第一話 『少年と彼女』
朝だ。
陽の光が差し込む部屋で、彼は目を覚ました。
「ふぁ~……今日もいい天気だ」
寝起きの良い彼は、すぐに身支度を済ませ部屋のドアを開ける。
階段を下る音。
静寂が残る部屋。
その一角にある机の上には、真新しいトロフィーと賞状が無造作に置かれている。
賞状には彼の名が刻んであった。
『日向氷介』
その下には功績が。
『高校生大会……優秀賞』
階下に降りた氷介は、いつも通りに母親に挨拶をする。
「かあさん、おはよう」
「おはよう、氷」
「……その呼び方やめてくれる?」
「いいじゃないかい……いちいち介まで言うの面倒くさいし?」
「実の親が息子をあだ名で……しかも面倒くさいとか言ってしまったら終わりでしょ……」
いつも通りの朝。
いつも通りの、母が作る美味しい朝御飯をたらふく食べる。
いつも通りの時間に、鞄とスポーツバッグを持って出かけようとする氷介。
その彼を、母が呼び止めた。
「大丈夫なのかい?
先週末の大会でちょっと怪我したって……」
「これくらいなんてことないって!
んじゃ、行ってくる!」
玄関のドアを開け、自転車にまたがり猛スピードで飛び出す氷介。
何一つ変わらない。これが彼の日常だった。
中央高校。
この都市の中心部に近い位置にある高校だ。
氷介の家からは自転車で20分ほどの距離にある。
途中に坂があるのが不満だが、文句を言っても仕方ない。
やっとのことで坂を上り終え、運動後の気持ちの良い汗をかきながら
氷介は学校へと辿り着いた。
昇降口で靴を脱ぎ、上履きと履き替える。
ふと、自分の足元に目が行った。
「あれ……?」
赤い、点々とした液体。
昇降口からここまで、そして更に校舎内に続いている。
「なんだ、これ……気持ち悪い」
触ってみる。
ザラリとした感触に、既にそれは乾いているのだと判断できた。
「き、きっと絵の具か何かだ。 気にすることはないかな……」
そう結論付け、彼はさっさと教室へ向かうことにした。
2-Aの教室。
「うーっす」
「お、やっと来たな」
「待ちくたびれたわよ」
口々に言うクラスメート。
制服を崩して着ている不良風なのが、『夏江涼』
ポニーテール髪を纏めて碧眼の真面目そうなのが、『藤沢憂映』である。
この二人は、高校入学時からの氷介の親友だ。
「僕はいつも通りに来たよ?
そっちこそ、いつもより早いと思うけど」
「まぁ、ちょっとお前に用があってな」
「見たわよ、昨日の新聞」
楓が昨日の夕刊を広げてみせる。
「ん?」
「とぼけるんじゃねぇよ。
お前、何気にやってんじゃねぇか」
「少林寺拳法全国大会・高校生の部・優秀賞・日向氷介。
あまり取り上げられなくて小さいけど、しっかり名前入りで新聞に載ってるわよ」
「それって凄い事なのかな?」
「すげぇに決まってるだろ。ていうかさ、お前、凄いよな。
優秀賞ってのが何かよく解らねぇけど」
「あー、それは――」
少林寺拳法の大会には、優勝や準優勝などの概念は無い。
そもそも空手や柔道のような強さを競う試合が無いのだ。(乱取りという競技はあるが)
代わりに演武という、型を如何に上手く出来るかを競う競技がある。
単独演武、組み演武の2種類があり、今回、氷介は単独演武で賞をもらっている。
ちなみに、優秀賞とは2番目に良かった者――つまり銀賞、または銀メダルに匹敵する賞だ。
「来月には昇段試験もあるんだろ?
お前、最近調子いいなぁ」
「今は2段だから、次に狙うは3段!
でも実技や学科が大変なんだよ……」
「同時に学生もやってるわけだしね。
ま、焦らずのんびりやりなさい」
「ありがとう、憂映」
その時、教室のドアがガラリを開く。
「ういーっす、みんな席に着けー」
担任の高須先生だ。
どこにでもいるような大人で、温厚な性格でノリも良く、多数の生徒から好かれている。
語尾をやたらと伸ばして話すのが特徴的だ。
皆、のんびりとした様子で席に着き、その様子をやはりのんびりと眺めている担任。
皆が静かになった頃、高須先生はホームルームを開始した。
「えとー、今日は委員会があるから
学級委員長は放課後、第二会議室に行けー」
「げっ……今日は早く帰ろうと思ってたのにぃ」
「ご愁傷様」
「委員長は大変だね」
窓際の席に3人は集まって座っている。
最奥の机に涼、その前に氷介、憂映と並んでいる。
「あと、来月は定期テストがあるからー。
皆、一ヶ月くらい前から準備しておくをオススメするー」
「テストかよ……めんどくせぇ」
「いい加減、クラス最下位の汚名を晴らした方がいいよ?」
「やだよ、めんどくせぇ。
それに俺には陸上があるから、問題ねぇよ」
涼は陸上部所属だ。
テストの成績は最悪に近いものの、部活での成績は上々。
いつかスゲェ陸上選手で食っていく、というのが彼の口癖だった。
「えーっと、後の連絡事項は……。
あ、今日は保健室の先生が休みだー。
何か怪我とかしたら、職員室の先生に言うことー」
「いや、昨日のはマジで爆笑だったぜ」
「僕も見た! 昨日のは最高だよね」
「ねぇ、それって感動モノのドラマじゃなかったっけ、ねぇ?」
「そこの三人ー。
あんまり話を聞かないんなら、先生の百烈拳が火を噴くよー?」
「す、すいませんでした……」
こう見えて高須先生は空手部の顧問だ。
部活の時だけ鬼軍曹と呼ばれるほどの豹変を見せるらしい。
ちなみに氷介所属の少林寺拳法部の顧問を敵視しているとか。
だからといって氷介達をひいきするようなことはしない、良い先生だった。
「んじゃー、今日も皆がんばれー」
何やかんやありながらも、その日も普通通りに授業は進んでいく。
そして4時間目の体育の時間。
今朝はあれほど晴れていたのだが、今の空の色は灰色だ。
今にも雨が降りそうな、不気味な曇天が空を覆っていた。
「サッカーの予定が天気のせいで、体育館でドッジボールすることになったらしいよ?」
「えー、ドッジって手ぇ抜けねぇからめんどくせぇんだよなぁ」
ワクワクしたり文句を言ったりと、彼らは体育館に集っていく。
体育館。
教室や廊下より少し冷えた空気の中、2-Aの面々は試合を開始する。
「勝負だ、涼!
負けた方が来週の学食おごること!」
「負けたときのことを考えるなんざ、5流のやることだぜ」
と、氷介とは敵のチームがボールを投げる。
軌道は鋭く氷介を狙っているが
「何の!」
氷介が身を逸らす。
外野に飛んだボールをキャッチしたのは涼だ。
彼は隙だらけの氷介を狙い、表情を一変させながら
「テメェの腹には、何が入ってますかぁぁぁぁ!?
ぶちまけられる臓物の奥に意気が入ってねぇと、3流にもなれねぇぞ!」
「そんな、5流とか3流とか……!
アンタは1流だとでも言うのか!?」
「俺ぁ、夏江様だぜ!?
なぁに人間の尺度で計ってんだぁ!?」
それにしてもこのコイツら、授業中でありながらノリノリである。
掛け声と共に投じられるボール。
無論、氷介を外野送りにするためだ。
対する氷介は、拳を構える。
「僕の! 拳は!」
足を引き、腰を落とす。
「たとえ隕石でも貫けぶるぁぁぁぁ!?」
顔面にボールがヒット。
敗因は、そのセリフの長さだった。
暗転する視界で、氷介は思う。
(そもそも拳で殴ったらアウトだった……)
ドサッ、と冷たい体育館の床に倒れる氷介
スローで。
「氷介!?」
「敵が弱いと……戦った後、虚しくなるんだ……」
「いつまでくだらない芝居してるのよ!
鼻血出して倒れてるじゃない!」
「正直悪いと思っている……」
クラスメート達が、倒れた氷介の側に駈け寄る。
「こ、これくらいなんてこと……」
鼻血をドバドバ流しながら爽やかな笑顔で言う氷介。
へっちゃらなわけがないのは一目瞭然だ。
「ったく、不用意にはしゃぐからこうなるのよ?
ほら、一緒に保健室に行ってあげるわ」
「一人で行けるから大丈夫。
みんなは体育を続けるといいよ」
ヨタヨタと歩いていく氷介。
それを心配そうに見送る憂映。
それを複雑そうに見つめる涼。
何とも微妙な関係が出来上がっているようである。
「保健室ー、保健室ー」
呻きながらフラフラと誰もいない廊下を歩く。
その姿はもはやゾンビだ。
保健室のドアを開ける。
「すいませーん、鼻血が出ちゃいましたー」
「む、それは大変だな。
ほら、ここにティッシュがあるから使え」
「どうもー」
ティッシュを受け取り、鼻血の処理をする氷介。
彼女はその様子を見ながら
「しかし、何があったのだ? 喧嘩か?」
「ドッジボールをしていて……」
「ほぅ、それは元気で良いことだ。 子供は風の子といって――」
「ところで……」
「なんだ?」
数秒の沈黙。
氷介は深く息を吸い、言い放った。
「ア ン タ 誰 !?」
対する彼女も堂々と言い放つ。
「保 健 の 先 生 だ」
「保健の先生は、黒いコートなんて着ないよ!」
「まぁ、それは、その……最近の流行でな。
ばい菌の味方のフリをして、背後から暗殺するという意味があって……」
「へぇ~、それは知らなかった。
最近の医療は進んでるんだね」
目をきらきらさせながら、本気に信じた氷介。
どちらの頭のネジが飛んでいるのか、それは誰にも解らない。
と、その時。
「……? 何の音?」
甲高い音が、小さくも何処かから鳴り響き始めたのだ。
保健の先生(自称)が、コートの胸元を押さえながら立ち上がり、鋭い視線で外の様子を伺いだす。
「ど、どうしたの?」
「いや、何でもない……」
そのまま氷介の傍らを通り過ぎ、保健室のドアに手を掛ける。
「何処に行くの?」
「所用が出来た」
ドアが閉まる。 一人残された氷介は、鼻に詰めたティッシュを抜きながら
「保健の先生も大変なんだな……」
と、のん気にコメントするのだった。
☆★☆
保健室を飛び出した彼女は焦っていた。
まさか、もう見付かるとは。
怪我の応急処置は済んだものの、体力はまだ完全に戻ってはいない。
「どうするべきか……」
この学校内で戦闘を起こせば、それこそ被害が甚大になりかねない。
かと言って逃げようとすれば執拗に追いかけられ、いずれは仕留められるだろう。
己の体力・戦闘力、相手の戦力を考えれば――
「 『8th』 を使える者が近くにいれば……」
もしそれが叶うのならば、現状打破は可能になるかもしれない。
だが、そんなに簡単に 『適合者』 は見付かるのだろうか……?
そこまで考え、昇降口から外へ出ようとした時だ。
「やーっと現われやがったか」
「!?」
瞬間、身を投げる。
鋭い金属の音と共に、鎖が襲い掛かってきた。
間一髪で回避。
見れば、昇降口の入り口に誰かがいる。
「よぉ……昨日は世話になったなぁ」
「くっ……」
「俺様から逃げられるとでも思ったのかよ?
『9th』 を持つ俺様は、 『8th』 を持っているテメェなんて簡単に見付けられるんだぜ?」
つまりだ、と彼は続ける。
「テメェが 『8th』 を手放さない限り、テメェに命はねぇ……俺様が殺すからな。
それが嫌だっつーんなら、さっさと出しな」
「……断る」
「死刑けってーい」
ニヤリと笑い、鎖を振り回し始める。
対する彼女は、隠し持っていた刀を抜き構える。
男は銀光鋭いその刃を半目で睨みながら
「お前、頭悪ぃなぁ……昨夜ボコボコにされたの忘れたぁ?」
「…………」
「ま、仕方ないかぁ。
失敗作だもんなぁ!」
「っ!」
その言葉と、彼女の疾駆は同時。
相手の鎖が放たれる前に接近を試みる。
「ひゃは! ノロマのグズがぁ!」
地を蹴り、昇降口の外に後退。
結果的に、彼女と男の距離はさほど変わりはない。
その出来た空間と時間を用い、鎖を振る。
「くっ……!」
振るう刀身に、鎖が蛇のように巻きつく。
昨夜と同じ状況だ。
「死ねよ」
男が、思い切り鎖を引いた。
凄まじい力。
女の身体は、一瞬で宙に浮き投げ出される。
「っ……!」
昇降口を飛び出し、男を飛び越え、更には地面に叩きつけられる。
肺から酸素が強制的に漏れ、小さな嗚咽が鳴る。
場所は校門の側のロータリーだ。
その中心付近に叩きつけられた彼女に、男は悠然と歩いてくる。
「テメェに勝ち目はねぇよ。
そもそもウェポンを使わないお前に、何が出来るってんだ?」
「出来るさ……」
女は身を起こしながら答える。
「一応、聞いておこうか?」
「貴様に一泡吹かせることだ!」
瞬間、立ち上がり地を蹴る。
鎖に引き寄せられる前に接近すれば、あのように身を投げられることはない。
「テメェにしては考えたな!」
だが、と男は口に笑みを浮かべる。
「ふっ!」
下から切り上げるように一閃。
が、手ごたえはあったものも、男を切断するまでには至らなかった。
「お前が接近してくれたお陰で、自由に使える鎖の量が増えたぜ?
つまり俺様は、接近戦しか出来ねぇ敵と一番相性がいいってこった」
男は余った鎖で刀を防いでいた。
「そろそろ終わりだ!」
一瞬で鎖を拳に巻きつける。
女がその意味に気付いたときには、その胸元に拳がめり込んでいた。
「がッ……!?」
崩れるように膝を折る。
肺に衝撃を与えられたせいで、まともに呼吸が出来ない。
「近距離でも中距離でも滅法無敵……それが俺様の 『9th』 の力だ」
変幻自在。
それがこの男の強さの所以だった。
「さぁて……そろそろ死刑の時間だぜ」
鎖を構え、女の息の根を止めようとした時だ。
昇降口の方から、声が響いた。
「ちょ、アンタ何やってんだよ!?」
見れば、昇降口から男子生徒――氷介が走ってきていた。
それを見た男は一つ舌打ちをする。
「ちっ、見られたか……。
ま、こんな昼間から戦り合えば当然っつったら当然か」
鎖を持ち、振るう。
地を這うように、そして蛇のように飛ぶそれは、氷介の足に絡まりバランスを奪った。
「うぐっ!?」
どさりと無様にこける氷介。
その様子を見ながら
「テメェはそこで転がってな。
この女を始末した後で、ゆっくりと殺してやるぜ」
女の方を向く男。
女は、未だに膝をつき苦しそうに呼吸をしていた。
「さぁ、死刑の時間だ」
「……め」
「あ? 何か言ったか?」
女は、口元に笑みを浮かべて
「馬鹿め、と言ったんだ……!」
「何言って――がっ!?」
瞬間、鈍い音が響いた。
男の脳天に、硬い何かが落下して直撃したのだ。
一瞬フラつく男。
その隙を、女は逃さない。
男の太腿を一閃するように、真横に切り裂く。
鮮血。
「ッ……!?」
斬られた右腿を押さえ、悶える男。
その傷口からは、決して少なくない量の血液が噴き出していた。
すぐさま距離をとる女。
その傍らに、男の脳天を直撃した何が転がる。
鞘。
男が氷介に気を取られた隙に、上空へ向かって投げていたのだ。
落ちた鞘を拾いながら
「これで自由に動けまい……」
対する男は、苦しみを顔に浮かべながら
「テメェ……マジキレたぜ……!」
鎖を引き寄せる。
そして男は口にする。
「OVER ZENITH……!!」
「なっ!?」
瞬間、閃光、そして甲高い音。
男の握った鎖が光を纏い、風を吸い始める。
「ここで使うつもりか!?
一般人もいるんだぞ!?」
「俺様を怒らせたテメェが悪いんだぜ!」
男の握る鎖に変化が起こり始める。
光り、更には形状が歪み、みるみる巨大化していく。
「9th-W 『ユストーン』 ……獲物はあの女だ、絡み千切れ!」
男が20mを超えた鎖を投げ捨て、女を指差す。
その瞬間だ。
放り投げられた鎖が、女の元へ高速で地面を抉りながら、勢いよく這う。
動きは大蛇そのもの。
しかしその力強さは、通常のそれとは比べ物にならない。
威力の線が彼女へと一直線に、しかし変則的に向かう。
「ちっ……!」
女が刀を構える。
襲い掛かってきた鎖と刀がぶつかり、耳障りな金属がその場に響いた。
「くっ……!」
「バァカ! ただの刀でウェポンを押さえきれるかよ!」
言葉通りその力は強大だった。
女は為す術もなく押されるように仰け反る。
同時に、鎖の尾ともいえる部分が、女の背後へ忍び寄った。
「!?」
尾が女の右足を絡めとり、バランスを崩す。
その隙だらけの首に、前方の鎖が巻きついた。
「ぐっ……がぁ……」
生きた鎖ともいえる蛇に、足と首を上下に引っ張られ、宙へ持ち上げられる。
ギシギシと身体が軋み、骨が、筋が悲鳴を上げ、その様子を見ながら男が狂気に近い笑いを発した。
「ヒャハ! ヒャハハハハハ!
いいね、いいねぇ、その表情!」
「や、やめろ! そんなことしたら死んでしまうだろ!」
「うっせぇよ、バーカ!
悔しかったら止めてみな!」
「ちっくしょおぉぉぉ!」
駆け出す氷介。
しかし走る方向は男の方ではなく、鎖に絡め取られた女の方だ。
「うあぁぁぁぁぁ!!」
跳躍。
女を締め上げる鎖に抱きつくように飛びつく。
「ヒャハハ! 無駄だっつーの!」
言葉通り、氷介は生きた鎖によって弾き飛ばされる。
「ッ!」
「そう死に急ぐなよ!
あとでゆっくり絞め殺してやるんだからな!」
ヒャハハ、と男がまた高笑いを発する。
うつ伏せに倒れた氷介は、己の非力さに歯を噛んだ。
(僕は……無力だ……)
悔しかった。
しかし、自分の力ではどうにも出来ない。
「くっ……ぁ……」
女が、とうとう力尽きた。
ダラリと腕を下げ、首も力無くうな垂れている。
仕留めたと判断した生きる鎖は、女を解放し、主人の下へ帰る。
「ヒャハ!!」
ドサリという音と共に砂煙を上げながら、女はうつ伏せで倒れる。
その身はピクリとも動くことは無い。
「そ、そんな……」
女の元に、痛む身体に鞭打って近付く氷介。
と、あることに気付いた。
(あれは……?)
指輪だ。
女のコートの内ポケットから、一つの指輪が転がり出ていた。
白く輝くそれは、氷介を呼んでいるようにも感じられる。
氷介は、更に気付く。
女が口を動かしているのだ。
まるで何かを伝えようとするように。
氷介は慌てて女の元に寄り、その口元に耳を近づける。
「……を、安全……な、……所に……」
「この指輪を……?」
「あの……男に、は……渡すな……」
うわ言のように呟く彼女。
呼吸困難が続いたせいで、まともに意識を保てていないのだろう。
「おい、テメェら……死ぬ準備は出来たか?」
鎖を元の大きさに戻した男が、こちらに向かって歩いてくる。
「ま、まずい……」
「早く……行け……」
残った力を振り絞り、
女が氷介に指輪を握らせる。
氷介は迷った。
ここで逃げ出せば、確かに彼女の望みは叶えられる。
だが、それでは彼女の死は確実となってしまう。
だからといって、あの男と戦っても勝てる自信など氷介にはない。
相手はおそらく戦闘経験が非常に豊富だ。
氷介は一応武道をやってはいるが、実戦を経験している者との差は歴然。
(ぼ、僕はどうすれば……!)
葛藤。
逃げ出したいが、逃げたくはない。
彼女を見殺しになんか出来ない。
かと言って、あの男と戦って勝てるとは思えない。
かつて教えてもらった、少林寺拳法の教えが頭に過ぎる。
『心無き力は、暴力 力無き心は、無力』
まさにあの男と自分のことを表した言葉だった。
氷介は思う。
力が、戦える力が、護れる力が欲しい、と。
無意識にだが、そう強く願った。
キンッ
「え……?」
光だ。
白い光が氷介の目に入る。
光の根源は、その手に握る指輪だった。
白く輝く指輪が氷介の顔を照らす。
「これは……?」
その光を見た女が
「ま、さか……君が、適合者なの、か……?」
「て、適合……?」
女は続ける。
「君に……戦う意思は……ある、か?」
「…………」
「……ある」
「ならば……その指輪を、はめるんだ……それは、きっと君の力に……」
女の言葉が途切れる。
どうやら意識を失ってしまったようだ。
「さぁ、それを俺様に渡せ!
そうすりゃ、病院送りくらいで済ませてやんぜ!?」
男が更に接近してくる。
氷介に、迷う暇はなかった。
「……やってやる!!」
白く輝く指輪を、右手の指にはめる。
不思議とサイズはぴったりだった。
その瞬間。
「うぉ!?」
閃光。
氷介の右手が、先ほどのものとは比べ物にならぬほどの光を発す。
光はやがて氷介の全身を包み、その姿が消え失せる。
対する男は、顔を腕で覆い
「ま、まさか……こんなガキが 『適合者』 なのか!?」
光はしばらく続いた。
ふと、
役目を終えたかのように途切れる始める。
「…………」
警戒心を剥き出しにしながら、光の根源を見つめる。
あのガキが 『8th』 と適合したとなると、これは楽に済む任務ではなくなるかもしれない。
ウェポンは、その存在自体が強力だ。
たとえあのガキが力に振りまわされたとしても、己は無傷ではいられない可能性がある。
「…………」
そこには氷介がいた。
先ほどと変わらず、薄汚れてしまった学生服を着て立っている。
が、変化があった。
腕だ。
その両手に、白色の穴開きグローブのようなものを装着しているのだ。
甲には 『8th』 と彫られている。
「ちぃ……厄介なことになっちまったぜ」
鎖を振るった。
相手が能力を発揮する前に仕留めなければ、後々まずいことになる。
先手必勝。
男は、鎖を振り回しながら
「適合出来たのはおめでてぇが、ここで終わりだ、クソガキが!!」
腕を猛烈な勢いで振る。
そこから発せられのは、10mほどの長さの鎖だ。
先ほどとは違い、一直線に氷介の顔面を狙った軌道。
対す氷介は、ふと右手を顔の前に上げ、左手を腰だめに構える。
その心に思うは少林寺拳法の教えだ。
(相手の力量が高く、更に一直線の攻撃をしてきた場合は――)
「正中線を狙うッ!!」
鎖が来た。
重心を、右にズラす。
それはつまり、上半身が右に傾くという結果が発生することになる。
頭の天辺から足元にかけて縦に伸びる線から、身を逸らしたのだ。
前に出した右手を握り状態から開き、手のひらを顔に向けた状態で眼前に出す。
ビュッ、という音と共に、鎖は氷介の顔の左耳をかすっていった。
「んだとぉ!?」
男の驚きの声と共に、氷介は走り出した。
鎖が男の手元に戻る前に、攻撃を仕掛けるつもりだ。
「けっ、甘ぇんだよ!」
男がすかさず鎖を引く。
が、その動きが途中で止められた。
「!?」
見れば、氷介の右手が鎖を掴んでいた。
先ほど鎖に添えるように出していた手は、男が反応するよりも早く鎖を捉えていたのだ。
「おぉぉぉぉぉ!!」
右手で鎖を御しつつ、更に接近。
「テメェ……俺様が鎖だけの人間だと思うなよ!?」
左足を振り上げ、走りこんでくる氷介目掛けて蹴りを放つ。
一瞬の判断。
氷介は鎖を手放し、右脇腹にて放たれた足を挟みこんだ。
そのまま上半身を左に思い切り振る。
「!?」
回転。
男は空中で半回転し、その場にうつ伏せに叩きつけられた。
「がっ……い、いてぇ……」
予想外の展開で、何の準備もしていなかった肺に衝撃が走る。
起き上がろうとする後頭部に、更に衝撃。
身体を思い切り左に振った氷介の遅れてきた右下段回し蹴りが、横殴り気味に蹴り飛ばしたのだ。
「がぁ……!?
テ、テメェ……ただのガキじゃねぇな……!?」
こちらの攻撃を全て返されることに驚愕を隠せない男。
少林寺拳法とは、基本的に自ら攻撃を仕掛けることは無い武道だ。
相手の出方を見、判断し、適当な反撃方法で返す。
つまりは 『後の先』 の戦い方が主。
相手の攻撃の勢いが大きければ大きいほど、相手は更に大きなダメージを負う仕組みだ。
自衛などに関しての戦闘は、少林寺拳法の最も得意とする戦いであったのだ。
氷介はそれの2段(むしろ3段に近い実力)を修めている。
しかも中国拳法(厳密に言うと、少林寺拳法は中国武術ではないのだが)は
対武器格闘においては無類の強さを発揮する。
戦いにおいて道具に頼るような男が互角に戦える相手ではないのだ。
そして更には――
「すごい……このグローブから、力が湧いてくるみたいだ……」
両手を握り開きながら、つぶやく氷介。
自分の身体が思い通り以上に動くことに驚愕しているのだ。
「 『8th』 ……身体強化がその能力ってか……」
男は思う。
身体強化をされたのが常人であれば、鎖を上手く用いれば勝てたはずだ。
だが、相手は武道を使いこなせるガキ。
その戦闘力の飛躍さは、常人のそれを遥かに超える。
男は立ち上がり、氷介を見据える。
「テメェ……名は何て言う?」
「……日向氷介」
「しっかり刻ませてもらったぜ。
テメェは俺様の殺すリストに載った」
「ちょ、ちょっとまって、それは勘弁……てか、最後まで聞けよ!」
「はっ、拒否権はねぇ。
嫌だったらさっさと俺様に殺されな」
「それも勘弁……」
「ちっ、ナヨナヨしたガキだぜ、気に入らねぇ……」
男はもっとシリアスに受け取ってほしかったのだろうが……
おもむろに、指を氷介に向かって指した。
「俺様の名は 『ヴァルキリー』
お前は失敗作と共にに俺様が絶対に殺す……憶えておけ」
男は背を向け、跳躍し、一瞬で校門を飛び越え去っていった。
氷介は、ヴァルキリーが去った方向を呆然と見ながら
「い、一体何だったんだ……?」
とりあえずがむしゃらに戦ってはみたものの、現状はさっぱりだ。
ふと、背後に視線を向ける。
黒いコートを着た女は、相変わらずうつ伏せで倒れていた。
駈け寄る。
「大丈夫……?」
「うっ……て、敵は、どうなった……?」
「何とか逃げていった。
もう安心しても大丈夫」
「……良かっ、た……」
女は目を閉じる。
疲労のためか、安心しきったのか解らないが、意識を失ってしまったようだ。
「……ってか、これからどうしよう」
一人取り残される氷介。
とりあえず女を保健室へ連れて行くことにした。