十二の段
少し熱めの湯加減は、荷馬車で揺られ続け疲れきった身体を優しくほぐした。白湯に肩まで浸かると颯季はふぅっと息を吐く。吐息は湯気と混じり合い、澄んだ夜空へと昇っていった。
今日は満月なのにいつにも増して月が小さく遠くに感じた。
「潤………」
死んだ夫の名が、薄い唇からそっと漏れた。
「誰?」
不意に背後に人気を感じ、颯季は片腕で胸元を隠しながら振り向いた。
「あ、驚かせてしまいましたね。あなたの着替えを持ってきました。私と背は同じぐらいでしたから丁度いいと思いますよ」
「あ……ありがとうございます」
湯所の戸を引いて入ってきたのは、優忍 副忍頭 木蘭塵の妻 葉紅だった。艶のある黒髪を銀色の簪で結えており、葉紅が動く度にしゃりん、と鈴が鳴った。
「古籠の奥へしまっていたものですから、臭いがするかもしれません。許して下さいね」
「はい。ありがとうございます」
葉紅は颯季の着替えを乾いた石の上に置くと、湯に浸かる颯季の元へ近寄った。
「湯加減はどうですか?」
「少し熱いです」
葉紅はふふふと笑い、颯季もようやく口元を緩めたが、すぐにその表情は固くなった。
夫 塵から事の事情を聞いた葉紅は、若くして夫を亡くした妻に心から同情した。しかしこれが忍の夫を持つ妻の宿命である事を葉紅はとうの昔に知っていた。
葉紅は着物の裾を膝上まで上げるとチャポンと足だけ浸けた。上を見上げれば、満月が黒い雲に隠れ始めていた。その月を見ながら葉紅は口を開いた。
「先ほど夫から全て聞きました。潤殿の事、さほどお辛かったでしょう」
「……分かりません」
「え?」
「分からないんです。あの人が死んだという事実が、まだ自分の中で掴めていないのです」
「……そうですか」
颯季は力無く笑い、つづけた。
「何せ夫が家に戻ってくるのは二月に一度くらい。その生活に慣れてしまいましたので、この度も長い長い仕事に出掛けたのだろう、と考えている自分がいるのです。もう、二度と帰っては来ないのに。
可笑しいですよね、私ときたら。悲しい筈なのに涙も出ないんです。どうしてでしょうか?」
「私もそうでしたよ」
「え?」
颯季はきょとんとした目つきで、葉紅を見た。
葉紅は颯季に微笑むと、視線を月へ戻した。
「今の夫 塵と出会う前、私には最初の夫がおりました。その夫も忍を生業とし、とある大名家に仕えていたんです」
「そうだったのですか。今そのお方は?」
「死にました」
小さな声でハッキリと葉紅は答えた。
颯季は口をつぐんだ。
「その頃夫が仕える大名が隣国の大名と敵対関係になり、夫はその大名の暗殺を任されたんです。しかし、暗殺は失敗。夫は敵に捕まり、酷い拷問にかけられました」
「仕えていた大名は助けては下さらなかったのですか?」
葉紅の頬は少し紅潮し始めた。颯季も同じだった。
怒りを抑えるように、葉紅は息を吐いた。
「助ける?いいえ、助ける所か暗殺は夫自ら企てたものだと嘘をついたのです。それを信じた敵の大名は忍の処刑を肴に大名を酒宴に招きました。処刑の前、夫は友であった一人に頼んで、私を牢まで呼びました。私は余りにも惨い夫の姿をみて泣きました。それでも夫はその顔から笑みを絶やさず私に言いました」
『お前は良い妻だった…生きろ、葉紅』
そこまで話すと葉紅はすすり泣き始めた。颯季はただ黙っていた。少し落ち着くと、葉紅は溢れた涙を拭いた。
「夫が処刑された時、私は泣きませんでした。泣けなかったのです。どうしてかは分かりません。夫の首がはねられ、その地に落ちても、私には何も感じる事が出来なかった。それからは夫を思い出さない様に生き、毎日を忙しく過ごしました。何もかも忘れようと思いました」
『今の私みたい…』
颯季は心の中でそう呟いた。
長い脚を組み換えると葉紅は続けた。
「暫くすると私の中に生きていた夫は少しずつ消え始めました。寂しい様に思えましたけど…これで良かったんだと安堵する自分もいました。その頃、とある人が私を訪ね、やって来ました。最初は分かりませんでしたが、その人は夫がいる牢へ連れて行ってくれた夫の友…今の夫でした」
『あなたの事が心配になり様子を伺いに来ました』
葉紅が洗濯をしていると、いつの間にか背後に現れた塵に驚き、葉紅は危うく川に落ちそうになった。
しかし、塵に腕を掴まれ、勢いよく引き戻された。
葉紅の体は塵の腕の中にすっぽりと入った。
「あ、すみません」
塵はすぐに葉紅の身体を離した。
少しの沈黙があり、葉紅は塵に話しかけてみた。
「あなたは。確か夫の処刑の時の」
男は僅かながら微笑むと、葉紅に頭を下げた。
「土久里については、申し訳ありませんでした。あれから何度か伺おうと思っていたのですが、なかなか行けず…ずっと貴女の事が心配だったんです」
「私の事が?」
塵はこくりと頷いた。
少し顔が赤くなった様に葉紅には見えた。
「そうでしたか」
戸惑いの反面、少し嬉しくもあった。家族も親戚もいない天涯孤独な葉紅を心配してくれる人が、この世にまだいる事が嬉しかった。
葉紅は警戒を解き、満面の笑みを塵に向けた。
「お心遣いありがとうございます。あれから年も経ちましたし、心の整理もつきました。夫の事も少しずつではありますが忘れる事が出来そうです」
葉紅の言葉に塵の顔つきが変わった。
「忘れる?何故忘れる必要があるのですか?」
少し威圧のある声に葉紅は笑みを浮かべたまま固まった。
「貴女にとっては数年で忘れられる程度の男だったという事ですか?」
「え………」
言葉が何も出て来なくなり、何を答えればいいのか分からなかった。
そんな様子の葉紅に、塵は哀しげな表情を浮かべると菅笠を被り、葉紅に背を向け早足で去って行った。