プロローグ
「……私も、もう終わりか」
暗い研究室とも思える場所で、老人の声が響いた。
その右手には、拳銃。
その左手には――
「やるべきことは全てやった。
やりたいことは全て終わってはいないが」
苦笑。
人影が無い冷たい空間で、老人は一人笑う。
「さぁ、君はそろそろ行く時間だね」
左手の先に掴んだ小さな手。
その持ち主に老人は語りかける。
「?」
「君はね、きっとツライ未来が待っていると思う。
それは私のせいだ。
私を恨んでくれても……いや、むしろ恨むんだ」
「…………」
「だが、他の人を恨んじゃ駄目だ。
自分を恨むなんて持っての他……解るね?」
「…………」
「君には幸せになってほしい。
何せ、君は――」
老人の言葉が途中で切れた。
語りかけるべき人間がいなくなったからだ。
その左手の先には、もはや何も握られてはいない。
しばらく老人は何も握られていない左手を見つめ、そして呟いた。
「――さよなら、だ」
暗い部屋に、火薬の破裂音が響いた。
後に残るは静寂。
音は一つも響くことは無かった。
☆★☆
―数年後―
風が舞う。
夜の闇に、三日月の下に、冷えた空気の中で。
地は砂。
日本という国の、ある都市の住宅街にある公園だ。
人気がないその地で二つの影が入り乱れる。
「ひゃっはぁ!!」
「ッ!」
金属が鳴る音。
続いて、風が追う。
男は黒いロングコート。
女も黒いロングコート。
男は右手に長い鎖を。
女は左手に日本刀を。
男の鎖が、女の刀に巻きついており
女の刀は、男の鎖に巻きつかれている。
「おらぁ! こっち来いやぁ!!」
「!?」
男が鎖を引き寄せる。
女は鎖に引き寄せられる。
鈍い音。
男の握られた拳が、女の顔面にめり込んだ音だ。
女は縦に半回転した後、頭から砂地へ叩きつけられる。
「がっ……!」
鼻を押さえ、もがくように転がる女。
その指の隙間からは大量の血が流れ出している。
「不良品が!」
女の襟を掴み、無理矢理に持ち上げる。
「はっ……はぁ……!」
鼻血を噴き出しながら苦しむ彼女に
「オラ、さっさと出せよ。
テメェが持ち出したのは解ってんだ」
殴る、血飛沫。
殴る、血飛沫。
殴る、血飛沫。
「うッ……げほっ、がほっ……!」
「苦しいか? 痛いか?」
ヒヒヒ、と笑いながらも、男は殴打をやめない。
口と鼻から血を流しながら、女は息も絶え絶えに口を開く。
「……ら、に…………い」
「あぁ!? 聞こえねぇぞ!」
顔面を殴り飛ばす。
女はそのまま吹き飛び、地面を転がった。
「はン、所詮は失敗作。
俺に適う道理がまったくねぇのが現実だ」
鎖をジャラリと振る。
その勢いは段々と増していき、遂には見えぬほどの速度で振り回される。
「どうしても『8th』を出さねぇってんなら、殺してから服を剥いて調べてやんぜ」
ヒャハハと笑う男。
その顔には狂気が張り付いている。
「うっ……ッ……」
対する女は、未だ地面に身を伏している。
何度も顔面を殴られた結果、軽い脳震盪を起こしているようだ。
揺れ痛む脳を無理矢理動かし、腕を支えに立ち上がろうとする。
ボタボタと血液が口と鼻から流れ出て、血溜まりを作っていく。
「ヒャハハ! ここで死ぬか失敗作!
今まで生きてきたのは偶然だったのかなぁ!?」
鎖の速度が最高潮にまで達する。
そこから振り下ろされるのは死の一撃。
その時だ。
キン、と硬質な音が足元から響く。
「あ?」
見る。
そこには、小さく黒い丸い物体が転がっていた。
閃光手榴弾。
その正体に気付いたときには既に遅かった。
「がッ――!!?」
猛烈な光と甲高い音。
対象の目と耳を封じるその形無いモノが、男の感覚神経に牙を剥いた。
視界は一瞬で白に染まり、耳の機能はその働きを一時的に失う。
数十秒経った頃だろうか。
「く、くそが……!!」
男がその感覚の束縛から解かれる頃には、周囲に人の影はなかった。
女が倒れていた場所には血溜りがあるだけで、本体は何処にもいない。
「あのアマ……逃げ足だけは速ぇ……くそっ!」
悪態を吐きながら鎖を回収。
纏めたそれを握る。
淡い光。
それが消える頃には、男の手のひらには指輪が一つ残るのみとなった。
その指輪をポケットに入れ、男は歩き出す。
「だが、何処に逃げようが無駄だぜ……。
お前が『8th』を持っている限りな……ヒヒ」
不気味に笑いながら、男は公園を後にした。
ハッ、ハッ、という定期的に短く息を吐く音が聞こえる。
音の主は、先ほどの女性だ。
よろめきながらも、自分の身体に鞭を打って走る姿は痛々しい。
鼻から下は真っ赤だ。
鼻と口から出る血液が、それを染めている。
彼女はまるで何かに怯えるように、そして健気に走る。
しばらく走った後、女はその足を止めた。
視線の先には、巨大な建物と広大なグラウンドが見える。
学校だ。
「ここなら……少しは身を隠せるか」
呟き、足を進める。
閉まっている校門を乗り越え、彼女は光一つ無い校舎へと身を走らせて行った。