十六の段
「塵、塵!」
ようやく聞こえた葉紅の声にハッと我に返った。
隣を向くと葉紅が心配そうに塵を見ている。
その距離は近い。
「どうしたの?急に考え事しだして…やっぱり、熱が上がったんじゃ…」
そう言うと葉紅は先程よりもっと近く、自分の額を塵の額に付けようと寝ている塵の体にかぶさった。
「いぃっ!?は、葉紅!顔が近い!今すぐ降りろ!」
慌てて起き上がろうとすると肩を力一杯掴まれ押し倒された。
「何言ってるの?こうでもしないと熱があるかどうか分からないでしょ。ほら、じっとして」
葉紅の薄くしなやかな唇がどんどん近づいてくる。
塵は咄嗟に目を瞑った。
身体が奥底から熱くなる。多分自分の顔は人に見られないくらいもっと赤いだろう、と塵は思った。
トン、と冷たい感触が額に優しく伝わる。ビクンと身体がはね動揺が伝わった筈なのに葉紅は目を閉じたままじっと塵の熱を測った。
「うっ……」
「じっとして」
――抵抗を諦めた。すこしでも体から遠ざけようと押し上げていた葉紅の肩を離した。
それはほんの数分の事だったが、塵は数刻(数時間)に感じた。
「……うん、やっぱり熱いわ。傷のせいかしら。他に苦しい所はない?」
額をつけたまま葉紅は目を開け聞いた。
その時…葉紅の中で何かが動いた。
吸い込まれるような灰色の綺麗な瞳――土久里と、夫と同じ目を塵は持っている。
「…………」
葉紅の目が大きく開いたのを塵は見逃さなかった。
「…?葉紅?どうした…」
葉紅は避けるように塵の体から降りると乱れる呼吸を整えるように胸に手を当てた。
「ハァ、ハァ、ハァ………」
「葉紅」
「ハァ、ハァ……ハハッ、アハハハッ」
狂った様に葉紅は笑い始めた。可笑しくてたまらないようだ。その様子を塵は黙って冷静に見続けた。
「今、今ね、あなたの顔が土久里に見えたの。だってあの人と同じ目を貴方がしているんだもの。………どうしてよ、どうして!!あなたに会う度あの人を思い出してしまうのよ!どうして忘れさせてくれないのっ!」
葉紅の怒号とつんざく泣声が夜更けの部屋に響いた。
わぁーわぁーと泣く葉紅は身体を丸め拳を丸めて床を叩いた。叩けば叩くほど拳の皮膚は破れ血が畳に染み付いた。それでも葉紅はやめなかった。
傷ついた拳の痛みより愛する人を忘れられない悔しさが勝って仕方が無い。
ドンッ…ドンッ…ガシッ!!
「!?」
強い力で手首を掴まれ葉紅は驚き相手を見た。
「やめろ」
有無を言わせない低声が葉紅の涙を止めた。
「……塵…」
塵は肩を掴むとゆっくりと立ち上がらせてくれた。
我を失った行動に恥ずかしさを覚え葉紅はうつむいた。
「ごめんなさい…私何やって―っ!?」
抱きすくめられる身体、硬い身体に押し付けられた顔、力が抜けるような安心感すら感じる……
「塵……?」
「……………」
「塵?どうし―」
「泣け」
「え?」
葉紅の身体を一度抱き直すと塵は小さく笑った。
「忘れなくていいんだ、葉紅。無理に笑う事も泣くのを我慢する必要もない。素直になるんだ」
「で、でも…私今泣いたら――」
「俺がいる。葉紅が笑って生きて行けるように俺が傍にいる。俺が―土久里になる。その代わり、あいつの事を、土久里を忘れないでやってくれ。あいつは、本当にお前の事が好きだったんだ―――俺も、葉紅が好きだ」