不安と赦し
身構えていたものの、しばらくは何も無い平穏な日々が続いた。
「つまりは敵は馬鹿じゃないって事だな」
墨時はそう嘯くと獰猛な獣のように笑ってみせる。
「緊張は長く続かない。緩んだ所を狙うのは攻め手の常套手段だからな。ようするに油断を誘ってるって事だ」
「でも、正直な話、ずっと気を張ってるって無理だよね」
彼らは帰宅に車を使わない。
運転を人任せにする流しの車は危険過ぎるし、墨時は車を持って無いのだ。
虹也が聞いた所によると、どうやらこちらでは個人で車を所有する人は少ないらしい。
なので、狙われるとしたら駅から家までの徒歩での帰宅の時間だろうと思われるのだが、これまでの所、兆候は無かった。
虹也は誠志とは幾度か連絡を取っていて、暫く会えない事と簡単な近況を伝え合っていた。
ただ、事件の事については全く触れず、家族らしい相手の事情が複雑だとだけ言ってある。
誠志は早めにごたごたが片付く事を切望している事を何度か漏らした。
どうやら近々学院では四季祭という大きなイベントがあるらしい。
そのイベントに虹也を招きたいのである。
なんでも大地の豊かさを称える為の物で、学院だけでなく、秋口には色々な集団がそれぞれ関連した祭りを行なうとの事だった。
そこかしこで常にイベントが開かれて、そうとう賑やかになるらしい。
「もう秋か」
そう、春の終わり頃にこちらに渡った虹也だったが、はや季節は秋にならんとしていたのである。
実は、周囲の一応の落ち着きの一方で、虹也はいつ来るか分からない襲撃よりも切迫した危機的事態に陥りつつあった。
気車の術紋光を見ていた時、瞬間的な浮遊感に自分の居場所を見失い掛けたり、気車の中でごく自然に自分ではない誰だか分からない人物の意識で物を考えていて、それに暫く気付かなかったり、なんの兆候もなく、突然自分という存在を自分として認識出来なくなったり。
どれも極短い時間ではあったが、それによって虹也は激しい恐怖を味わった。
その感覚に身を任せている間は、むしろ気持ちは穏やかだ。
いや、穏やかと言い表すには、それは平坦過ぎただろう。
敢えて言うなら充足感だろうか?
その瞬間の虹也は、何を感じる事もなくただ満たされていた。
だが、そこに心は存在しない。
自分も世界も同じ地平にあって、"異なる"ものが何もない世界。
そんな世界に虹也はいたのだ。
そこには個々の名など無く、だから虹也は己を己と感じる事が無かった。
だからこそ、その忘我の時が過ぎれば虹也は激しい恐怖に襲われたのである。
自分という意識が存在しなくなる事に恐怖しない人間がいるだろうか?
いずれ自らを失う運命。
あの、叔母に当たる女性の宣告は、重く虹也を苛んでいた。
そんな折、その叔母月夜見沙輝から端末に通信が入った。
虹也は自身の国民番号を彼女に教えていなかったはずだが、彼女の立場なら調べるのにそう手間はいらないのだろうとは推測された。
『虹也さん、大変な事に巻き込んでしまって申し訳ありませんでした』
彼女の言葉は謝罪から始まった。
虹也は、逆に自分こそが申し訳ない気持ちで、彼女に合わせる顔が無いと思っていたので、この謝罪に抗う。
「いえ、そちらの家の方を俺の事情に巻き込んだんだと思います。俺の方こそ謝らせていただかないといけないと思っていました」
『それは違いますよ。腹中虫は短い期間で定着させられるような簡単な術式ではありません。あれは元々我が家を狙って仕掛けられた物でしょう。むしろ巻き込まれたのは虹也さんの方です。兄や義姉に代わって貴方の身内として手助けをしたいと思っているのに、却って大変な事にばかり遭遇させてしまって、心苦しい限りです』
沙輝の酷く辛そうな声に、虹也は、事件の詳しい話をするのを躊躇った。
彼女はまだ知らないかもしれないのだ。
虹也が生体部品として狙われた事を。
「俺は、身内に会えて、やっと地に足が付いた気がしています。気にしないようにはしていましたが、やはり実際は気になっていたのでしょうね。だから、沙輝さんや輝李香さんに会えた事は良かったと思っています」
『そうですか。そうであるなら僅かでも心が慰められます。所で、今回ご連絡さし上げたのは、あなたの能力についてです。兆候はありませんか?』
虹也は、どきりとして、言うか言うまいか僅かに迷ったが、この相手以上に頼りになる相談相手がいるはずもなく、その重い口を開いた。
「実は何度かおかしな感覚を味わいました」
『そうですか。やはり無理にでも連絡を取って良かった。それでは今から自分の意識を出来るだけ保つ訓練方法を書表としてお送りしますので、それを参考に訓練をしてください。あと、保護者の方に守護印をお渡ししますので、それをずっと身につけて決して離さないようにしてください。完全に防げないかもしれませんが、少なくとも同一化の妨げにはなるはずです』
「ありがとうございます。実はとても不安だったので、助かります」
『いえ、』
沙輝は、どこか寂しそうに告げた。
『本当のお母さんのように思ってくださいと、貴方を抱きしめて、一緒に苦しみを分かち合いたいのに、立場というものは不便なものです。ですから、虹也さんは私をお恨みになってくださって良いのです。なんと冷たい叔母だろうとなじってくださっても、私はあなたの批難よりも、おそらくはもっと酷い者なのですから』
虹也は驚き、そして慌てた。
本来の身内であるはずの彼女達に対して隔意が無いと言えば嘘になるだろう。
だが、姉が死んだのも、虹也が愛する者達のいる場所から引き離された事も、決して彼女のせいではないし、むしろ同じ被害者だ。
今度の件でも虹也以上に痛手を受けたのは彼女である事は考える余地もない。
だが、この女性は、その責任感から自らを責め苛んでいるのだろう。
「俺は自分の事は自分で出来る大人です。少なくともそうあろうとしています。だから沙輝さんやお身内の人に甘えるような事は俺自身の矜持が許さないのです。これは俺の身勝手に過ぎませんが、俺が俺であるために大事な事なんです。だから出来れば俺を対等に、というとちょっと偉そうですが、せめて甘やかさないでください。そして、俺の存在が誰かを苦しめていると思わせないで欲しいのです。お願いします」
ほんの僅かな静寂が空いた。
『ありがとうございます』
微かな笑みが見えるような、そんな言葉が通信の最後に届いたのだった。




