家を守る人
犬と言っても色々種類があるが、彼女はそのどれとも言い難かった。
一番近いのは狼犬だろうか?
いっそ狼そのものと言えば良いのかもしれないが、それはやはり違う。
なぜなら彼女の目に窺えるのは野生の厳しい輝きでは無く、優しい労りだったからだ。
それが彼女に人間らしさを与え、獣らしさを殺いでいた。
敢えて言うならばやはり穏やかな犬に近いと言わざるを得ないだろう。
プロポーションは人間の女性とそう変わらない感じだが、やや肩幅が広いかもしれない。というか胸筋から肩、上腕に掛けて逞しい。しかしそれは個体差かもしれないので、それを当たり前の事として覚えるのは危険だと思えた。
ハッキリしているのは、彼女の顔が犬の類いのそれである事と全身が自前の毛皮で覆われている事だ。
服は一応着てはいるが体毛の薄い前面のみを申し訳程度に隠しているにすぎない。
なんというか、以前後輩がクラブ部屋のPCに何時の間にか入れていて、なんだかんだ言いながらも結局全員で遊んだ(クラブに女子は居なかった)いわゆる「エロゲー」というやつにに出て来た、裸にエプロンだけ装着する怪しげな服装を彷彿とさせるものであった。
彼女の全身を覆うのは柔らかそうな薄茶の長毛だが、頭頂部から背中に掛けてのたてがみのような一筋の部分だけ銀色になっているようである。
どう見ても、何度見直しても、虹也の認識上の人とも、だがやはり単なる犬とも違う存在だった。
「なんだ銀穂に見惚れてんのか?」
墨時が軽い口調で揶揄するが、そこになんとはなしに牽制の色を感じる。
その、非現実な存在に対する余りにも俗な勘ぐりが、虹也を呆然とした思考停止状態から引き戻した。
そして、今からごやっかいになる家の奥さんを指差して悲鳴とか上げられないよなぁとか考える。
そう考える余裕が出来た。
「ええっと、あの、こういう姿の人を見た事が無かったんで、不躾に見てしまってすいません」
「まあ」
銀穂と呼ばれた彼女は、少しひやりとする笑いを含んだ声でそれに応じた。
「良いとこのご子息じゃ仕方の無い話よね、術氏族なんて純血主義の最たるものだし、あたし達みたいな草原の民や森の民なんて御話の中でしか知らなくったっておかしい話じゃないわ。でも、この国は今融和政策を執っていて市井には異種族が増えてるから、私なんかで驚いてたら、きっと街中で大変な事になるわよ」
警告じみた彼女の指摘は、本質的に見当違いながらもそこに大事な情報を含んでいる。
彼女のような人が、そういう種族として当たり前に存在するという事だ。
「あ~銀、わりぃこいつ訳有りで常識が無いんだ。勘弁してやってくれ」
「あら、そうなんだ。ごめんね」
墨時が虹也自身の代わりに弁解をしてくれると、彼女はあっさりとひやりとした雰囲気を消した。
しかし、謝られて、虹也は返って慌てた。彼にここの常識が無いのは確かだが、知らないからと他人を傷付けるかもしれない言い回しをしてそれを免罪符にするのは違うだろ?とそう思うのだ。
「そんな、親切に忠告して貰って有り難いぐらいですよ。むしろおかしな事を言ったらどんどん叱ってやってください」
「お前って奴は」
言って墨時が呆れた風に首を振る。
「要領が良いのか悪いのかわかんねぇ奴だな」
「さあさああんた達、細かいお話は後にして。いつまでも玄関先で話し込むもんじゃないよ。さ、上がって」
バサバサと言葉に合わせて銀色の豊かな尻尾が揺れる。
よくお月見の時期に飾られる銀色の穂のススキを彷彿とさせるそれは、うっかりすると捕まえて触ってしまいたくなる誘惑を伴っていた。
伝説的な狼男等を思い起こすような姿ではあるが、彼女のその顔は良く見ると本物の犬より平坦で、より人間っぽい造作だ。耳の位置も良く描かれる獣人のように頭頂部ではなく、虹也達のような人間とほぼ同じで位置にある。しかし形や見た目自体は獣のそれと同じように長い毛に守られて、三角に近い形だった。
「失礼します」
「なんだ、他人行儀だな」
「他人ですから」
率直な彼の返事になんだか機嫌を悪くする墨時に、呆れを通り越して笑ってしまう。
出会ったのはほんの数分、彼の感覚が間違っていてもっと長いとしても数時間は経ってないはずだ。こんな感じで捜査官などやってられるのだろうか?
疑問が顔に出たのか、銀穂と呼ばれた女性が苦笑してみせる。
「気を付けなさいよ。この人の人懐っこさは筋金入りよ。なんせ勝手に転がり込んで来た私を、10年以上も追い出せないままなんだからね」
「10年ですか!?」
「ええ、正確には12年になるわ」
「じゃあご結婚なさってる訳じゃ無いんですね?」
「ゴケッコン?」
「う……」
それまで普通の単語は殆ど通じていたので、まさかこれが通じないとは思わず、虹也は固まった。
(ええっと、どう表現すれば良いんだ?ツガイはあからさま過ぎるよなあ)
困惑した挙げ句、取り敢えず先に使って、通じるのが分かっている言葉を使う事にする。
「あ、奥さんだと思っていたんで」
「あ、成婚してないのかって聞いたのね。残念ながらまだ縁を繋いでないの」
成婚というのがこちらで言う一般的な結婚を表す言葉らしいと記憶に止どめながら、虹也は廊下の先で妙な顔をして彼等を待っている墨時に冷ややかなまなざしを向けた。
「俺、墨時さんを少し格好良い人かな?って思ってたんだけど、幻滅したよ。うちの母さんが、女を泣かせるような男は存在自体が害悪って言ってたんだけど、本当にそうだね。そんな長々と女性を宙ぶらりんで不安なまま待たせるなんて、害悪というか既にゴミだね」
虹也は冷ややかなまま言い切った。彼の父は母を本当に大事にしていて、彼等の、言葉とそれ以外で示す正しさを、彼は心から大事にしてたのだ。
「いや待て、なんでそこまで言われなきゃならんのだ」
「12年はいくらなんでも長いでしょう」
「そうそう、言ってやって」
流石にそこは女性である。銀穂はにこにこと虹也の後押しをしてみせた。
「ぎん!」
「ん?とうとう追い出すつもりになった?でも出て行かないけどね」
「頼むから、疲れてんだからいびるな。湯を浴びて来るから坊やになんか食わせてやっといてくれ」
思いっきりぐったりと奥の扉へと去って行く同居人を見送り、銀穂は虹也に笑い掛ける。
「ありがと。あたしらってさ、すっかり惰性に流されちゃって大事な事から目を逸らしちゃうんだよね。たまにこういう刺激は大事だと思うから」
「一緒になれない理由があるんですよね?」
流石に彼等の雰囲気でそこの部分は分かっていたが、チクチクとつい苛めてしまった虹也は苦笑して聞いた。
話ながら案内されたリビングは、ゆったりとしたフローリングの部屋で、虹也の見た所8畳程度の広さだった。家具はあまり無く、真ん中付近に毛足の長い絨毯が敷いてある。テーブルはその上に置いてあり、足の短い、床に直に座って使用するタイプだ。いわゆるちゃぶ台のちょっと立派なやつである。
ちゃぶ台タイプとはいえ、いかにも重そうな木製だった。
「どうしてそう思うの?」
銀穂は、虹也をそこに適当に座らせながら聞いた。
「だって、墨時さんって、他人をないがしろにしそうなタイプじゃないですもん」
「あら?」
彼女の声が少し高くなる。
「そんな風に言い切れるぐらい親しいって事?」
「いえ、さっき初めて会ったんですけど、だからこそ感じるんです。そんな全然親しくない俺の面倒を嫌がらないどころか当たり前のように助けてくれるし」
「そっか、でも詳しい話は私は知らない方が良いかもね。仕事がらみだと色々面倒だしね。さ、ともかく梅酒でもどうぞ、冷やしてあるから」
いきなり酒か。と、やや怯んだ虹也だったが、一応ここは公僕に属するであろう人間の家庭である。確認してみる事にした。
「俺、18なんだけど酒良いんですか?」
銀穂はきょとんと首を傾げる。
「家で飲んだり食べたりするのに年が関係あるの?」
これ以上は無い程の真顔である。
(お酒に関してはかなり大雑把な法律なのかな?)
彼女はわざと惚けている感じにも見えない。家庭での飲酒は自由という事なんだろう。きっと……。
郷に入っては郷に従えとは正にこの事だよな。と、彼は一人うんうん頷いた。
「じゃ、遠慮無く頂きます」
冷えたグラスに口を付けると、甘酸っぱい香りが鼻孔に流れ込む。
「うまい」
ただアルコールに梅と氷砂糖を漬け込んだ物ではない、癖の無い甘味と、炭酸程尖っていないがサワーのような喉を通る壮快感があった。
もしかすると梅自体が違うのかもしれない。
それぐらい気持ちの良い旨さだった。
「口に合って良かった。桃源酒をだせとか言われたら、一発はたいてあげようかと思ってたのよ」
グッと、虹也は飲みやすいはずの酒に噎せ掛けた。
「はたくんですか?」
「そりゃあ、イラっと来るから」
にこやかな表情と隔絶した言葉の内容に虹也は引きつった。
流石に12年も同棲を続ける女性は違う。
口に出すと我が身が危うそうなので、虹也は無言で冷や汗を感じながら戦慄いたのだった。
ふわふわとした絨毯の敷かれた床に胡座をかいて座っていると、まるで雲の上のような心地で、体に入ったアルコールの影響もあって眠気が押し寄せる。
こんな何もかもが不明瞭な状態で眠いだなんて、自分も大概図太いな。と、彼とて思わないでも無かったが、眠いものは眠い。
「あの人、あんな仕事だし、巻込むのが怖いんだと思うんだ。私も勝手に押し掛けた弱みもあったし」
「押し掛け女房なんですね」
「確かに女中みたいなもんかな?私、貴方ぐらいかちょっと下ぐらいの時、かなり色々暴れててね。それをあの人が熱心に私らのグループの溜まり場に来て更生させようとしてて、そうこうしてる内になんか良いなって思ったんだ」
話的にはドラマでも使い古された陳腐なきっかけだ。だが陳腐だからこそ人はそれを運命と思うのかもしれない。
「若気の至りですね」
「若い時の暴走っていう事?そうは言うけど真剣だったのよ、今でも気持ちは変わらないし」
「えっと、これは惚気かな?」
ふわふわした気分のまま、なんとなく亡き両親と会話しているような気分になって来て、虹也は微笑む。
両親も油断すると息子を前にさんざん惚気る、「年を取ってもラブラブカップル」だった。
「惚気はシングルに対する暴力だとは思いませんか?結婚しちゃえよもう」
「ちょっと、大丈夫?貴方」
「大丈夫というのはですね、おっきく丈夫であるという事ですよね?丈夫とはますらおと読む訳ですが、ますらおとは健康な成人男子を指す訳で」
虹也の既にふわふわだった意識は、ここいらでクラクラになってやがて途絶えた。