六の段
父の命は絶対であった。
逆らう者は誰であろうと殺された。
濃の母までもが殺されたのだ。
信長の正室でもあった母はある時、余りにも残虐な信長のやり方に口を出したのだ。
即刻その場で信長に首をはねられた。
「母上さま!」
転がる母の首を前にして、幼い濃は叫んだ。
首無しとなった母の体にすがり、何度も何度も母を呼んだ。母の温もりが消えていく感触は未だ濃の手に残っていた。
「母上…」
濃の身体は震えに震えた。
部屋に引き返すのは容易い。
しかしそうしてしまえば、潤を見捨てる事など、やはりできない。
濃は意を決した。
「父上、お願い申し上げます。今すぐおやめください」
信長が振り返った。気味が悪い程の穏やかな顔だ。
母の時と同じだった。信長はこの優しい顔をして母の首をはねたのだ。
「そなた、父の言葉が聞こえなんだか?部屋に戻れと申したのだ」
信長の声に怒気が密かに含まれていた。
それでも濃は辞さない。
「父上、私の声が聞こえておりますか?潤の仕打ちをおやめください、そう申したのです」
一瞬の父娘の沈黙が、傍の今常にはとても長く感じられた。
信長は高らかに笑い始めた。
濃も今常も、びくんと身体を震わせた。
「濃よ、お前は母親似だと思っていたが、意外にも儂に似ておる所がある。奥ゆかしい娘じゃ。よかろう、その度胸に免じて止めてやる。もう充分楽しんだ」
ボキリと十本目の矢を折ると、信長は甲高い笑い声を響かせながら去って行った。
今常も濃と松に深々と頭を下げると、急ぎ足で信長を追いかけて行った。
「姫様っ!」
信長の姿が見えなくなると、濃の膝はがくっと力を失った。
松に腕を支えられ、やっと立てるほどだ。
中庭へ目を向けると、潤が茫然とこちらを見ていた。
「潤っ!」
潤の元へと走ったが、その凄惨な姿に濃は手で口を覆った。
潤の両腕両足には矢が貫かれており、両腕はだらんと垂れている。腹に刺さったままの矢も背から突き出していて、潤の浅い息に合わせて、血が噴き出した。
「潤…」
潤はどこを見つめるでもなく、黙っていた。
そしてゆっくりと濃の方へ顔を向け…
倒れた。
「潤っ!」
急いで抱き抱えると白い衣が血に浸った。
潤の身体を揺らした。すると、潤の目が少しだけ開いた。
「潤、潤っ!」
「姫様…あの信長様相手に無茶をされるな。首をはねられるのではと…心配しました。」
「私より自分の身体を心配しろ、馬鹿者が」
潤は、ははっと小さく笑った。
「すみません、濃姫様」
「なんじゃ」
「妻と子を…頼みます」
潤の目はすうっと閉じた。
潤は死んだ。
「潤」
潤の声、潤の笑顔、潤の匂い…共に過ごした日々が濃の頭を鮮明にかけ巡った。
もう二度と戻っては来ない時間だ。
頬を伝う涙を拭わず、濃は潤の顔を静かに眺めた。
「潤、よぅ今まで働いてくれたな。少し疲れたじゃろ。ゆっくり休め。そなたの残した家族は私が必ず護る。心配いたすな」
亡骸が応える事はない。しかし、その死に顔は濃の言葉に明らかに安堵していた。
血と汗で汚れた顔立ちは、かすかに笑っていた。