十一の段
「殿、首が届いております」
今常が障子の向こう側にやって来た。
「きたか」
信長は待ちかねていたと言わんばかりの微笑みようだ。その顔を、未だ自分を蔑むように睨む藍に向けた。藍は一言も発さず、黙ったままだ。
「失礼致しまする」
今常が入ってきた。手には漆で艶めく蓋付きの桶を持っている。将棋盤を横へやると、桶をそっと置いた。
今常の掌は桶から滲み出す血で真っ赤に染まっていた。
「今宵遣わした男は儂が今気に入っている者でな、名は黒住と言う。そなたにもいづれ会わせてやろう」
「黒住…そうですか。名は黒住と言うのですね」
藍がぽつりと呟く言葉に信長は違和感を覚えた。
信長は眉間に皺を寄せつつ、蓋に手を掛けた。
蓋が開くと同時に部屋の中に悪臭が解き放たれる。
血の匂いに慣れている者でなければ耐えられず吐いてしまうだろう。
藍は涼しげに桶の中の首を眺めた。
信長は、違った。
「………どういう事じゃ、これは。何故、黒住の首が入っておる?」
信長のこめかみに薄らと青筋が立ち始めた。
桶に入っていたのは潤の妻子などではない。そこに入っていたのは白目を剥き出しにして死んだ黒住の首1つだけだ。
こんな細工が出来るのは信長の知る限り一人しかいない。
「貴様の仕業じゃな、藍」
凄まじい形相へと変わる信長に、藍は余裕の笑みを浮かべた。
「黒住は罪のない女子供を殺そうとした極悪人でございます。よって、私の部下が成敗いたした。青渇潤の妻子は我が忍衆が保護し、今頃は安全な場所にいるでしょう。信長様、覚えていて下さい。あなた様の思い通りに事は運ばせません。私の忍道は"優心"。この言葉通りに私はこれから生きて行くつもりでござりまする。たとえ、それがあなたに敵する事になっても…」
「もうよい。藍、そなたの言いたい事は分かった」
話を遮る信長の顔は元の穏やかな顔つきに戻っていた。膝に手を当て立ち上がると、信長は藍に背を向けた。
「そなた、やはり死ね」
藍の背に冷気が走った。
「儂の元から逃げ出した者に、儂は当然の如く死を与えてきた。しかし、そなた…いや貴様だけは生かし連れ戻らせようと考えていたのだが、やめた。黒紅藍、逃げてみろ。どこまでもどこまでも儂は追ってやる。捕らえた暁にはその身体八つ裂きにして人間だと区別がつかなくなるまで生かしてやる。どうじゃ?楽しそうじゃろ」
振り向いた信長の目は好奇と興奮でぎょろぎょろと動き気味が悪いものに変わっていた。
「信長様…」
信長の救いようのない狂気に藍は深く哀しみ、立ち上がると、その場から消え去った。