40度の高熱で死にかけた僕を置き去りにし、婚約者は年下の後輩の部屋で一夜を明かした
四十度の高熱が三日も続き、僕はもうベッドから起き上がることさえできなかった。
昨日、婚約者の里奈は「薬を買ってくる」と言って出かけたきり、まだ戻ってこない。スマートフォンを手に取ると、彼女がInstagramを更新していた。投稿されていたのは、湯気の立つおかゆの写真だった。
「この人が元気になるなら、私、何だってする」
コメント欄では、誰もが里奈の献身ぶりを褒めていた。中には、僕が仮病を使って彼女をこき使っていると責める者までいる。状況が飲み込めずにいると、里奈から電話がかかってきた。
「家にある冷却シートを持ってきて。途中で鮭フレークも買ってきてね」
その瞬間になっても彼女は思い出さなかった。
本当に四十度の熱を出し、ベッドから動けなくなっているのが、僕だということを。
1
四十度の高熱が三日も続き、僕にはもう上半身を起こす力さえ残っていなかった。昨日の午前中、里奈は車のキーを手に、「近くのドラッグストアで解熱剤を買ってくる」と言って出ていった。その時点で僕は意識がぼんやりし、まともに言葉を返すこともできなかった。
それなのに、昨日の昼から今まで、彼女は戻ってこない。連絡も一度もなかった。
枕元を探ってスマートフォンをつかむと、ちょうどInstagramの投稿通知が表示された。里奈が載せていたのは、できたばかりのおかゆだった。梅干しと塩昆布、それに薄味のおかずが二皿添えられ、蓋にはまだ湯気の水滴が残っている。
ずいぶん手間をかけたらしい。
添えられていた言葉は、たった一行だった。
「この人が元気になるなら、私、何だってする」
すでに何十件ものコメントがついていた。
「里奈ちゃん、優しすぎる。仕事だって忙しいのに、わざわざ休んでおかゆまで作るなんて。少しは感謝してもらわないとね」
「大人なんだから、熱くらいで婚約者につきっきりになってもらう必要ある?」
最後のコメントは、里奈の友人からだった。
「直人、いい加減にしなよ。まだ結婚もしてないのに、里奈をそこまでこき使うなんて信じられない」
しばらく画面を見つめたあと、僕は一言だけ打ち込んだ。
「どういうこと?」
送信した直後、スマートフォンが震えた。里奈からの着信だった。通話をつなぐなり、苛立ちを隠そうともしない声が耳に飛び込んできた。
「起きてるなら、いつまでも寝てないで。家にある冷却シートを持ってきて。途中で鮭フレークも買ってきてね。あとで住所を送るから。蓮、おかゆだけじゃ味がしなくて食べられないって。コンビニの安いのはやめてよ。胃が弱ってるみたいだから、なるべく添加物の少ないものにして」
僕は何も言えなかった。部屋の中には、加湿器のかすかな作動音だけが響いていた。里奈は僕の沈黙を気にする様子もなく、そのまま電話を切った。
喉まで出かかった言葉は、一つも声にならなかった。手から滑り落ちたスマートフォンの画面には、まだあのおかゆが映っている。昨日、僕の薬を買うために出かけたはずの里奈は、今、相沢蓮のワンルームで、三十七度六分しか熱のない新入社員のためにおかゆを作っていた。
僕のことは、今になっても思い出していない。
指摘したところで、何になるのだろう。きっと彼女は、いつものように軽い口調でこう言うだけだ。
「ごめん、忘れてた」
里奈はよく、自分は物忘れが多いと言っていた。以前の僕は、それを本気で信じていた。友人の誕生日ケーキは一週間前に予約するし、部長がコーヒーに砂糖を入れないことも覚えている。蓮が乳糖不耐症で、オーツミルクしか飲めないことだって知っていた。
飼っているラグドールのノミ・ダニ予防も、動物病院の定期検診も、一度だって忘れたことはない。
忘れるのは、いつも僕に関することだけだった。
先月、里奈が勤める広告制作会社で、創立記念の社員旅行が企画された。行き先は南凪島。同行者一名まで自費で参加できることになっていて、里奈は帰宅するなり、僕の分も申し込んでおいたと言った。
四日間の休みを確保するため、僕は何日も残業を続け、担当していたアプリのリニューアル案件を前倒しで仕上げた。有給休暇も申請し、出発前日になってようやく仕事の調整がついた。
ところが、スーツケースを引いて星浜空港のチェックインカウンターへ行くと、係員が何度確認しても僕の予約は見つからなかった。
人であふれる出発ロビーから里奈に電話すると、数秒の沈黙のあと、彼女はようやく何かを思い出したように言った。
「あ……直人の航空券、取るの忘れてたかも」
その声は、飲み物を一本買い忘れた程度にしか聞こえなかった。
半年前には、山吹町に住む両親が僕たちを訪ねて星浜市へ来た。二人は地方の小さな町で暮らしており、遠出には慣れていない。里奈は自分から、星浜駅近くのホテルを予約すると申し出て、何度も「全部手配したから大丈夫」と言っていた。
けれど、新幹線を降りた両親が、長年使っているナイロン製のボストンバッグを抱えてホテルへ着くと、予約は三日前にキャンセルされていた。キャンセル通知は、予約者のスマートフォンとメールアドレスに送られていたという。
里奈に連絡すると、LINEのボイスメッセージが返ってきた。
「あの通知ね。ちょうどクライアントと撮影用の小道具を選んでて、そのあと忘れちゃった」
週末だったため、駅周辺のホテルはほとんど満室だった。両親は荷物を持ったまま何軒も回り、夜遅くになってようやく、古い商店街にある小さな簡易旅館を見つけた。風呂は共用で、二人ともほとんど眠れず、翌朝には山吹町へ帰ると言い出した。
そして今回の高熱にも、里奈が関わっていた。
三日前、玄関のドアがきちんと閉まっておらず、里奈の猫がマンションから逃げ出した。近くのスーパーの搬入口まで追いかけると、猫は冷蔵配送トラックの荷台に入り込んでいた。運転手は倉庫で受け渡しの手続きをしており、後部扉は開いたままだった。
僕は猫を探すため荷台に入り、里奈には外で待って、運転手が戻ったら中に人がいると伝えてほしいと頼んだ。
猫は一番奥の棚の陰に隠れていた。苦労して抱き上げ、外へ出ようとした瞬間、後部扉が外から閉まった。荷台の中では電波も入らず、僕は暴れる猫を抱えたまま、必死で扉を叩き続けた。
三十分ほどして運転手が戻り、物音に気づいて扉を開けた。中に人がいるのを見るなり顔色を変え、何度も頭を下げながら119番しようとした。
けれど、里奈は僕から猫を受け取ることしか考えていなかった。
「ごめん。蓮から電話が来て、中に直人がいるの忘れてた。もう大丈夫だよ。ママがいるからね、怖くないよ」
里奈は猫の足や耳を念入りに確認し、怯えた子どもをあやすような声で話しかけていた。僕は全身を震わせ、唇の色まで失っていたのに、彼女は一度もこちらを見なかった。
その晩から熱が出始め、今まで下がっていない。
再びスマートフォンが鳴った。やはり里奈だった。
「いつになったら来るの? おかゆ、冷めちゃうんだけど」
僕は目を閉じ、できるだけ平静な声を出した。
「里奈、四十度あるんだ。ベッドから起きられない」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。ようやく昨日出かけた理由を思い出したらしい。
「ああ、そうだった。昨日、直人の薬を買うつもりだったんだよね。ごめん、また忘れてた。タクシーでこっちに来ればいいでしょ。途中でドラッグストアに寄って、自分の薬も買ってきて。冷却シートも忘れないでね。蓮、本当につらそうだから」
僕は天井を見つめた。また同じだ。「忘れていた」の一言で、何も起きなかったことにする。
「行かない」
里奈の声が、一気に険しくなった。
「直人、いつまで意地を張るつもり?」
2
「私がどれだけ忙しいか、知ってるでしょ。今日は人の看病をするために仕事まで休んだのに、まだ拗ねるの? いつまでも病院に行かないから悪化するんじゃない。大人なんだから、一人で病院くらい行けないの?」
僕は答えなかった。彼女は本気で、僕が意地を張って病院へ行かないのだと思っているらしい。
熱が出始めた日、僕は里奈に助けを求めていた。すでに立っていることさえ難しく、壁に手をつきながらリビングまで出た。里奈はダイニングテーブルで仕事のメールを処理しており、パソコンには広告撮影のスケジュール表と予算書が開かれていた。
「病院まで一緒に来てくれないか。一人じゃ、たぶんたどり着けない」
里奈は顔も上げず、キーボードを打つ手も止めなかった。
「解熱剤を飲んで、水分を取って、少し寝ればよくなるよ。直人、私、本当に忙しいの。子どもじゃないんだから、熱くらいで付き添いが必要?」
彼女はパソコンを抱えて書斎へ向かい、ドアを閉める前にリビングの収納棚を指さした。
「薬なら二段目の引き出しにあると思う。自分で探して」
僕は寝室からリビングまで這うように移動し、床に膝をついて長いこと引き出しを探した。見つかったのは、使用期限が二年も過ぎた解熱剤が半箱だけだった。
スマートフォンはちょうど充電が切れていたため、里奈がソファに置いていたタブレットを借り、LINEを送ろうとした。
画面にはロックがかかっていなかった。最上部に表示されていたのは、相沢蓮とのトークだった。プロフィール画像では、蓮がジムの鏡に向かってスウェットの裾を持ち上げ、わざとらしいほどくっきりした腹筋を見せていた。
トーク画面には、電子体温計の写真が送られていた。
三十七度六分。
「里奈さん、熱があるみたいで……ちょっとつらいです」
里奈は、ほとんど間を置かずに返信していた。
「動かないで。すぐ行くから」
蓮は、困ったようなスタンプを送っていた。
「でも、今日は直人さんの看病をするんじゃなかったんですか?」
「もうよくなりかけてるから、大丈夫」
文字を追っているうちに、視界が何度も暗くなった。二十四歳の後輩が三十七度六分の熱を出せば、彼女はすぐに駆けつける。僕が四十度の熱を出しても、彼女の中では「もうよくなりかけている」ことになるらしい。
吐き気をこらえながら、過去のやり取りをさかのぼった。
「里奈さん、今回のクライアント向け提案が通ったら、僕も実案件に参加できますか? いつも指導してくださってありがとうございます。今度、ランチをごちそうさせてください」
「同期のみんな、僕とは組みたくないみたいで……。里奈さんが教えてくれて、本当に助かってます」
最初のうちは、蓮が仕事上の悩みを一方的に送ってきて、里奈は二、三言返す程度だった。ところが、二人で初めて食事に行った頃から、やり取りは急に増えていた。クライアントや同僚、社内の噂だけでなく、ドラマや音楽、週末に行った店の話までしている。退勤後から深夜まで続いている日もあった。
僕と里奈のトーク履歴は、僕の誕生日で止まっていた。その日、何時に帰るのかと尋ねた僕に、彼女が返したのは一言だけだった。
「残業」
さらにさかのぼると、里奈が蓮に送った長いメッセージが目に入った。
「どうして私が蓮を評価してるか、分かる? 新卒の頃の直人に似てるから。あの頃の直人も勢いがあって、失敗を怖がらなかった」
僕はタブレットをソファに戻した。身体を支える力がなくなり、そのままカーペットの上で膝を抱えた。
彼女が懐かしんでいるのは、昔の僕だった。
けれど今、彼女が真剣に見つめているのは、蓮だった。
新しいボイスメッセージが届いた。
「里奈さん、本当につらいです。病院に行きたいかも……」
里奈はすぐに返事をした。
「ちょうど直人も病院に行きたいって言ってたから、向こうで合流しよう。二人とも私が見られるし」
直後、書斎から椅子を引く音がした。里奈はコートと車のキーを手に出てきた。
「直人、起きて。病院に行くよ」
止めようとしたものの、僕には身体を起こすことすらできなかった。どうにか声だけを張る。
「もう行かない。家で二、三日休む」
里奈は驚いた顔で僕を見た。その視線がソファのタブレットへ移ると、表情が一変した。
「こんなにひどいなら、もっと早く言ってよ。家で休んでて。私も何日か休みを取って、看病するから」
それは彼女なりの、最大限の譲歩だったのかもしれない。けれど里奈は気づかなかった。蓮と一緒に病院へ行くくらいなら、僕は四十度の熱に一人で耐えるほうを選んだのだ。
電話口から聞こえる不機嫌な声に、意識が現在へ引き戻された。
「聞いてる? 私、仕事まで休んで、おかゆも作ったんだよ。それなのにタクシーに乗ることすら嫌なの? 直人、これ以上私を疲れさせないでよ」
ベッド脇に置かれた、期限切れの薬を見つめた。胸の中が、急に静かになった。
「もういい。自分で何とかする。里奈は好きにして」
僕は電話を切った。
3
窓の外で雷鳴が響き、マンションの部屋は暗く、がらんとしていた。稲妻がリビングを照らし、サイドボードに置かれた一対のキャンドルスタンドが浮かび上がる。
去年の交際記念日に買ったものだった。
里奈が、記念日くらいは雰囲気のある食事をしたいと言った。僕は数日前から食材の宅配を予約し、ステーキとワインを用意した。彼女の好きな栗のモンブランは、二軒の店を回ってようやく買えた。
その夜、リビングの照明を落とし、キャンドルに火をともして、焼きたてのステーキをテーブルに並べた。すると里奈のスマートフォンが鳴った。画面を確認した彼女は、すぐに立ち上がった。
「私が指導してる新人が、クライアントとの会食で飲まされすぎたみたい。迎えに行ってくる」
「今から?」
「ちゃんと家に帰れたか確認するだけ。すぐ戻るよ」
その夜、里奈は戻ってこなかった。翌朝になって電話をかけてきた彼女は、何でもない冗談のように笑った。
「ステーキ二人分、独り占めできたんだからよかったでしょ?」
彼女は、それが僕たちの交際記念日のディナーだったことを忘れているようだった。僕はキャンドルの前で一晩中待ち続けた。ステーキも付け合わせも何度も温め直し、最後には味を失った。モンブランのクリームも、朝にはすっかり崩れていた。
キャンドルスタンドを見つめながら、過去の自分がひどく滑稽に思えた。以前の僕は、里奈に悪気はないのだと信じ、何度も理由を探してやった。付き合い始めた頃の彼女は、確かに迷いなく僕を選んでくれていたからだ。
初めて里奈の実家へ挨拶に行った日、彼女の父親は僕の仕事と家庭環境を聞いただけで、露骨に顔をしかめた。
「君に、里奈が望む生活をさせられるとは思えない。交際を認めるつもりはない」
食事も終わらないうちに、里奈は席を立った。
「私が好きなのは直人です。お父さんが認めてくれなくても、そんな理由で別れたりしません」
あの頃の彼女は、確かに僕を何よりも大切にしていた。
スマートフォンの振動で、記憶から引き戻された。里奈は三十分おきに、未処理の仕事を催促するようなメッセージを送ってきていた。
「まだ来ないの? おかゆ、もう冷めてるよ。薬は買った? 冷却シートも忘れないで」
スマートフォンを伏せようとしたとき、Instagramに新しい投稿が表示された。今度は蓮のアカウントだった。食卓の中央にはあのおかゆが置かれ、里奈が用意した副菜も並んでいた。
「熱があると何も食べられないけど、おかゆなら少し食べられそう。里奈さん、ありがとう。ごちそうさまです」
コメント欄には、すぐに茶化すような書き込みがついた。
「新人なのに待遇よすぎ。リーダーが自宅まで看病に来てくれるなら、そりゃ仕事も伸びるよね」
写真を見つめたまま、指が動かなくなった。昨日、熱で意識が朦朧としていたとき、里奈がリビングで電話している声を聞いていた。
「一人で病院に行かないほうがいいよ。熱があると動くのも大変でしょ。薬は飲んだ? 空腹はよくないから、何か食べて。どうしてもつらかったら連絡して。私が行くから」
一つ一つ、相手を気遣うように優しく言い聞かせていた。そのとき僕は隣の寝室で四十度の熱を出し、ろくに水も食事も取れず、手元にある薬は二年前に期限が切れていた。
忘れていたのではない。
僕のことなど、最初から気にかけていなかったのだ。
再びスマートフォンが震えた。今度は里奈の母親、桐谷和子からだった。
「直人くん、そろそろいい加減にして。里奈は仕事だけでも大変なのに、あなたの看病のために休みまで取ったのよ。あの子、家では料理なんてしないのに、あなたのためにおかゆまで作ったんでしょう。それ以上、何を求めるの?」
続けて、里奈の叔父からもLINEが届いた。
「大人なら、熱くらい自分で病院へ行きなさい。いつまでも里奈に面倒をかけるな。仕事であれだけ痩せているのに、寝込んでさらに負担を増やすつもりか」
画面を見ていると、あまりの理不尽さに笑いそうになった。里奈が看病しているのは別の男なのに、周囲の人間は皆、彼女が僕のために仕事を犠牲にしていると思い込んでいる。
説明する気力も、返信する力もなかった。僕は和子と叔父を、そのままブロックした。
4
ほどなくして里奈から電話がかかってきた。通話をつなぐと、押し殺した怒りがすぐにぶつけられた。
「どうしてお母さんと叔父さんをブロックしたの? 二人は私を心配して、少し注意しただけでしょ。年上の人なんだから、そのくらい受け流せないの?」
当然のことのように言う里奈の声を聞き、思わず乾いた笑いが漏れた。
「蓮を看病している里奈が心配だって?」
電話の向こうが静まり返った。しばらくして、里奈はようやく口を開いた。
「何を言ってるの? 体調が悪いから、うちに来ておかゆを食べてもらっただけ。蓮は入社したばかりで、星浜市には頼れる人もいないんだよ。一人で熱を出してるのに、放っておけるわけないでしょ」
スマートフォンを握る手のひらに汗がにじんだ。
「そう」
声の異変に気づいたのか、里奈の口調が少しだけ和らいだ。
「変な想像はしないで。蓮は新卒で入ったばかりの後輩だし、私はOJT担当なの。会社から指導を任されてる以上、放っておくわけにはいかないでしょ。とにかく、こっちに来て。おかゆはまだ残ってるから、直人の分もあるよ」
蓮の話になると、里奈はいつも仕事を持ち出した。以前もそうだった。彼女が少し声を柔らかくするだけで、僕は結局、自分から折れてきた。
少しの沈黙のあと、僕は低く返した。
「分かった」
里奈がほっと息をつく気配がした。
「じゃあ早く来て。途中で鮭フレークを買ってね。蓮、梅干しは食べられないみたい。冷却シートも忘れないで」
電話を切り、ベッドの縁につかまりながら、ゆっくりと立ち上がった。
向かう先は蓮の部屋ではない。
病院だ。
里奈にとって、僕はどれほど具合が悪くても、自分のことは自分で始末できる人間だった。彼女の家族や同僚に誤解され、責められても、僕が黙って耐えればいい。里奈を困らせないために、いつも僕が折れればいい。
マンションの廊下は普段なら数歩で通り過ぎられるのに、今日は果てしなく長く感じた。壁に手をつき、一歩ずつエレベーターへ進む。ようやくエントランスを出たところで、視界が暗転した。
次の瞬間、身体が地面に崩れ落ちた。
意識が遠のく中、ここ半年の出来事が次々と浮かんだ。
蓮は入社して間もない頃から、里奈に頻繁に贈り物をしていた。最初はコーヒーや菓子だったが、やがてハンドクリーム、アロマキャンドル、限定のライブグッズに変わっていった。どれも高価ではないが、わざと距離を縮めようとする意図が透けて見えた。
「里奈さん、これ、たまたま二つ買ったので。前回、提案書を直してもらったお礼です。受け取ってください」
仕事を教えてもらったお礼だと言って、食事にも何度も誘っていた。僕は一度、里奈と落ち着いて話したことがある。蓮を食事に招き、三人で顔を合わせておけば、必要な距離も伝わるのではないかと思ったからだ。
里奈は顔も上げなかった。
「話を大げさにしないで。蓮は今、プロジェクトチームで残業続きなの。そんな食事会に付き合う時間なんてないよ」
僕と食事をする時間はないのに、里奈と二人で出かける回数は少なくなかった。やがて彼女の会社の社員から、制作部で二人の関係が噂になっていると聞いた。
その夜、僕は里奈に正面から尋ねた。
「蓮は、里奈のことが好きなんじゃないのか」
里奈は眉をひそめた。
「考えすぎ。蓮は二十四歳で、私は三十一だよ。そんなことあるわけないでしょ。何でも嫉妬されると疲れる」
数日後、もう一度だけ話を切り出した。
「相沢くんのOJT担当を、ほかの人に代えてもらえないか。上司に相談するだけでもいい」
里奈の表情が一気に険しくなった。
「どうして? 会社が決めた担当に、婚約者が口を出すのはおかしいでしょ。今まで私が指導してきたのに、急に別の人へ押しつけたら、部署にどう説明するの?」
言っていること自体は間違っていなかった。社内の人員配置に、僕が口を挟む権利はない。ただ、彼女の仕事を支配したかったわけではない。
かつて僕を守ってくれたように、今度は彼女自身の意思で、蓮との間にきちんと一線を引いてほしかっただけだ。
次に目を開けたとき、僕は星浜市立中央医療センターの救急外来にある処置室で横になっていた。看護師が点滴の流量を調整し、僕が目を覚ましたことに気づいて、安堵したように息をついた。
「意識が戻ってよかったです。マンションの管理人さんがエントランスで倒れているのを見つけて、119番してくださいました。搬送時は重い脱水症状と意識障害がありました。肺炎の疑いもあるので、しばらく経過を見ます」
手の甲に刺さった点滴の針を見つめた。自分が本当に病院までたどり着き、生きているのだと理解するまで、かなりの時間がかかった。
5
――里奈視点――
里奈は蓮の部屋のソファに座り、暗くなったスマートフォンの画面を見つめていた。電話を切る直前の直人の声は、普段、機嫌を損ねて黙り込むときとは違っていた。あまりにも弱々しく、今にも途切れそうだった。
コンロの火を止め、玄関で車のキーを手に取る。ソファにもたれていた蓮が、青白い顔を上げた。
「里奈さん、帰るんですか?」
「直人の様子がおかしいの。いったん家に戻ってみる」
蓮は無理に笑った。
「仕事も忙しいのに、休みまで取って看病してあげるなんて。直人さんは幸せですね」
妙に引っかかる言い方だったが、里奈は深く考えなかった。靴を履いた直後、リビングから小さく息をのむ音が聞こえた。
振り返ると、蓮が両手で腹を押さえ、身体を丸めていた。額にはすぐに冷たい汗が浮かんだ。
「空腹のまま解熱剤を飲んだから、胃が痛くなったのかもしれません。僕は少し休めば大丈夫なので、直人さんのところへ行ってください」
里奈は履いたばかりの靴を脱ぎ、キッチンでぬるい水を用意した。
「まずこれを飲んで。痛みが続くなら、近くの内科に電話しよう。薬のせいだとしても、我慢し続けるのはよくないから」
ソファの反対側に腰を下ろし、蓮の呼吸が落ち着いていくのを確かめた。連日の残業に加え、朝から病人の世話をしていた里奈も疲れ切っていた。テレビでは誰も見ていない情報番組が小さな音で流れている。
気づけば、ソファの肘掛けに寄りかかったまま眠っていた。
スマートフォンの振動で目を覚ましたとき、窓の外は夕方になっていた。何度も届いていたのは、佐倉真帆からのLINEだった。
「直人とけんかしたの?」
まだ頭がはっきりしないまま返信する。
「どうして?」
すぐに写真が送られてきた。少しぼやけていたが、救急外来のリクライニングチェアに身体を預ける直人の姿が見えた。顔は青白く、手の甲には点滴がつながっている。そのそばには若い女性が立ち、診療明細や薬の説明書を持っていた。
「市立中央医療センターの救急外来で直人を見かけたの。あの人がずっと手続きをしてたから、最初は里奈かと思った」
里奈は写真を見つめたまま、返事をしなかった。隣で蓮が身体を起こし、何かあったのかと尋ねた。里奈はスマートフォンを伏せ、「何でもない」とだけ答えた。
けれど、その写真は釘のように頭へ刺さったままだった。
直人は本当に病院へ行っていた。
しかも、そばにいるのは自分ではない。
真帆から、さらにメッセージが届いた。
「搬送されたとき、かなりひどい状態だったみたい。顔を見れば分かるよ。二人に何があったの?」
里奈はほとんど考えずに打ち返した。
「また意地を張ってるだけだと思う」
送信した直後、自分でも白々しく聞こえた。しばらくして、真帆から新しいメッセージが届いた。
「とにかく、一度来たほうがいい。そばにいる女性、たまたま居合わせただけには見えない。直人のことをよく分かってる感じがする」
最後の一文を見た途端、胸の奥がざわついた。
直人のことを、よく分かっている。
その言葉によって、里奈は初めて、今回の直人がただ拗ねているわけではないのかもしれないと思った。
6
蓮は水の入ったコップをテーブルに置いた。顔色はすでにかなり戻っている。
「里奈さん、用事があるなら行ってください。もうだいぶ楽になりました」
「まだ胃は痛い?」
「少しだけ。でも平気です。里奈さんは、やっぱり僕に一番優しいですね」
里奈はその言葉に答えなかった。スマートフォンを取り直し、直人とのLINEを開く。画面には、自分が一方的に送ったメッセージが並んでいた。
「起きてるなら、いつまでも寝てないで。冷却シートを持ってきて。鮭フレークも買ってきて。おかゆが冷める。いつまで待たせるの?」
最後にあった直人の返信は、短いものだった。
「自分で何とかする」
その一文を見ていると、知らない不安が胸の中に生まれた。これまで直人は、里奈が何かを忘れても、約束を急に変えても、少し黙り込むだけだった。最後には自分から問題を片づけ、仕事で忙しい里奈を理解してくれた。
自分は直人を傷つけるつもりなどなかった。ただ忙しかっただけだ。
けれど、その言い訳は今、ひどく空虚に感じられた。
真帆から、さらに鮮明な写真が届いた。直人は目を閉じて椅子にもたれ、その隣で女性が腰をかがめ、温かい飲み物を手渡している。淡い色のニットを着て、髪をすっきりと後ろで束ねた女性だった。親密に触れているわけではないのに、動作には迷いがない。
点滴の管を引っかけない位置も、直人がいつ水を必要とするかも、分かっているように見えた。
里奈の胸は、ますます重くなった。女性が特別に美しいからでも、その場面が恋人同士のように見えたからでもない。
直人がこれほど具合を悪くしているのに、自分にはもう何も求めてこなかったことが怖かった。
以前なら、来られない理由を長いメッセージで説明したはずだ。少し待ってほしいと頼み、自分のせいで里奈を困らせたわけではないと、逆に彼女をなだめたかもしれない。
今回は、一通もなかった。
蓮がソファから、探るように声をかけた。
「直人さんのことで、怒ってるんですか? 僕はもう大丈夫です。僕のせいでけんかしないでください」
里奈は口を開いたが、「けんかなんてしていない」とは言えなかった。電話で聞いた直人の言葉が、不意によみがえった。
「四十度あるんだ。ベッドから起きられない」
あのときは、大げさに言っているだけだと思った。けれど今になって思い返せば、声はかすれ、話す力さえ残っていないようだった。
里奈はもう一度、LINEの履歴を見た。そんな状態の直人に、自分は冷却シートを届けろと言い、蓮のために鮭フレークを買わせようとしていた。
真帆から、もう一通届いた。
「そばにいる人、水城澪っていうみたい。さっき看護師さんが名前を呼んでた」
7
水城澪という名前を、里奈は覚えていた。直人が大学に通っていた頃の後輩だ。
直人は星浜総合大学でデジタルメディアデザインを専攻し、澪は看護学部に在籍していた。澪は患者向けの医療啓発コンテンツを競う学生コンテストに参加していたが、ビジュアルデザインが苦手だった。直人は情報の構成を整理し、ポスターやプレゼン資料を手直ししてやった。
当時、直人は卒業制作を進めながら、デザイン事務所でもアルバイトをしていた。澪は一次審査に落ち、一度は参加を諦めようとしていたという。里奈が直人と付き合い始めて間もない頃、彼が夜遅くまで資料を直しているのを見たことがある。
「こんな時間まで、何をしてるの?」
「看護学部の後輩のプレゼン資料を直してる」
里奈は軽い気持ちで笑った。
「直人って、面倒見がいいよね」
直人はレイアウトを確認したまま答えた。
「ずっと準備してきたらしいから。できる範囲で手伝うだけだよ」
その後、澪の医療啓発企画は学生部門で賞を取り、彼女は直人を食事に招いた。里奈も一度だけ同席したことがある。
当時の澪は細身で物静かだった。直人を「先輩」と呼び、言葉遣いも視線も控えめだった。明らかに距離を越えようとする様子はなく、里奈は気に留めなかった。
卒業後、直人はプロダクトデザイナーになり、澪は看護師免許を取得して病院に勤めた。二人は仕事と生活の変化に伴い、次第に連絡を取らなくなった。
数年後、直人のもとに一つの荷物が届いた。中には手書きのカードと、医療情報デザインに関する分厚い専門書が入っていた。
里奈はソファでフェイスパックをしながら、何気なく尋ねた。
「誰から?」
「澪。今は地方の病院で看護師をしてる。大学のときに作った資料が、今の仕事にも役立ってるって」
「何年も前のことを、まだ覚えてるんだ」
直人は本をめくりながら答えた。
「昔から、よく覚えてる人だったよ」
里奈はそのときも、特に気にしなかった。直人の周囲にいる人間は、仕事や暮らしが変われば、いつか自然に離れていく。最後まで彼のそばにいるのは、自分だけだと思っていた。
半年前、澪は救急看護の研修を受けるため、星浜市へ戻ってきた。その頃、直人に一通のLINEを送っていた。
直人が入浴中、スマートフォンの画面が点灯し、里奈はメッセージを目にした。
「先輩、来月から星浜で研修を受けることになりました。昔のお礼を、ずっと直接伝えたかったんです。都合が合えば、一度食事に行けませんか?」
その日はプロジェクトの予算調整がうまくいかず、里奈はひどく苛立っていた。ほとんど考えることなく、直人の代わりに返信した。
「最近忙しいので、時間はありません」
送信後、トーク履歴を削除した。風呂から出てきた直人にも何も言わず、そのまま忘れていた。
今、真帆から、直人のそばにいるのが澪だと知らされた。
テレビはついたままで、部屋の中はいつもと変わらない。けれど、里奈の苛立ちは次第に強くなっていった。
直人には、自分以外にも頼れる相手がいた。
空腹で薬を飲むと胃を痛めることを知っているのも、具合が悪いときに駆けつけられるのも、病院の手続きをしてやれるのも、里奈だけではなかった。
直人に助けてもらったことを何年たっても覚え、必要なときに駆けつけてくれる人が、ほかにもいたのだ。
単なる嫉妬とは少し違った。隅に置いたまま気にも留めなかった大切なものを、ある日、誰かが丁寧に拾い上げたような感覚だった。
振り返ったときには、それがいつまでも同じ場所で待ってくれるとは限らないのだと、初めて気づいた。
直人は、昔から人の世話をよく焼いた。里奈が深夜まで残業すれば、会社の入るビルの前で待ち、保温ボトルに入れた温かい飲み物を渡してくれた。生理痛でベッドから動けないときは、生姜とはちみつの飲み物を作った。甘すぎて飲みにくいことも多かったが、それでも毎回、そばにいてくれた。
そうしたことは、いつの間にか減っていた。いや、減ったのではない。里奈が直人の気遣いに慣れ切り、何をしても彼は離れないと思い込んでいただけだ。
昇進やプロジェクトの成果、そして自分を頼り、尊敬の目を向けてくる蓮のことばかりを優先した。
直人なら、どうせいつもそこにいる。
そう思っていた。
真帆から、またメッセージが届いた。
「来るの、来ないの? 里奈、きついことを言うけど、今行かないなら、あとで誰かが直人のそばにいても文句は言えないよ」
里奈は勢いよく立ち上がり、コートを手に取った。蓮が不安そうに見上げる。
「出かけるんですか?」
「病院に行く」
「僕はどうすればいいんですか。一人でいて、また胃が痛くなったら……」
玄関で足を止め、里奈は蓮を見た。胸の内に、これまで感じたことのない強い苛立ちが湧き上がった。
今回は、すぐに彼をなだめる気になれなかった。
頭に浮かんでいたのは、目の前の青白い後輩ではなく、救急外来にいる直人だった。
8
里奈が星浜市立中央医療センターに着いた頃には、もう夕方になっていた。救急外来には検査や診察を待つ患者が多く、真帆から送られた場所を頼りに廊下を進む。
処置室に近い経過観察スペースで、直人はリクライニングチェアに身体を預けていた。頭を少し横に傾け、汗で前髪が額に張りついている。わずか数日の間に、ひどく痩せたように見えた。
その隣に、淡い色のニットを着た女性が座っていた。髪を後ろで束ね、薬の袋と検査に関する書類を確認している。
里奈の足が遅くなった。
水城澪だった。
学生の頃と比べても、顔立ちはそれほど変わっていない。ただ、動作には迷いがなくなり、当時のあどけなさは消えていた。
直人の手元にはぬるい水が置かれ、椅子の背には薄手の上着が掛けられていた。足元には診療明細、胸部X線検査の説明書、入院案内がきれいにまとめられている。
澪は腰をかがめ、椅子の脚に引っかかりそうになっていた点滴のチューブを整えた。直人が目を開けると、すぐにカップを差し出す。
「ありがとう」
声はまだかすれていたが、穏やかだった。里奈に向ける、感情を押し殺した冷たさとは違う。
里奈は早足で近づいた。先に気づいた澪が、少し驚いた顔で立ち上がる。
「桐谷さん……?」
直人も声のほうへ目を向けた。しかし里奈を一度見ただけで、すぐに視線を外した。その無関心な態度が、里奈には耐え難かった。
「こんなにひどくなるまで、どうして何も言わなかったの?」
直人は答えなかった。澪がカップを脇へ置き、落ち着いた口調で説明した。
「意識が戻ったあと、先輩から連絡をもらいました。ちょうどこの病院で救急看護の研修を受けているので、すぐに来られたんです」
「先輩はマンションのエントランスで倒れて、管理人さんが119番してくださいました。救急搬送されたときは重い脱水症状があり、意識も混濁していたそうです。肺炎の疑いがあるので、このまま入院して経過を見ることになっています」
里奈は何かを言おうとした。
「昨日は私――」
「スマートフォンのメディカルIDに登録されていた緊急連絡先にも、病院から何度か電話したそうです。ずっとつながらなかったと聞きました」
その先の言葉が出なくなった。昨日の午後、里奈は知らない番号からの着信に気づいていなかった。蓮の部屋ではスマートフォンをテーブルに置いたままにし、その後は疲れて眠り込んでしまった。
この場で何を説明しても、さらに聞き苦しい言い訳になるだけだった。
看護師が処置用のワゴンを押してきた。直人の名前を確認し、里奈に目を向ける。
「ご家族の方ですか?」
里奈の身体がこわばった。
直人は目を伏せたまま答えた。
「違います」
小さな声だったが、はっきりと聞こえた。
看護師はそれ以上尋ねず、点滴の状態を確認した。
「検査結果については、このあと先生から説明があります。高熱が何日も続いていたので、しっかり治療しましょう。管理人さんが早く見つけてくださってよかったです」
里奈の頬が熱くなった。直人を見たが、彼は再び椅子の背に身体を預け、目を閉じていた。顔を見ることさえ疲れると言わんばかりだった。
怒鳴られるよりも、その態度のほうが苦しかった。どうして帰ってこなかったのか、なぜ病気の婚約者を一人にしたのかと責められるほうが、まだよかった。
けれど直人は、何も責めなかった。
「昨日は、少し仕事と蓮のことで忙しくて……」
直人は目を開けなかった。
「そう」
たった一言だった。
里奈はその場に立ち尽くした。数秒後、直人が静かに続けた。
「忙しいなら、帰っていいよ」
青白い横顔と、隣で薬の説明書を整理する澪を交互に見る。
ここには、自分の居場所がない。
そんな馬鹿げた感覚が、初めて胸に広がった。
9
それでも里奈は帰らなかった。点滴が終わり、病棟へ移る前に、直人を廊下の端にある面談スペースへ呼び止めた。
手の甲には止血用のテープが貼られ、顔色もまだ悪い。歩く速度も、普段とは比べものにならないほど遅かった。
里奈は来る途中で、言いたいことをいくつも考えていた。どうしてもっと早く連絡しなかったのか。なぜ電話に出なかったのか。けれど、いざ直人を前にすると、どの言葉も口に出せなかった。
数秒の沈黙のあと、最初に出たのは、まったく別の言葉だった。
「これ、わざとやったの?」
直人が目を上げる。
「何を?」
「澪を呼んだこと。私に連絡しなかったこと。わざわざ病院まで来て、周りに大ごとだと思わせたこと。そこまでする必要がある? ただの発熱でしょ。まるで私が本当に直人を放っておいたみたいに――」
直人はスマートフォンを取り出し、里奈の前に差し出した。
「自分で読めば」
画面には、二人のLINEが表示されていた。上から下まで、ほとんど里奈が送ったメッセージだった。
「冷却シートを持ってきて。鮭フレークも買って。おかゆが冷める。いつ来るの? 薬は途中で自分で買って。直人、これ以上私を疲れさせないで」
同じような言葉が、何通も続いていた。
里奈は画面を見つめ、背中が少しずつ冷えていくのを感じた。送ったときは、何がおかしいのか分からなかった。直人なら来られる。自分の体調くらい処理できる。ついでに必要な物も持ってきてくれる。
そう信じて疑わなかった。
けれど、並べて読めば分かる。その頃の直人は四十度の熱があり、ベッドからも起きられなかった。
そんな相手に、自分は別の男を看病するための物を届けさせようとしていた。
「そこまでひどいとは思わなかったの」
「知ってたよ。四十度あって、ベッドから起きられないって言った」
里奈は言葉を失った。
少し離れた場所で待っていた澪は、二人の話に口を挟まずにいた。だが、そのときだけ静かに告げた。
「先輩は搬送されたとき、意識がありませんでした。救急外来から緊急連絡先へ何度も電話したそうですが、誰も出なかったと聞いています」
責める口調ではなかった。それでも里奈には、逃げ場がなくなったように感じられた。焦りと苛立ちから、声が大きくなる。
「そんなに大変なら、もう一度電話してくれればよかったでしょ。私が出なかったなら、メッセージだって――」
途中で、自分から口を閉じた。
直人の目には、もう温度がなかった。
「送ったところで、何か変わった?」
廊下が静まり返った。直人には、これ以上言い争う力も残っていないようだった。彼は、里奈が簡単に忘れてきた過去を、一つずつ並べ始めた。
「冷蔵トラックから出たあと、身体が震えて止まらないって言った。里奈は、中に僕がいるのを忘れてたって言った。南凪島へ行く前も、航空券を取ったか何度も確認した。大丈夫だって言ったよね。両親が星浜に来たときも、ホテルのキャンセル通知はスマートフォンとメールに届いてた。それでも、忙しくて忘れたって言った」
声は小さかったが、一つ一つの言葉は明瞭だった。
里奈も、その出来事を覚えていた。けれど当時は、どれも大したことではないと思っていた。忘れたなら謝ればいい。取り返しのつかないことにならなければ、いつか終わる。
今、直人の口から一つずつ聞かされて、初めて分かった。
里奈が軽く考えてきた失敗は、すべて直人が引き受けていた。
南凪島のときは、直人が一人でスーツケースを引き、空港に取り残された。ホテルのときは、彼の両親が知らない町で宿を探し続けた。冷蔵トラックでは、直人が低温の荷台に三十分閉じ込められ、唇を紫色にして出てきた。
今回は四十度の熱を出し、マンションのエントランスで一人きりで倒れた。
悪気はなかった。仕事が忙しかった。ここまで重症になるとは思わなかった。
そう言いたかったが、どれも自分で聞くに堪えない言い訳になっていた。
直人が問題にしているのは、今回の発熱だけではない。
これまで積み重なった失望のすべてに、答えを出そうとしているのだ。
「それで、どうするつもり? 澪が現れたから、急に私を切り捨てるの? 直人、私たち、もうすぐ結婚するんだよ」
「澪は関係ない。蓮のせいでもない」
直人は里奈の言葉を遮った。目には怒りさえなく、長い間すり減った末の疲れだけが残っていた。
「もう、里奈が僕を思い出すのを待ちたくないんだ」
里奈は息を止めた。
直人は上着のポケットから二つの物を取り出し、彼女の手に置いた。マンションの合鍵と、二人で選んだ結婚指輪の受取票だった。
「指輪はキャンセルできるか、退院したら店に確認する。式場と写真スタジオにも、僕から連絡する」
里奈の指が動かなくなった。
「どういう意味?」
「言ったとおりだよ」
「こんな形で全部終わらせるなんて、おかしいよ。私は病院まで来たでしょ。これ以上、どうしろっていうの? 何もしてないわけじゃ――」
「何をしてくれたの?」
直人の問いは、驚くほど静かだった。
里奈は何も言えなくなった。
直人はもう彼女を見ず、病棟のほうへ歩いていった。澪も後を追う前に、里奈へ小さく会釈した。
礼儀正しく、よそよそしい挨拶だった。
まるで里奈だけが、この出来事と無関係な人間になったようだった。
手の中の鍵と受取票を見下ろし、指を強く握り込む。
今度こそ、直人は本当に自分を必要としなくなったのかもしれない。
10
退院後の直人は、里奈が追いつけないほどの速さで身辺を整理した。一週間もしないうちに、マンションにあった私物のほとんどを片づけた。必要な物は段ボールに詰め、すぐに使わない物は山吹町の実家へ送った。不要な家具や家電は、星浜市のルールに従って粗大ごみの回収を申し込んだ。
結婚式場、写真スタジオ、衣装合わせの予約も、一つずつキャンセルした。二人で支払った費用については明細を表にまとめ、返金される金額を実際の負担割合に合わせて分けた。
里奈は最初、直人が感情的になっているだけだと思っていた。以前にも怒ったことはある。けれど最後には、いつも直人のほうから折れ、仲直りのきっかけを作り、問題の後始末までしてくれた。
今回も、時間がたてば同じように戻ると思っていた。
一日目は何度も電話をかけたが、出なかった。二日目には、長いLINEを送った。
「この前は本当に忙しくて、わざと放っておいたわけじゃない。蓮は私が指導している新人で、OJT担当として、体調が悪いと知りながら何もしないわけにはいかなかった。直人のことを後回しにしたのは私が悪かったと思ってる。でも、私たちは結婚の準備までしてたんだよ。一度のけんかだけで婚約を解消するなんて、おかしいよ」
既読すらつかないまま、返事は来なかった。
里奈は直人の勤めるデザイン会社が入ったビルの前で待った。二時間後、直人と親しい同僚から、彼が青凪市の長期常駐プロジェクトに改めて応募し、翌月には星浜市を離れると聞かされた。
その案件については、以前、直人から聞いていた。半年前に社内でメンバーを募集したとき、彼は強く参加を望んでいた。期間は約一年。大規模な公共交通案内アプリのアクセシビリティ設計に携われる、以前から望んでいた仕事だった。
けれど当時、二人は結婚式の準備を進めていた。式の日程と里奈の仕事に合わせるため、直人は自分から応募を取り下げた。
そのとき里奈は、軽く言っただけだった。
「一つのプロジェクトくらい、また次があるよ」
今、直人はその機会を取り戻した。
かつて里奈のために手放したものを、一つずつ拾い直しているようだった。
里奈は、二人で暮らしていたマンションにも行った。対応したのは、建物を管理している中年の女性だった。
「高瀬さんをお探しですか? 二日前に退去されましたよ。最後に部屋もきれいに掃除して、ごみの分別も粗大ごみの手配も全部済ませていました。本当にきちんとした方でしたね」
里奈は玄関先で、しばらく何も言えなかった。
以前は、直人の細かさを面倒に感じていた。調味料は使う順に並べ、洗濯物は表示に合わせて分ける。管理費の通知や設備点検のお知らせも、日付順にまとめていた。そこまでしなくてもいいのに、と何度も思った。
しかし、きれいに片づいた1LDKの部屋に入ると、直人の痕跡はすべて消えていた。玄関には履き慣れた靴がなく、洗面台からは髭剃りがなくなっている。冷蔵庫にも、賞味期限ごとに整理された食材は残っていなかった。
部屋は整っていた。
そして、ひどく空っぽだった。
リビングの中央に立ち、里奈はようやく、直人が本当に出ていったのだと理解した。
帰宅後、母親から電話がかかってきた。
「直人くんと何があったの? 親戚から、結婚式を取りやめたって聞いたけど、本当なの?」
「お母さん、今は聞かないで」
「聞かないでいられるわけないでしょう。叔父さんは、直人くんが入院した日に、あなたが会社の別の男性を看病していたって聞いたそうよ。本当なの?」
スマートフォンを握る指先が冷たくなった。蓮のことは誰にも知られないと思っていた。けれど、病院で直人を見かけた人は多く、真帆もこれ以上かばう気はなかった。
会社でも、少しずつ噂が広がった。最初は、発熱一つで結婚を取りやめる直人のほうが神経質だと言う人もいた。だが、真帆から病院での状況を聞いた共通の友人たちは、次第に何も言わなくなった。
職場では直属の部長から面談を求められた。会社は、社員が勤務時間外に私的な交流を持つこと自体を禁止してはいない。しかし、OJT担当である里奈が、蓮にだけ通常の範囲を超えた配慮をしていると、複数のメンバーから正式に指摘が出ていた。
本来は経験者が出席するクライアントとの打ち合わせに蓮を同席させ、ほかの新人より早く提案の機会を与えた記録も確認された。
チームへの影響を避けるため、会社は蓮のOJT担当を別のベテラン社員へ変更した。里奈も、次期の新人研修担当から外された。
それを知った蓮は、すぐに里奈と距離を置き始めた。頻繁に届いていたメッセージはなくなり、食事にも誘わなくなった。会社の廊下で会っても、丁寧に頭を下げるだけだった。
「桐谷リーダー、お疲れさまです」
以前の甘えた態度も、親しげな呼び方も、最初から存在しなかったかのようだった。
後日、真帆は里奈と二人で会った。注文したコーヒーが届く前に、まっすぐ彼女を見た。
「澪さんが直人を奪ったんじゃないよ。里奈が、直人の心を少しずつすり減らしたの」
里奈は反射的に言い返した。
「そこまで大げさな話じゃないよ」
だが、口にした自分自身が、その言葉を信じられなかった。
直人は、本当に戻ってこなかった。
里奈がマンションへ帰っても、待っているのは誰もいないリビングと、冷えたダイニングテーブルだけだった。直人が入院した日、自分は一度コートを着て、家へ戻ろうとしていた。
けれど蓮が胃を押さえて苦しそうにすると、靴を脱ぎ、コートを置いた。
あのときは、その選択に何の問題もないと思っていた。
直人はいつでも、同じ場所で待っていると思っていたからだ。待たせることにも、その結果を直人に引き受けさせることにも慣れ切っていた。
「忙しかった」「忘れていた」と言えば、直人は以前のように数日黙り込み、最後には許してくれる。
そう信じていた。
けれど、今回は違った。
ある深夜、里奈はスマートフォンの写真フォルダで、昔の写真を見つけた。数年前、インフルエンザにかかった里奈のそばで、直人が看病していたときのものだった。
写真の直人は、徹夜で赤くなった目をして、体温計を手にしていた。
目を覚ました里奈に、彼が最初にかけた言葉はこうだった。
「お腹すいてない? おかゆ、作ろうか」
里奈は長い間、その写真を見つめていた。
直人は、生まれつき誰かの世話をする義務があったわけではない。里奈があまりにも長く、その優しさを受け取り続けたため、当然のものだと思い込んだだけだった。
やがて、青凪市での直人の仕事が順調だという話を耳にした。彼が設計に参加した交通案内アプリは、第一段階のアクセシビリティ検証を通過し、社内でも高い評価を受けているらしい。
共通の知人が、直人が女性と食事をしているところを見たと話すこともあった。病院にいた水城澪に似ていたという。
里奈は尋ねなかった。
聞いたところで、もう誰も直人の生活をわざわざ教えてはくれない。
ときどき、一人きりの部屋に立ちながら、病院の廊下で聞いた言葉を思い出した。
澪のせいではない。
蓮のせいでもない。
もう、里奈が自分を思い出すのを待ちたくなかった。
以前の里奈は、その言葉はあまりにも重いと思っていた。
直人を失って、ようやく分かった。
少しも重くない。
すべて、自業自得だった。




