十五の段
就きたくもない床の中で葉紅は虚ろな目を天井に向けていた。今日の疲労感はいつもと違う。
体の上に大きな岩が置かれているようだ。もがいても、もがいてもその岩は少しも動かない。
誰も助けてくれない。
心の中の自分の姿に葉紅は息苦しさを覚えた。
「はぁ..」
何度目か分からない溜息を最後に葉紅は目を瞑った。
すると...
「誰か、誰かいないか!」
突然、男の怒鳴り声が聞こえた。
「え?」
警戒を解かず、布団の中から様子をうかがった。
男は戸を叩き続けている。
酔っ払いの仕業だと思い、葉紅は布団を被り直そうとした…
「怪我人がいるんだ!」
葉紅は飛び起き、急いで戸へと向かった。
「怪我人って何を…きゃっ!」
そこにいたのは見知らぬ若い男と、昼間に会ったばかりの塵であった。塵は男に担がれており、頭を垂れていた。
よく見ると、塵の肩から血が滴れている。力なく垂れ下がった腕から赤黒い液体が、地に染み込んでいった。
「あー、良かった。あんた、葉紅だろ」
男は心底ほっとした様な様子で話しかけてきた。
何故自分の名前を知っているのか葉紅は不思議に思いながら返事をした。
「はい。そうですが...」
まじまじと目の前の二人を観察してみると、見覚えのある服装に葉紅はあっと声を出した。
男は葉紅の考えを見透かしたように、にっこり微笑んだ。
「あんたの死んだ主人と同じ仕事をしていてね。今日の敵はなかなかの手練れで俺もこいつも、けっこうやられちまった。いきなりで悪いが、こいつの手当をお願いしたい。後で迎えに来る」
「え?迎えに来るって…うわっ!」
突然、塵の身体を預けられ葉紅は後ろに倒れそうになった。細身に見えたが、塵の身体は大岩の様に重かった。
「敵はまだ追ってきてる。俺はこれから奴等を遠くへ引き離す。その間そいつを預かっておいてくれ。知らない男じゃないから安心だろ」
「知らなくはないですが」
痛みに呻く塵を一瞥し、葉紅は『気まずい』と心で呟いた。
次に葉紅が顔を上げると藍の姿は何処にもいなかった。
「塵殿、あと少しだから頑張って下さい」
女の力で大の男を担ぐのは限界がある。なかば引きずる形で塵の身体を畳に上げた。この間に、葉紅は自分の身体が汗で火照るのを感じた。
何とか塵を布団に寝かせると傷の具合を見るため上半身の装束を脱がせた。布団は塵の血で赤く汚れた。
「すみません」
湯を沸かしていると、後ろから小さい声が聞こえた。
「え?」
振り向くと、額に汗をかき、苦しそうな表情の塵がこちらに顔を向けていた。
「あなたの布団を汚してしまって」
葉紅は何も言わず、沸いた湯を桶に入れた。
「傷を拭きます。少し痛みますよ」
葉紅の言葉に塵は目を瞑ったまま頷いた。
塵の傷は思った以上に浅く、出血はひどいものの、布で傷口を拭いていくと、血は直ぐに乾いた。それでも傷に触るたび、塵の身体はびくんと動いた。湯が傷に沁みるようだ。それでも、布団の裾を握り締め、声を荒らげる事もなく耐えた。
「傷はそう深くありませんでした。念の為、薬を塗っておきます。先程より沁みると思うのですが大丈夫ですか?」
自分の額の汗をぬぐいながら葉紅は塵に聞いた。
すると塵は少し笑って、目を閉じたまま、葉紅に答えた。
「昼間の仕返しだと思って遠慮なくやって下さい」
最初、葉紅は驚いた。
だが、塵の返事に思わず笑ってしまった。
「では、遠慮なく」
塵の手当が終わる頃には、外が少し明るくなり始めていた。
「大分楽になられましたか?塵殿」
徹夜でへとへとになってしまったが、不思議と葉紅の胸の内はすっきり爽快だった。
「殿はいりません。名で呼んで下さい」
塵も大分楽になったのだろう。
声の調子が幾分良くなっていた。
「え?あ、じゃあ……痛みはどうですか?塵」
あまり親しくない男を呼び捨てにするのは、慣れない。
ぎこちなく話す葉紅に、塵は笑った。
「助かりました。いつもはこんな失敗をしないのに…昨夜は気が緩んでいたようです。恥ずかしい話です」
頭をかきながら塵は、恥ずかしそうに俯いた。
その姿は、土久里とよく似ていた。
「大変なお仕事ですね。夫の衣服もいつも血で汚れていました。なかなか取れず洗濯によく苦労しました。フフッ、あの人ときたら、いつも私に傷を隠していたんですよ。自分で転んだ、とか言ったりして。おかしな人です」
「土久里の事、忘れてはおられないのですね?」
「はい、愛しておりましたから。だから苦しいのです。思い出せば出す程、胸が張り裂けそうになる。私はね、塵。今泣いてしまえば、多分死ぬまで笑う事が出来ないと思います。土久里が死んだ今となっては私は独り。だから、私は自分が死ぬ日まで笑顔を忘れず生きていきたい。夫に見習ってね」
「笑顔…か」
葉紅の夫 土久里と塵は同郷の仲であった。忍の世界では、同郷同士の朋輩は助け合うのが暗黙の決め事だった。土久里が処刑される事は直ぐに塵の耳に入ってきた。塵は土久里のいる
牢の中、拷問で血みどろになった顔、折られた手足はあり得ない方向に曲がっている。それなのに、確かに土久里は笑っていた。主君に裏切られ、これから処刑されるというのに……
『塵、葉紅を連れて来てくれないか』
『何言ってる、俺はお前を助けに来たんだぞ。最期の頼みを聞きに来たんじゃねぇ』
土久里は首をゆっくりと横に振った。
『この身体じゃ逃げ出しても直ぐに捕まってしまうさ。俺だけじゃない、葉紅まで殺されてしまう。もう、いいんだよ。これで』
『土久里…』
土久里はふぅーっと長い息を吐いた。
『少し疲れた、早く眠りたいんだ。でも…最期に葉紅の顔だけ見たい。葉紅は道端に捨てられていた女でな、俺がいなきゃ独りぼっちなんだ。伝える事がある……頼む』
『……分かった』
『――塵!』
牢から離れようと歩き出した時、後ろから土久里に呼び止められた。
『なんだ?』
『俺が死んだら、葉紅の傍に居てやってくれないか』
『…それはどういう意味で捉えればいいんだ?』
『お前に任せるさ』
ニッコリ微笑むと土久里は糸が切れたように目を閉じ眠り始めた。