れた首飾りだった。旅人が持つ護符だろう。たいていは小さな容器になっていて、ちょっとした薬を入れることもできる。
「なかになにか入ってる?」
「いや。でもこれ——」
そのとき、またもや空を切る音がして、すぐそばをつぶてが飛びすぎた。
「——襲撃者だ!」
マグメルが肩を落とした。
「あー……やっぱりあの結界は長持ちしなかったか」
「立って! 逃げなきゃ!」
マグメルの腕をとり、ふたたびかけだした。
だが周囲はただでさえ柱が密集している上に、結界の力も強い場所だ。ふたりはうまく走れず、なんどもためらっては足をとめる。そのたびに飛んできたつぶてが身をかすめ、怪我をしそうになった。
トゥーレはマグメルにささやいた。
「マグメル。気のせいかもしれないけど、相手の奴らは俺たちよりずっとこの迷宮に慣れてるって感じがしない?」
マグメルは躊躇して、答えた。
「実は俺も感じてた。たぶん、以前から何度も迷宮に忍びこんで、ここの結界にも慣れているんじゃないかな」
「結界を解いたのかな? ……だとしたら、迷宮の権標は、もう——」
奪われたかもしれない。
そんな不安にかられて息が詰まりそうになったが、マグメルは首を横にふった。
「もし権標を見つけていたら、相手はとっくにここから去っているか、ウルガゾンテの王として宣言でもしているよ。まだこのあたりをうろついて俺たちを狙ってるってことは、相手もここより先にすすめずにいるんだ」
トゥーレは安堵しかけたが、次の瞬間またつぶてが飛んできて、肝を冷やすはめになった。
もう自分が柱のあいだを走っているのか、自分の体のなかを直線がとおりぬけていくのかもわからない。左右の感覚さえあやふやだ。襲撃の恐怖とあいまって、意識がもうろうとしてくる。
とうとう、トゥーレは立ちどまってしまった。
「トゥーレ、しっかりして」
マグメルが抱きすくめるようにして体を支えてくれた。
「好きな数を思いうかべるんだ、トゥーレ。ほら、9が好きなんだろう? 9の式でも9の図形でも、なんでもいいから考えてごらん。少しはましになるから」
「9……」
言われたとおり9の数を思いうかべると、ほんの少し頭のなかの霧が晴れた気がした。
だがこの状況下では、ほんの少し冷静になったくらいでは気休めにもならない。
「やっぱりだめだ。俺をおいてマグメルだけでも逃げて」
「なに言ってるんだよ。きみって時々、本当に馬鹿だな」
そのとき突然、柱のあいだに宵闇のような蒼い色がひるがえった。
「こっちよ、トゥーレ! マグメル!」
状況を把握する間もなく、トゥーレはぐいと腕をつかまれて柱の陰に引きこまれた。トゥーレと手をつないでいたマグメルもあとに続く。
「……詩人?」
「よかった! 無事だったのね」
詩人はトゥーレの赤毛の頭を抱きしめた。トゥーレは彼女のやわらかな胸におしつけられて、息が詰まる。
「え、あの、詩人」
「あんた! 今までどこにいたんだ?」
「そ、そうだよ! いきなり見えなくなったから心配したんだよ」
詩人はすまなさそうに肩をすくめた。
「心配かけてごめんなさい。ちょっと余所見をしていたら、はぐれてしまったの。すぐに追いかけたんだけど、柱ばっかりで方向をあやまるし、怖そうな人たちもいて、なかなかあなたたちに近づけなかったのよ」
詩人はトゥーレを抱きしめたまま立ちあがった。
「奴らはまだこのあたりにいるわ。急ぎましょう。私についてきて。彼らと鉢合わせしないようにして、ここからだしてあげるから」
「ついてきてって……」
トゥーレはとまどってマグメルを見た。マグメルも眉をひそめている。
「どうやって迷宮の外にでるつもりだよ」
詩人はにっこりと笑った。
「迷宮は解けないけど、とりあえず柱が密集している迷宮の中心をさけて、丘をくだればいいんでしょ? それくらいなら私にもわかるわ」
「でもここには結界があるんだよ!」
結界さえなければ、トゥーレやマグメルもここまで窮地に立たされたりはしないのだ。
だが詩人はいたずらっぽく微笑んだ。
「結界なんて関係ないわ。私は蒼い衣の吟遊詩人だもの。知ってるかしら、大地の神は世界中の知恵を迷宮に集めたけれど、歌は迷宮に封じられなかったのよ」
そう言うと、楽器をトゥーレに持たせた。そして片手でトゥーレの手を、もう片方の手でマグメルの手を取ると、歩きだした。
「しじ……」
詩人は応えず、かわりに歌いだした。
小さな声だが、澄んだ声はよく響いた。頭のなかに直接響くかのようだ。もしかすると、襲撃者にも聴こえているかもしれない。
だが詩人の歌を聴いていると、不安が薄れた。頭に綿でもつまっていたような圧迫感も消えて、頭が軽くなるかに思われた。
(——結界が薄れている?)
マグメルも同じように感じているのか、目をみはっていた。
それは夢の詩 夢ゆえのうつつ
しるべなき道を行き いつか川岸に見る——
迷宮が、ひどく静かだ。風の音も聞こえない。トゥーレには、迷宮が詩人の歌を聴くためにじっと耳をすませているのはないかと、そんな想像をした。
詩人は気まぐれな足取りで歩く。それなのに三人はどこにもぶつからなかった。まるで周囲にさえぎるものなど、なにもないようだ。
詩人の手と歌に導かれるまま、どれほど歩いたのだろう。それほど時間はたっていなかったかもしれない。ふいに視界が開けた。
「え……」
トゥーレは声をあげた。いつのまにか、周囲の柱がまばらになって、丘の外の風景が見えていた。
丘の斜面をくだった先に、王城の丘と町の丘が並んでいる。そのさらにむこうに青灰色の海が広がっていた。
景色が広がるとともに、結界の影響が失われていくのをトゥーレは感じた。
「あ、あれ? ど……どうして?」
詩人はただ肩をすくめて、トゥーレの手から楽器を取った。マグメルが少し怒ったように声をあげた。
「なにをやったんだ? 結界を解いてもいないのに! いったいどうやった?」
詩人はおどけたふうに肩をすくめた。
「私には結界なんて解けやしないわ。言ったでしょ、歌は迷宮に閉じこめられないの。そして蒼い衣の吟遊詩人である私は、歌そのもの。それだけ。だから結界の力がおよばないのよ」
創世の混沌のまま、自由であることを神々に許された吟遊詩人。彼らは言葉がつむがれ、数がかぞえられるよりも以前の存在だ。その理屈では、数による奇跡の力も、吟遊詩人を縛ることはできないということになるが。
「いや、それはそうかもしれないけど……でも蒼い衣の吟遊詩人っていうのは、神話じゃないか。あんただって、神話を真似て名前や故郷を言わないだけなんだろう?」
そして神々は、もう何百年もの昔にこの世界を去ったのだ。神話はもはや、遠い昔の物語にすぎない。
だがそう言うマグメルの声は、どこか自信なげだった。詩人もマグメルをたしなめるように首をふる。
「真似るもなにもないわ。私が歌うことで神話は世界に顕在するのよ」
マグメルは返事につまる。詩人は笑った。
「ただ、私には迷宮の謎も結界もきかないけど、解けるわけではないの。あなたたちへの影響も、完全に取り除いてあげることはできないわ。あなたたちは名無しではないから。結界を解いて権標をさぐるのは、あなたたちの仕事よ」
言われて、トゥーレとマグメルはお互いを見た。
詩人は手をふる。
「こんなこと、どうでもいいの。それより、はやく行きましょう。あなたたちを狙った人たちは、まだ迷宮のなかにいるのよ。気づいて追いかけてこられると厄介だわ。逃げるなら今のうちね」
トゥーレはぎくりとして背後をふりかえった。襲撃者の姿は見えないが、詩人の言うとおり、今も柱の森のどこかにいるに違いない。
それに迷宮には、正体のわからない死体も倒れているのだ。
王国の権威を守る場には、謎ばかりでなく、危険や死も存在するのだ。そう考えると、丘の迷宮がひどく不気味なものに思えてきて、トゥーレは肌を粟立たせた。
詩人はすでに門にむかって歩きだしていた。トゥーレはあわてて彼女のあとを追う。
マグメルはトゥーレと詩人の背を守るように、ふたりの背後を歩いた。