月夜見の姫
虹也が気が付くと、目前には見覚えのある青い惑星があった。
「あ、あ!」
それは地球だった。
幾度か写真やTVや映画等の映像で目にして来た、青い故郷。
虹也の帰るべき場所だった。
虹也は思わず前に進み出て手を伸ばしたが、何かに遮られたかのように先へは進めない。
(ここから飛び込んだら、せめて燃え尽きて灰の一片なりとも地上に届くだろうか?)
実際には今自分がいる場所すら分からないのだが、地球の強い引力に惹かれるように、虹也は懐かしい故郷をひたと見詰めた。
「あそこに辿り着く為には私を打ち消す必要がありますよ」
突然の声に、虹也は慌てて振り返る。
さやと吹く風の中、青くしなやかに伸びた竹の揺らぐ竹林が、葉擦れの涼やかな音を響かせていた。
その中にひっそりと佇む女性がいる。
古い様式の着物を重ねて纏ったその姿は、まるで平安の絵巻物に描かれたような出で立ちだ。
豊かな黒髪は、まるで水の流れのように肩から背へと続いている。
顔立ちはふっくらとした丸顔で、小鳥や小動物のようにどこか愛らしさを感じさせた。
その中で、その目だけが酷く印象的だった。
(この目は、俺は、この目を知っている。そうだ、母さんが俺を見ている時に、いつもこんな目をしていたっけ)
「貴女は?」
女性はにこりと微笑んだ。
「私はこの世界に漂う歌。一人の歌い手の残した想いのカケラ」
その言葉で、虹也は思い至った。
「もしかして、貴女は月夜見の姫ですか?」
「そうでもありそうでもない、と答えさせていただきます。ふふ、謎かけではありませんよ?私は彼女の想いの一部分にすぎません。遠い昔に生きた彼女の残した歌なのです」
虹也は、唐突に姉のあの最期の言葉を思い出す。
『月夜見の姫のご加護がありますように』
「姉様……」
そういえば、この女性は少しだけ姉に似ていると、虹也は思った。
「俺は、貴女の事を調べました。そして、気付いた事があります。貴女が異界へと行っていた時期、その強い異界への想い。……もしかして、貴女は、なよ竹のかぐや姫と呼ばれていた方ではないですか?」
平安の時代、あちらの世界の竹林に隠され、目立たぬ庶民に育てられ、不思議な術によって守られていた、細い竹のようにしなやかで強く、内から輝くようであると名付けられた娘。
政変に巻き込まれ、あちらの世界へ暫くの間身を隠していたという、1200年前に生まれた女性。
その時代と身の上は、無関係にしてはあまりにも近い。
実の所、二つの世界を別った月夜見の姫の情報は、この世界の正史には少なかった。
おそらくそれは、あまりにも深くその時代の政治に関わりすぎていた為、開示出来ない情報ばかりだったからだろう。
その一方で、民間の伝承は多く残っていた。
虹也の父は常に言っていた。
伝説や昔話の中にこそ、権力や時の流れに侵されない真実が眠っていると。
彼女の過ごした場所に残る沢山の物語に共通するのは、当時存在したという異界へと通じる月のゲートの存在と、彼女の異界への愛情だった。
そして今、目前に在る彼女を押し包む竹林が、虹也の中にあった推測を後押しする。
「懐かしい呼び名。それはむこうの両親が贈って下さった名です。そう、とても懐かしい。……ありがとう。そして、ようこそ、私の血を持ち、同じ想いを抱く方」
母親と同じまなざし。
それは無私の愛情の輝き。
彼女をかぐや姫と呼んだ人々は、おそらくそれを常に受け取っていたのだろう。
彼女があの地とそこにいる人々を深く愛していたというその想いを。
「貴女が、二つの世界を分けたのですね?」
「そうです。罪深い事とは知りながら、私はどうしても耐えられなかった。この世界の人々はあの世界を獄界と呼び、そこに住む者を人とは思いませんでした。私がこの世界に戻る時も、私を渡すまいとした人々をまるで虫を払うように殺そうとしたのです。その時それをなんとかとどまらせたものの、それからずっと、不安で胸が裂けるようでした。彼らがいつか、私の大切なお祖父様とお祖母様を無残に殺してしまうのではないか?次は私は彼らの傍にいられない、それを阻む事すらできないのに。……だから、どうしても二つの世界を引き離したかったのです」
月夜見の姫、月詠みの姫、そしてかぐや姫。
輝かしいいくつかの名を持つ優しげな女性は、だが、今は虹也の前で、沙汰を待つ罪人のようにうなだれて語った。
彼女の中にある後悔を不思議に思いながら、虹也は自分の考えていた事を尋ねてみる。
「俺の推測ですが、その世界を分ける条件には記憶が関係しているんですね?」
「そうです。その人の一番始めの記憶の風景、その場所のある世界をその人の世界として地に繋ぐ鎖の歌」
「それを成したのが罪なんですか?」
彼女は微笑んだ。
「貴方なら理解出来るはずです。必ずしも、生まれた世界がその人にとって一番大切だという事はないと。私が世界を分けた時、もしかしたら違う世界出身の恋人同士がいたのかもしれない。或いは異界へと逃れて、そこで家庭を作った者もいたでしょう。私はそんな人々を、無理やり大切な場所から引き離したのです」
そう、虹也にはその辛さが理解出来た。
生まれた世界ではない場所で生き、そこに心から大切に思った人々がいて、いつか必ずそこへ帰りたいと思う苦しみを。
その気持ちを踏みにじる、それは確かに罪なのだろう。
その罪を知りながら、それでも、彼女は自分の大切な人を守ろうとしたのだ。
そして、その思いもまた、虹也には分かる。
「ここはどこなんですか?俺は、確か、生体部品目的に攫われて、気を失ってしまって……もしかして、もう植物状態になってしまったんでしょうか?」
虹也は、不思議な気持ちで周囲を見回した。
振り向けば彼方に青い地球が、視線を戻すと竹林に佇む古風な着物姿の女性が見える。
夢だと言われたらその方が確実に納得出来るだろう。
「ここは歌の中です。貴方は気を失った反動で、意識を飛ばして世界に呑まれようとしていました。その声を聞いて、私がここへ招いたのです。先程も言いましたが、私は月夜見の姫と呼ばれた女の残したただの歌。世界の刻む時間の波に削られて、やがて消える定めのただの歌に過ぎません」
「歌?消える?」
彼女が歌そのものだと言うのなら、彼女こそが二つの世界を分けているのだろう。
しかし、消えるとはどういう事なのか?虹也は、嫌な予感を覚えた。
「そう、私は世界の一部として長い間人々の心に働きかけて来ましたが、段々と、時代によって変化していく世界に、その感性が追い付かなくなってきていて、人々との親和性が薄れて来ているのです。だからこそ、貴方が向こうの世界へと抜ける抜け道も出来たとも言えますが」
「俺の事を知っていたのですか?」
驚いた虹也に、月夜見の姫は微笑みながら頷いてみせる。
「先程も言ったように、私は世界の一部でもあるのです。だから、この世界で起きた事は全て知っているのですよ?もちろん人の"知る"という定義とは微妙に違う部分もありますが」
「つまり、姉様が俺をあっちの世界へ送れたのは、歌の力が弱まっていたから、という事なんですか?」
月夜見の姫はこくりと頷いた。
「そう、貴方の姉君は、私の在り方をほぼ完璧に推測していました。それでも、そうと分かっていても、姉君はあなたの記憶を消す事は出来なかった。それは脳を破壊するという事だからです。ですから貴方の姉君はそれまでの貴方の記憶の一切に蓋をした。でも、それは見えないだけで、貴方の中には依然と記憶は残っていました。本来はそれでは世界の壁に弾かれるはずなのです。ですが、壁は貴方を素通りさせました」
「俺があちらへ行けた事が、歌の力が弱まっている証拠……」
虹也は呆然と呟いた。
以前に懸念した事が、このままいけば現実のものとなってしまうのだ。
二つの世界が交わる時、あちらの世界は無事でいられるのか?
同じ世界の中でも、人を人とは思わずに利用しようとする者達がいる。
それは、彼らが自分達が優れていると思っているからだ。
この世界には、はっきりと分かる形で強者と弱者がいる。
そして、あちらの世界には、おそらくこちらの世界の強者を阻めるような、力有る者はいないのではないか?
虹也の胸に、その昔、月夜見の姫が抱いたものと同じ苦悩が生じた。
「実は、私が貴方を呼んだ理由はそこにあります」
はっと、虹也は月夜見の姫を、いや、その歌を振り向いた。
「貴方の想いと私の中にある想いはとても近い。たとえ混ざったとしても分からない程に近いものです。そして、貴方の歌はこの時代の物。時の流れに削られるまでには、今よりもずっと長い歳月が必要でしょう。……これは私からのお願いです。私に貴方の歌を重ねてほしいのです」
そう言って、彼女は地面に座って両手を付いて頭を下げる。
背も真っ直ぐに、揃えられた指先、その姿には、一種の美しさがあった。
虹也は、呆けたようにそれに見惚れ、はっと我に返る。
「え!でも、俺にはそういう事のやり方というか、方法が全くわかりませんよ」
いくら詠み手の一族であると言われても、虹也はその力の使い方など到底分からない。
むしろその力に振り回され、自我を失わんとしているのだ。
「大丈夫、貴方はただ、私に合わせてくだされば良いのです。同じ血を持ち、一族最大の力を持つと予言された人。貴方がかつての私と似た経験をしたのは、きっと世界が導いた運命なのかもしれません。世界と共に在る私ですら、それが真実かどうかは分かりませんが、この機会を逃したくはないのです」
月夜見の姫の歌、世界を別つモノ。
彼女の願いに、虹也は躊躇った。
「でも、仮に俺がそうして成功したとしても、これが歌である限り、やがていつかは力を失うのでしょう?」
「ええ、この世に不滅のモノは無いのです」
自らの存在の事であるにも関わらず、彼女は躊躇う事もなくそう良い切る。
「その時はそれぞれの世界に生きる人々を信じるしかありません。元々、これはただの私の我儘なのですから」
ふと、彼女は何かに思い至ったかのように虹也を見て、そして昏く笑ってみせた。
「それとも、このような時間稼ぎをやめて、いっそこの世界を滅ぼしてしまいますか?」
突き付けられた言葉に、虹也は息を飲む。
「どう、いう……こと?」
「ゆっくりと体を侵す毒のように、世界に滅びの歌を響かせる事も、きっと貴方には出来るはずですから」
確かに、片方が滅びれば、永遠の安心が手に入るだろう。
彼女の言葉はそれこそが毒のように、虹也の心に強い衝撃を伴って染み入った。