五の段
「何かしら?」
薄衣を羽織り廊下へ出た。
春の夜明けは心地よく暖かい。
「松、お松っ」
「お呼びでございますか、姫様」
「東殿の方が何か騒がしくないか、こんな夜更けに何をしておる」
すると松は苦々しい顔を浮かべ、俯いた。
見過ごせない顔だった。
「何かしておるのだな。父上が」
言いにくそうに松は口を開く。
「私も様子がおかしいと思い、下女に見に行かせました所、あの…信長様が…」
「父上がどうしたのだ」
おずおずと話す松につい苛立ってしまう。
「信長様が、1人の忍を的に弓を…」
忍と聞いて濃の胸は騒いだ。
「忍とは藍の事か」
「いえ、あの方ではありませぬ」
松がすぐに首を振り、濃は安堵した。
しかし松の顔色は変わらない。
「お松?どうかしたのか?」
よく見ると松の目元には涙が溜まっている。
安堵していた胸がまた騒ぎはじめ、哀れな忍の正体が気になった。
「その忍とは、私が知っておる者か」
「潤、青渴潤殿です」
潤の視界は既に霞みはじめていた。
息も不規則にしか出来ず、肺に空気を吸い込めない。土に染み込む血の匂いが生臭かった。
「あぁ…」
嗄れた声が漏れる。
その瞬間、腹に強い衝撃を受けた。
下に目をやると、九本目の矢が腹に深々と突き刺さっていた。不思議と痛みはなかったが、口に昇ってくる生温い感覚が潤を襲った。
全て吐き出した。
吐いても吐いても、血は多量に昇り潤の口を満たしていく。
とうとう潤は倒れた。
「どうした、もう終いか?あと一本じゃぞ。が、よう耐えておるわ。片腕片足に二矢ずつ打ちこんだというのに全く倒れぬから焦ったぞ。まぁ、濃の護衛を任せる程の忍ではある。濃は主によう懐いていたぞ。あやつは幼き頃から忍が好きでのぅ、儂とは大違いじゃ。そちが死んだら、濃は悲しむじゃろうな」
十本目をつがえながら信長は潤に叫ぶ。
「立て!青渴潤!これで最後、今すぐ楽にしてやるわ」
「…寒い」
潤は全身に悪寒を感じていた。
足を動かそうとしたが、感覚すらもはやない。
手で身体を起こそうとしたが、指を動かす事もままならない。
「少しだけでいい。頼むから」
震える声で自身を励ましながら、矢が貫く腕を少しずつ動かし、ようやく身体だけ起こした。
正面には矢をつがえ待つ信長の姿があった。その顔は醜く笑っていた。潤もその顔に向けて柔らかく微笑んでやった。
「颯季、すまん」
産まれたばかりの赤子達と安らかに眠る妻を思い浮かべ、潤は目を瞑った。
「父上っ!お待ち下さい!」
女の叫ぶ声で潤は驚き、目を開けた。
信長に走り寄って行く者を見て唖然とした。
「濃姫様」
寝間着の娘に信長も驚いた。
「濃、まだ起きておったか」
濃は即座に父親に請うた。
「どうか、どうかもうおやめください。潤は、私の護衛の者。何故私に一言も仰らず潤をこの様な目に遭わすのですか?」
信長は「なんじゃ、そんなことか」と軽く笑った。
「この者は儂の下した命を怠ったのだ。ゆえに、こやつを儂直々に罰していただけじゃ。案ずるな。もうそなたは早々に部屋に戻って休め。明日からは別の護衛の者を用意してやろう」
「潤は?どうするおつもりですか」
「見て分かるであろう」
信長の指差す方へ目をやると、潤がぽつんと庭の中央に、血溜まりの中に座り込んでいた。その顔に、生気などない。
潤が死ぬ事が怖かった。藍が去って行った後、寂しがる濃を隣で慰め支えてくれたのはこの潤だったのだ。
想い人が居なくなる辛さを濃は初めて経験した。その感情をどう消化すればよいか分からず、ひたすら耐えていた。そんな濃に潤は…
「我慢などしてはいけませぬ、姫様。辛いと感じているなら泣くのです。この潤の前では何も隠す必要がございません」
そこで濃は泣いた。
潤の胸に顔を埋め、声を上げ泣いた。
潤の衣服からはいつも清潔な香りがしていた。良い香りですねと言うと、
「妻が綺麗好きなのです」
潤はにこりと幸せそうに笑って言った。その顔を見るだけで濃まで幸せな気持ちになれた。
ある日、濃が部屋で文を書いていると、音もなく潤が天井から降りてきた。潤の顔はいつもより増して笑みが溢れていた。
外で控える松に気付かれぬよう濃は静かに聞いた。
「今日はいつもより嬉しそうじゃの」
潤は笑顔のまま、濃の耳元に近付き囁いた。
「子が産まれました。今日からは双子の父です」
「なんじゃとっ!?」
部屋の外まで轟く声が出た。途端に血相を変えた松が障子を乱暴に引いて入ってきた。
「姫様っ!どうなさいました?」
いつのまにか潤は消えていた。
「あ、いや、何でもない。独り言じゃ。気にするな」
「もぅ、いきなり大声出されるもんだから心の臓が止まりそうになりましたよ」
「すまぬ、松。私が悪かった。もうよいから下がれ」
松が出ていくと濃は天井を見上げた。
そこから気配を感じたからだ。案の定、天井板を一枚取り除いた穴から潤がこちらを見ていた。
「い・わ・い・を・い・う・ぞ」
口の形のみで伝えるとそれを読み取った潤は笑って頭を下げ、板を戻した。