窮地
「それにしても、こんな騒ぎが毎日なのかな?そりゃああっちでも帰宅ラッシュとかあるけどさ。うちなんかは地方都市だったし、迷惑した事と言えば自転車通学の学生の集団が道を塞いで走ってて困る程度だったからな。このぎゅうぎゅう詰め感には到底及ばないし、でも、あっちでも都会の方だとこんな感じだったりするのか?」
虹也は人の流れに逆らわないように、注意深く間隙を縫って人混みから外れると、多くの人の流れから外れている、車が進入禁止の歩行者専用道路へと入り込んだ。
こちらの世界はこうやって隔離され、保護された歩道が多い。
車より人間の立場が強いのだ。
車の数も向こうの世界に比べれば遥かに少ない。
この手の歩道は、大概は両サイドに木立ちを抱えたいわゆる並木道になっていて、故郷が山地にあって森に囲まれて育った虹也にとっては、なんとなくほっとする雰囲気があった。
墨時によると、帝の力は植物によって広く拡散される仕組みになっているとの事で、町中に緑が多い理由は、熱上昇を防ぎ空気浄化しようというあちらの世界とはその目的は違っているようだった。
飛び石を連想させるようなデザインで色違いの敷石が並んでいる。
街灯の近くには色とりどりのタイルで模様が描かれた、他とは違う敷石がそこにだけあり、明確な目印となっていた。
この特別な敷石は、帝の力を集める要石となっていて、これを通して地に張り巡らされた帝の結界と結び付き、その力を汲み上げる。
その力と、街灯に使われている術紋で集められた魔気との相乗効果で、攻撃系統の魔術や魔法を無効化するらしい。
「正直説明聞いてもいまいち実感が無いんだよな、魔法とか。こんな風に理論的に解明されているって事は平たく言えば科学に近いものなんだろうけど、魔法っていう呼び名だけでもうなんていうか脱力してしまうし」
日が落ち、周囲は段々と暗さを増し、街灯はためらうような瞬きを始める。
虹也がふと、その瞬きに意識を向けた時、その足元に、まるでそこだけに夜が落ちたような影が広がった。
「え?」
がくり、と、突然沈み込んだ右足に驚いて虹也は下を見る。
まるで柔らかい泥土に嵌まったかのように足は地面へと沈みつつあった。
「な!ヤバ!」
咄嗟に縋る物を求めた虹也は、目前の街灯へと手を延ばした。
だが、僅かにあった足元の抵抗も、すっぽりと抜け落ちたように消え失せてしまい、足場を失った体は、どこへも力を向ける事も出来ず、ただ道路であったはずの場所の下へと落ちたのである。
意識が遠くなる感覚を越えて、まるで一度引いた波が再び押し寄せるように全身の感覚が戻るのを虹也は感じた。
そして、足元の安定を確保した途端、中断されていた行動が再開される。
だが、虹也の延ばした手は本来の目標を失って空を切った。
バタッと、どこか漫画チックに虹也が倒れ込んだ先には、毛足の長い絨毯で覆われた床がある。
しかし、絨毯だからと言って痛くない訳ではなく、虹也はしたたかに顎を打って両手で顎をかばってうめき声を漏らした。
「っ……、」
何が起こったのかを把握出来ず、虹也は手っ取り早い手段として周囲を見回す。
「よう、ひさしぶりだな」
一人の男が呑気に挨拶をして来る。
そして、虹也には、そこにいた男に見覚えがあった。
虹也が、自分の身内と名乗る沙輝と会っていた時に、乱暴に乱入して来た男である。
「あなたは!?どうなっているか説明していただけますか?」
自分が自然と硬い声になるのを虹也は感じた。
あの屋敷であの時交わされていた会話が虹也の脳裏に蘇ったのである。
結界石が壊された。確かそんな話をしていたはずだ。
あの後に起きた事件とその出来事が突然虹也の中で関連付けられる。
結界という物について、流石に虹也もなんとなく理解が出来るようになっていた。
結界の役割は、その内側に在るモノを守ることもだが、覆い隠す事も意味する。
つまり、結界石を壊した行為は、襲撃のタイミングを計る為だったのではないか、と、思い至ったのだ。
「何かを思い付いたという顔をしているな。いいぞ言ってみろ」
「あのお屋敷から戻る途中、魔術師という輩から襲撃を受けました」
「ほう、そりゃあまた貴重な体験をしたな。だが、そんなニュースは見なかったような気がするぞ。本当だったら大事件だが」
「あなたはそれに関わっているんですか?」
あの時新と呼ばれていたその男は、口元に薄く笑みを浮かべる。
「お前、駄目だな」
「何の話です?」
「敵かもしれない相手と問答するなんざ馬鹿のやる事だ。戦うか逃げるか、覚悟を決めるなら二択だったのにな」
男の痩身がひょいと踏み込み、絨毯から立ち上がり掛けた姿勢で見上げていた虹也に迫った。
はっとした虹也が身を引いたのは僅かに遅い。
先程打った顎を蹴り上げられ、痛みと視界のブレを感じた瞬間に、虹也の意識は落ちていた。
「あまり検体に傷を付けるな。脳を揺らすなど、能力に傷が付いたらどうするのだ」
部屋の、何気なく置いてあるように見えた偽植木の影から人影が歩み出る。
「読み手の力ってのはそういうのとは違うさ、生きていれば発動する。なんだ、贈り物のラッピングに文句を付けるのか?さすが外苑のお貴族様は野暮だな」
「口の効き方も分からない巣ごもりの猿は黙ってろ、この死肉棲みが」
ゆるいウエーブを描く金の髪、青い瞳にピンク掛った白い肌。
典型的な外縁部の魔術師だ。
「その馬鹿にしていた相手に頼らなきゃガキの一人も攫えない癖に偉そうにするのは自虐の一種か?年を取ると恥を忘れると言うが、ホント、あんたのようにはなりたくないね」
「貴様、」
ピキリと、頭上の照明パネルの表面にヒビが入る。
「ほう?」
新の顔に浮かんでいた嘲りの表情が更に深くなった。
「やめろ!二人共!せっかくの上首尾を争いで台無しにするつもりか?」
その緊張を殺いだのは、恰幅の良い黒髪の男だ。
やや重量感のある体付きだが、太っていると評されるよりは貫禄があると言われる方がしっくりくるだろう。
全身から溢れ出る威厳と傲慢さが、一目でこの男が平民ではないと知らしめていた。
「ともかく商談だ。リチャード・エイヘル殿、精度の高い未来予報機を手にしたいというお方はこの世には貴方が思うより多いかもしれませんぞ?」
「貴様、オークションの元締めにでもなったつもりか?」
「まさか、私もそこまでアコギな商売などいたしませんよ。ただ、こちらを見下しているような商売相手とは対等な取り引きは見込めないという事を、私も長年の経験から知っていましてね」
リチャードと呼ばれた男は口の中で小さく唸ると、目前の床に倒れた青年をちらりと見て、その傍らに立つ新をわざと無視すると、恰幅の良い男に目を向ける。
「分かった。民族に対する侮辱については謝罪しよう」
「さすがは音に聞こえた見識広きエイヘルの殿様、思慮深き行いに感謝いたします」
二人の男のがっちりとした握手を、新は冷ややかな目で一瞥すると、足元に気を失って伸びている虹也に靴先を触れさせた。
それをゆっくりと首元まで進め、力を入れれば喉を踏み潰せる場所へと足を置く。
「人の命など、簡単なものだよな、坊や」
その呟きは彼以外の誰にも届かずに宙に消えたのだった。