三の段
「えっと、食料買った。酒買った。農具買った。馬買った。他に忘れてる物はないか、晶」
藍に渡された調達用紙を片手に翡翠は荷馬車に買ったものを積んでいく晶に声を掛けた。晶は手を止め一旦積み上げた品を確認すると翡翠に向かって首を振った。もう十分だ、と言いたいらしい。
「後は藍さんが帰ってくるの待つだけだ。ってか、藍さん遅くね?結局買い出しも全部俺達がやったしよ。何処で何やってんだ。お前、知ってる?」
積み終わった荷の上にどかっと豪快に座ると晶は自分の小指を上にピッと立て、にこっと口角を上げた。翡翠はその意味が分からず首を傾げた。容姿端麗なこの忍は色恋事については全くの無知なのだ。晶は情けなく息を吐き、横を通る仲睦まじい男女を指さす。そこでようやく翡翠も解る。
「あー、なるほど。女か。……えぇっ?!女?藍さんが!?」
「……………」
「ほんとかよ、こりゃあすごい事聞いちまった。藍さんが惚れた女。一体どんな女なんだろう、見てみてぇな」
興味心湧き出る瞳は夕暮の空を仰ぐ。赤茶色に染まった空はいつになく美しかった。
「綺麗な空だなぁ」
「がっ?!」
男の叫び声が不意に響いた。
それでも翡翠は夕焼け空を見上げたまま振りかえる事なく、微笑を浮かべた。
「ありがとうよ、晶」
そこでようやく後ろを向いた。足元には刀を握った男が晶の放った苦無に背を突き刺され転がっていた。
その顔をのぞき込むようにしゃがむと、痛みに呻く男の胸倉を掴み優しく聞いた。
「晶に感謝しな。アイツがその気ならこの苦無はお前の腹を貫いていたんだ。で、あんた誰?どうして俺を殺そうとした?」
「貴様ら、信長様から逃げ失せられると思っているのか。馬鹿者が」
刺客の男は苦し紛れに血痰を吐いた。
「信長ねぇ…あの人もしつこいなぁ、もう放っておいてくれたらいいのに」
「あの方を裏切って無事でいられると思うなよ。所詮貴様ら忍は己が死ぬまで主君から離れられぬ生物。生ある内に自由になろうなど思い違いも甚だしい。恥を知れ」
「自由のない生など死んだも同然。そうは思わんか」
刺客は押し黙ったが、目は翡翠を睨んだままだ。
「藍はそれに気付いた。俺達の為その命を冒して信長から逃がしてくれた。信長に伝えるがいい。いつまでも腐った女の様に藍さんを追い掛け回すのは止めろ、とね」
翡翠が胸倉を離すと、刺客は悔しげに唸りながら近くに転がる刀を取り、己の首筋に当てた。
翡翠も晶も、刺客がやろうとしている事を黙って眺めた。
刺客は遂に、自分の首を掻き切って自害した。
完全な骸になった刺客に翡翠は鼻でふん、と笑った。
「『任務を果たせずは己が命をもって報いろ』……散々信長の前で復唱させられたぜ。反吐がでる」