第七話:逃亡と請求書
王都から数キロ離れた、深い森の中。
パチパチと焚き火が爆ぜる音が響いている。
本来なら、私は今頃、ふかふかのベッドの上で、泥酔した豚野郎(夫)の懐から金庫の鍵を抜き取っているはずだった。
しかし現実は、硬い地面の上で、泥だらけのドレスに包まり、目の前で肉を貪り食う野蛮人を睨みつけている。
「……おい、クラウス」
「はい、お嬢様」
「損害額の確定申告は終わった?」
「はい。先ほどの脱出劇による被害総額、および『復讐計画』の頓挫による逸失利益を含めますと……締めて、八億四千万ゴールドになります」
クラウスは頭に包帯を巻きながら(賢者に蹴られた傷だ)、手帳に美しい文字で数字を書き込んでいた。
八億。
小国の国家予算並みの金額だ。
「……そう」
私は立ち上がった。
恐怖はない。あるのは、商機を潰された怒りと、回収しなければならないという義務感だけだ。
私はクラウスから手帳をひったくると、焚き火の向こうにいる男の前に立った。
男は、どこで狩ってきたのか、巨大な猪を丸焼きにしてかぶりついていた。
野性的すぎる。食べ方すら、社会への反逆だ。
「ちょっと、あんた」
「ん? なんだメス。腹が減ったのか? ほら、内臓やるぞ。栄養がある」
男は血の滴るレバーを差し出してきた。
そして、肉を咀嚼しながら独り言のように呟いた。
「……筋が多いな。市場価値で言えばBランク、焼き加減を含めても300ゴールドが妥当か」
「は?」
私が聞き返すと、男はハッとして、慌てて野性的な顔に戻った。
「あ? ……いや、『美味い』って言ったんだ。俺は数字なんてわからねえ」
……変な奴。
一瞬だけ、商人のような目をした気がしたけど。
「いらないわよ! ……じゃなくて、これ!」
私は手帳を彼の目の前に突きつけた。
「あんたが暴れたせいで、私の完璧な人生設計がパーよ! どうしてくれんのよ、この八億四千万ゴールド!」
「はち……なんだって?」
「八億! ゴールド! お金よ! わかる!? 弁償しなさいよ!」
男はキョトンとして、それから面白そうに笑った。
「金? なんだそれ。食えるのか?」
「はあ!? 食えるわけないでしょ! 物を買ったり、サービスを受けたりするための対価よ!」
「食えねえならゴミだな」
男は私の手帳を取り上げると、なんとそれを**焚き火の中に放り込んだ**。
「ぎゃあああああ! 私の帳簿おおおおお!!」
「クラウス! 消火! 急いで消火して!」
私とクラウスは半狂乱で火の中に手を突っ込み、燃えかけの手帳を救出した。
なんてことをするの。商人の魂(帳簿)を燃やすなんて、殺人より重罪よ!
「おいおい、騒がしいな。紙切れ一枚で」
「紙切れじゃないわよ! これが社会のルールなの!」
「ルール? くだらねえ」
男は骨付き肉を噛み砕きながら、ギラリと目を光らせた。
「いいか、メス。この世のルールは一つだ。『強い奴が食う』。それだけだ」
「……ッ」
「俺は強い。だからあの豚の巣を壊した。俺は強い。だからお前を奪った。文句があるなら、俺より強くなってから言え」
圧倒的な、野生の理屈。
反論しようとしたが、言葉が出なかった。
悔しいけれど、今の状況では彼が正しい。彼がいなければ、私は今頃、あの豚野郎の飾り物になっていたのだから。
「……それに」
男はふと、表情を緩めた。
さっきまでの獣のような威圧感が消え、不器用な子供のような顔になる。
「お前、あの豚の隣にいた時より、今の方がいい顔してるぞ」
「は?」
「死んだ魚みたいな目をしてたが、今は怒って生き生きしてる。そっちの方が美味そうだ」
ドキン、と心臓が跳ねた。
な、なによそれ。口説いてるつもり?
私が赤くなっていると、横からクラウスが静かに割って入った。
「……お嬢様。どうやら、交渉は決裂のようです」
「そうね。言葉が通じないわ、この野蛮人」
私はため息をつき、燃えカスになった手帳を見つめた。
八億の借金。指名手配。そしてストーカー気味の野獣。
最悪だ。人生の底値だ。
でも。
不思議と、絶望感はなかった。
むしろ、腹の底からふつふつと、熱いものが湧き上がってくるのを感じた。
「……いいわよ。上等じゃない」
私はニヤリと笑った。
商人の本能が告げている。
『暴落こそが最大の買い場』だと。
「クラウス。新しい帳簿を用意して」
「はい。既に予備がございます」
「項目を追加して。『鉄拳賢者(仮)への貸付金』。食費、破壊弁償費、精神的苦痛への慰謝料……全部記録して、いつか必ず回収するわよ」
私は男を指差した。
「あんた、名前は?」
「ねえよ。強いて言うなら『最強』か?」
「バカね。じゃあ、今日からあんたは『借金まみれの用心棒』よ。私の護衛をして、その体で稼いで返しなさい!」
男はきょとんとして、それからニカっと笑った。
「よくわからんが、俺のそばにいれば守ってやる。俺のメスだからな」
「メスじゃない! 債権者よ!」
こうして、奇妙な三人の旅が始まった。
目的地は聖都。
目的は、この理不尽な指名手配を解き、そして失った八億ゴールドを取り戻すこと。
道は険しい。財布は軽い。
でも、私たちは負けない。
なぜなら、私たちは「悪名高きゴールドバーグ商会」。
転んでもタダでは起きない、世界一強欲な商人なのだから。
***
**【本日の営業報告】**
**文責:クラウス**
* **売上:** 0ゴールド
* **経費:** 帳簿一冊(焼失)、ドレスのクリーニング代(泥汚れ)
* **特別損失:** 8億4000万ゴールド(ピギー男爵家からの逸失利益含む)
* **新規契約:** 用心棒契約(報酬:現物支給のみ)
**【クラウスの一言メモ】**
お嬢様。前言撤回します。
この「不良債権(賢者)」は、扱いようによっては「最強の資産」に化けるかもしれません。
まずは彼に、服を着るという文明的な習慣を教え込むところから始めましょう。
(第七話 完)




