死者の理由
ほんのささやかな、常人ならば気付かない程の違和感。
しかし、吸血族とのハーフである彩華には大声で呼び掛けられているように感じられる敵意がそこにあった。
素晴らしい!と、彩華は快哉を叫びたい気持ちをグッと抑えた。
何事も十分に溜めてからの方がキモチイイ。
彩華はそういう主義である。
程なく、ヒュッと空気を裂いて何かが飛来した。
目標地点は二ヵ所、飛来数は合計十余はある。
彩華はニィと笑った。
ふわりと、まるでダンスのステップを踏むように、彩華はその場でくるりと回った。
パラパラと、霰が地面に降るような音が響き、飛来物は瞬く間に無力化される。
「いらっしゃい、歓迎するぜ、定石通りの手堅い登場痛み入る。嗚呼、ここ暫くご無沙汰だったんだぜ?いいぜ、来な。その命が枯れ果てるまで絞り尽くしてあげるからさ」
歓喜に濡れた、ややかすれた声が、木々の昏い緑の葉を揺らした。
虹也と墨時が煙を吐いて燻る車を発見したのは予想よりも早かった。
その一番の道しるべとなったのは匂いである。
自然物に無い、鼻孔の奥に刺さるような合成物質の焼ける匂いは、なによりはっきりと二人を目標へと導いたのだ。
煙と匂いで掲げる狼煙として、彼女が味方を導くべくそうしたに違いないと虹也は思った。
あの彼女が、最期に成した事の周到さに、虹也は静かに頭を下げる。
単なるプログラムであったはずのそれは、確かに虹也の命の、正確に言うなら精神の恩人なのだ。
生体部品という、人格を否定した道具として狙われたらしい虹也を助けたのは、魂などないはずの接待用のプログラムの擬似人格だったとは、どれだけの皮肉なのだろう。
焼け焦げた客室座席を回り込み、運転席を確認する。
あれだけの後部座席の爆発を受けても、元々隔離されているそこは、やや傾いではいたものの、外見的には無事のようだった。
つくづく頑丈な車である。
「ここで待ってろ」
墨時は虹也に言い置くと、手の甲の専用端末から何かを起動させて運転席のドアを開けた。
そして同時に素早く横に飛び退く。
ドッキリよろしく何かが飛び出て来る事は無く、ドアの向こうは静かだった。
墨時はゆっくりとそこを覗き込み、唇を不快気に歪める。
あれは良くない印だ、と、虹也は頭の奥で考えた。
逃げながら予想はしていたのである。
運転手の不調と襲撃。
関係があるのならば、運転手はもしかして不調だった時に既に無事では無かったのではないか?と。
体が重く、しゃがみ込みたい気持ちと戦いながら、虹也は自分の目で結果を確認すべく、その場に近付いた。
「馬鹿!まだ来るな!」
墨時が叱咤するようにそう言うと同時に、何かが運転席の中から飛び出て来る。
「おっさん!」
墨時がもし、虹也の声のみに従っていたのなら回避は間に合わなかっただろう。
流石にプロだけはあって、墨時は最初から用心をしていたので防げたのだ。
“ソレ”は、びしゃりと墨時の顔の手前、何も無い空間に張り付いた。
赤黒い、大きな蛭のような何か。
ソレはそのまま何も無い空間で蠢き、ボタボタと粘着質の物体を零しながらずるずるとずり落ちる。
「ひっ、」
虹也が悲鳴じみた声を思わず上げてしまったのは、それに生理的嫌悪を覚えたからだ。
落ちたそれを、墨時はすかさず踏みつぶすと、指先をなにやら宙に描くように動かし、「ハッ!」と気合いのような声を上げた。
その瞬間、なぜかびくりと身を震わせた虹也だったが、気を取り直して墨時の足元に潰されたはずの痕跡を確認するために覗き込む。
だが、その痕跡は全く残っていなかった。
あれほど滴っていた粘着性の物質も残ってはいない。
「あれって、虫?」
「アレが腹中虫って奴だ。核を持つ具現化された術式で、酷く厄介な性質を持っている」
「厄介って?」
「腹中虫はその名の通り寄生虫の意味を持つ。ほんの小さい術式の核を、狙った相手に潜ませるんだが、その時に術の発動がないんだ。おかげで事前の発見が酷く難しい。僅かに定着時に微かな術の発動があるんだが、酷く微かなんで注意して確認しないと気付かない。今の時代なら上手い魔術師が巧妙な術紋を使えばほぼ認識不可能だろう。そうして目標の体内に潜ませておいて、徐々にその相手の体組織と深く接続させていく。そして、任意に特定のスイッチ、音とか光とか何でも良いが、そういうので発動させて、その目標の肉体のコントロールを奪い、術者の思うように動かすんだ。但し、細かいコントロールが出来ないせいで本来の肉体の限界を全く考えずに動かすから、そのベースとなった人間の肉体は無事では無いし、短時間しか使えない。真っ先に乗っ取られる脳は復元不可能なまでに変質してしまうし、酷く厄介でゲスな術だ」
虹也は術という物が理解し難いものの、段々とそれは要するにあっちで言う所の何らかのプログラムのような物なのだという事が分かってきていた。
「さっきの気持ち悪い虫は、暗殺なんかの為に用意された人工物って事?じゃあ、運転手の人は?」
虹也の言葉に答えるように、墨時の目が虹也に覚悟を促している。
運転席に近付くと、酷く生臭い、全身が総毛立つような臭気を虹也は嗅ぐ事になった。
ドアの内側に付着した赤黒い物。
まだ全容が見えないドアの向こうに垣間見える白とピンクの塊。
理解したくない物を理解して、虹也は思わず後ずさった。
(この人、沙輝さんがとても信頼している感じだったのに)
墨時の語った腹中虫の術の定義が本当にそういう物なら、彼には元からこれが仕掛けられていたという事になるのではないか?
「変だよね。これって辻褄がおかしい気がする」
「辻褄?」
もしかしなくても本来狙われていたのは沙輝達なのではないか?
彼女はこの国の要人だ。
狙われるに十分な理由がある。
もし、虹也が狙われたのだとしても、虹也が見付かってからはまだ間がない。
それなのにそんな手間の掛かる仕掛けをするだろうか?
いや、やらないという保証はない。
虹也が自分の責任を免れたいあまりに自身の責を無意識に減らそうとして、そういう考えに至ったのかもしれない。
だが、それはそれとして、起らなかった悲劇の可能性を無視する訳にはいかない。
虹也はそう考えを巡らせ、墨時に自分の考えを述べる事にした。
「最初は俺を狙ったんじゃなくて、この人の雇い主を狙ったんじゃないかって思えて」
「ああ、なるほど、そりゃあ確かにおおごとだ。まあ相手を俺は知らん訳だが、お前の言うように、この件はおそらくとんでもない騒ぎになるような話だろうな。なにしろ腹中虫は禁忌の技だし、狙われたのは高貴なお方なんだろうしな。万が一にもあって良い話じゃねえ」
「大丈夫かな?」
ひっそりとした館に静かに生活をしているであろう女性達。
結界とか、他にも色々防犯の事は考えられてはいるのだろうが、不安は尽きない。
幼い虹也達を呑み込んだあの炎のように、害意はあまりにも容易く人を傷付けるのだから。
「だがな、今回狙われたのは明らかにお前なんだから、人の心配なんかしている場合じゃないんだよ。ちっとは自分の心配をしろ」
舌打ち混じりに言われて、虹也は墨時を仰ぎ見た。
その苦いような、苛立っているような顔を見て、墨時に酷く心配を掛けた事を虹也は途端に理解する。
「あ、ごめん。来てくれてありがとう。助かったよ」
「おう」
だが、いざ礼を言うと、墨時は少し驚き、照れたように目を逸らした。
面倒くさい人だなと、虹也はちょっと思ったが、口には出さない。
何かを感じたように端末をチラリと眺めると、墨時は肩を竦めた。
「どうやらあっちにもお客が来たみたいだ」
「あっち?」
「荷物係をやってる暴力馬鹿女のとこだ。さぞかし今頃満足気にしてるんだろうさ」
「彩花さん!?早く行かないと!」
「ばあか、あれが大丈夫じゃないような相手なら、俺らが何人いてもお話にならねえよ。そん時はケツ捲って逃げるだけしか出来るこたあねえ。まあもう終わったって連絡来たから大丈夫だ。どうせ邪魔されたくないから終わるまで連絡もしなかったんだろうけどな。って事であっちへ戻るか」
「この……人、は?」
虹也は単なる肉塊にしか見えなくなった相手に目をやった。
思わず逸らそうとする自分の目をそれへしっかり固定する。
その目線に墨時が滑り込んだ。
「死者は急がねえよ。分析官が来るまでどっちみち何も手を付けられないし、な」
「そっか」
虹也は地面に目を落とす。
この時ばかりは墨時の優しさが辛かった。




