八の段
戸を叩く音で颯季は目を覚ました。
すやすやと眠る赤子達を起こさないよう慎重に起き上がると、戸口に向かって声を掛けた。
「潤?潤なの?」
返事はない。
それが颯季を余計に気味悪がらせた。黙ってやり過ごそうと布団に戻ると、相手はまた戸を叩いてきた。
「誰なのです?名でも用件でもとにかく何か仰って下さい」
「潤殿の家族の者ですか」
男の声が応えた。
こんな時刻に男が訪ねてくるのも怪しい。
颯季は強気な口調で答えた。
「そうですが、あなたは?」
「申し訳ないが時間がない。急いでここを離れなければ、あなたは殺されてしまう。早く戸を開けて下さい」
淡々と言う男の声には焦りが感じられたが、得体の知れない男の言うがままにするのもよいのか迷った。
結局、戸口まで慎重に行くと錠に手を伸ばした。
「あっ!」
戸が勢いよく開き、颯季の前には背の高い細面の男が
立っていた。男は颯季を押しのける様に家の中に入ってきた。
後ずさりしながら、颯季は赤子達の盾になる様に立った。
「あの…」
男は何も言わずに顔を見てくるので、気まずくなった颯季はおずおずと声を掛けてみた。
「あなたは、夫の…」
「青渴潤殿が亡くなられました」
男は先程と同じ様に淡々とした口調でそう言った。
「…は?」
颯季の頭の中は瞬時に白くなり、無になり、周りの音が一切遮断された。
目は開いているのに気を失っている様な感覚だ。
「おい、おいっ!」
どのくらい経ったのか分からなかったが、肩を揺さぶられる感覚で颯季はやっと気付いた。
「大丈夫か」
男は空虚な目をした颯季を心配そうに眺めている。
「は、はい……」
声に力が入らないまま、その場に立ち尽くす。
それでも男は急かす様に話を続ける。
「名は颯季、と聞いた。何度も言うが今は本当に時間がないんだ。泣くのは後にして、子供達と一緒にこの場所から離れて、連れて行かないと」
「どこへ行くの?」
「村…という程のものではないけど、屋根付きの住まいはある」
「あなただけ?」
「何人かいるが悪い奴はいない。心配するな」
男は颯季の身体を押しやると、寝ている双子をひょいと抱き上げ颯季に渡した。
「行こう」
半ば強引に連れ出され、颯季は長屋から出た。
外に出た途端、異様な臭いがした。
そして、月明かりと共に外の様子が明々と照らされ、臭いの正体を見た。
そこには三人の男達の死体が転がっていた。
首を切られた遺体の断面が見え、颯季は吐き気を覚えた。路地は血溜まりが幾つもできていた。
いつもは澄んだ水が流れる川面からも、生臭い匂いがたちこめ、顔の血の気が引くのが颯季には分かった。
「何してる。こっちだ」
男は死体など気にせず、まるで見えていないかの様に
颯季に近づいて来た。
急に颯季は男が怖くなった。
「どうした」
颯季の顔つきの変化に気付いたのか、男は足を止めた。血溜まりに立つ男の足は真っ赤に汚れている。
「歩けないのか?」
「怖いの……あなたが」
男は少し驚いた顔をした。
辺りを見渡してから、ようやく気付いたようだ。
「こいつらを斬ったのは俺だ。でもそれはお前とその子達を殺しに来たからだ。好き好んで殺したんじゃない。安心しろ」
男の声は優しいものだったが、颯季はまだ信じる事が出来なかった。
「ごめんなさい、でも、やっぱり…まだ怖い」
颯季は涙を抑えれなくなった。赤子達を抱えたまま、その場に座り込み、しくしくと声を出さず泣いた。
晶は困惑した。
泣かすつもりなど全くなかった。
むしろ安心してくれると考え、放った言葉で颯季は泣いているのだ。どうするか分からず、頭に手をやって悩んでいると、一つだけ単純な閃きが浮かんだ。
「颯季、颯季」
「………何?」
涙が溢れる黒目がちの大きな目は揺れながら晶を見上げてきた。その瞬間、晶の胸がぎゅっと熱くなった。
「あの、名前…」
「え?」
「俺の名前、もう言ったかな?」
颯季は少し考えるように俯き、ふるふると頭を横に振った。晶はゆっくりと屈むと、颯季の足元に自分の指で字を描きはじめた。
颯季は泣くのをやめ、晶の指を興味津々に見た。
それが晶の胸をさらに刺激した。
「俺は紫苑晶。優忍衆 中忍の晶という」
「しょう…」
颯季は小さく呟くと、立ち上がって手をはたく晶にゆっくり視線を移した。
晶は再び颯季の前にしゃがむと、膝を立て、拳を地面に立てた。
「この紫苑晶、貴女様を命に代えて、お護り致します。亡き潤殿のためにも…私を信じてくださるか?」
颯季はぽかんと口を開けていたが、やがて静かに頷いた。