魔術師の襲撃
足場の悪い場所を走った為、虹也は一度バランスを崩して足をひねってしまっていた。
「っ、くそ、どうなってるんだ?」
痛む足を庇いながらともかく進んでいたのだが、今、虹也の前には問題が発生している。
前へ進もうとすると体が重くなった。
まるでそこだけ重力が違うかのように、体を前に進めるだけの事が厳しい。
だが、少し後退すると普通に戻るのだ。
その場所を避けて迂回しても、直ぐに同じ状態の場所に突き当たる。
「くそっ、こうなったら這ってでも先に行くしかないか」
虹也がそう決意を固めた時、頭上から声が聞こえた。
「そろそろ鬼ごっこはオシマイでいいかな?」
見上げた視線の先、木々の枝葉を背景に、そこに“人”が居る。
「この国の風習を軽視する訳じゃないけどさ、仕事は手際よくやりたいんだよね、僕としては」
淡い金の巻き毛、逆光で顔は見え難いが雰囲気としてはかなり若い印象を受けた。
「誰だ?」
虹也のその問いに、相手はさも可笑しそうに笑った。
「良いね、実に型通りのセリフだ。ホロムーヴのようじゃないか?或いはオペレッタか?さて、ここからは僕の見せ場だよね」
言葉の内容の通り、相手の物言いは芝居掛かっており、真剣味は微塵も感じられない。
虹也はその異常な言動に、即座にその人物を危険な相手と断定した。
なにより、そのシルエットは、車内から見た外部画像の、攻撃を仕掛けて来ていた魔術師と酷似している。
「さてさて、手荒な真似は本意ではないのだよ。おとなしく僕と一緒に道行きをいかがかな?」
歌うようにそう言うと、大仰に礼をしてみせる。
「付き合い切れないな!」
虹也は叫ぶなり横っ飛びに駆け出した。
くじいた足がくずおれそうな痛みを伝えて来るが、人生で何度か無茶をすべき時があるとしたら今がそうだという思いが虹也にはあった。
(彼女が示してくれた道とは違うけど、今はとにかく時間を稼ぐしかない)
「やれやれ、まだやるのかい?案外こういう遊びは退屈なんだがなあ」
必死で駆けたのにその声は近い。
虹也は背中に氷の塊でも押し付けられた心地になって、再び急な進路変更を行なった。
「くそっ!」
痛めた右足の受ける衝撃が、全身を針で貫くように走った。
それでも走る虹也の前に人影が降り立つ。
「つ~かまあえた」
ふわりと、いっそ優しげに見える微笑み。
その金の巻き毛といい、青い目といい、まるで天使という形容がぴたりとハマる。
だが、その美しさ、穏やかさこそが、恐怖をもたらした。
「来るな!」
「なんていうか、オリジナリティーが欲しいな。定番の台詞ばっかりでつまらないよ」
絶体絶命だなと、どこか他人事のように虹也は思った。
虹也はこの世界へ来てからの一連の出来事を、非現実な世界で起こった事だと感じる事が多々あったが、今こそがそれの一番強い時かもしれない。
だからこそ、恐慌状態の頭のどこかでこんな事を考えた。
(ヒーローの登場条件は満たしたんだから、ここは颯爽と墨時が現れる場面だろ?)
と。
そう思ってしまってから、虹也はその自分の想像を鼻で笑った。
車が走った時間から考えても、虹也が今いる場所は、元の家からどうやっても数分で辿り着けるような場所ではない。
SOSが仮に届いたとしても、この急場に墨時が間に合うはずもなかった。
結局、出来得る限り、自分の事は自分でなんとかするしかないのだ。
助けという物は、文字通りサポートに過ぎないのだから。
「自分が置かれた状況が分からないのに観客の事まで気は回らないんじゃないか?普通」
虹也に付け入る隙があるとしたら、この暫定敵が変な嗜好の持ち主らしいという事ぐらい。
おそらくそれは強者の奢りというべき物だろう。
「まあそりゃあそうだね」
その相手は、虹也に近付こうとして少しバランスを崩した。
といっても、それは咄嗟に逃げられる程の隙ではない。
ちょっと躓いたというぐらいだろう。
しかし、その相手にとってはそれは耐えられない苛立ちを呼んだようであった。
「ち、だから巣ごもりの辺境は嫌なんだ。自然を制する事もせずに放置して」
ぼやいたその男は、地に着けていた足を浮かせる。
「空中浮遊の奇術師か」
虹也は揶揄のつもりで言ったが、相手の受け取り方は違った。
「確かに僕は魔術師だけどね、別に浮かぶのが得意という訳じゃないんだ。これは余録だよ」
言って、さっと、指揮者のようにその男が腕を振るうと、虹也は唐突に何者かに体を押し付けられたように膝を付く。
「う、ぐ」
それどころか、口を開く事すら出来なくなった。
(そうか、さっきの異様な重さはこいつの仕業か)
魔法とか魔術とかはさっぱり分からない虹也だが、この異常事態の原因がこの相手だという事ははっきり分かる。
(重さという事は重力を操っている?そんな事が本当に有り得るのか?)
「ん?強すぎた?口も利けないのかい?駄目だな、どうも僕も殺し合いに慣れすぎて加減が分からなくなって来ているらしい。ああ、大丈夫、安心して良いよ。君は殺されたりしないさ。ただ深い眠りに落ちて、ずっとそのまま安楽に眠り続ければ良いだけ。素敵な事じゃないか?もう何も悩む必要もない。恐怖も怒りも感じなくてすむんだよ?誰もがきっと羨むだろうな」
誰が羨むか!という怒りと、凍りつくような恐怖が胸に渦巻く。
以前に聞いた“生体部品”という言葉が虹也の脳裏に蘇った。
虹也は、必死に口を動かす。
「う、運転手の人はいったいどうしたんだ?あれもあんたの力なのか?」
途端に、相手の形相が変わった。
「何を言うんだ!僕の高貴な力と、醜悪で汚れた術を一緒にするな!あれは腹中虫とかいう、賎民の編み出した邪法だ。いかにも下劣な民の考えそうな事じゃないか」
嫌悪と嘲り、一方的に見下す相手に対する意識が如実に現れた歪んだ顔。
ここだ、と虹也は思った。
「あんたこそ何言ってるんだ。その、汚れた相手とやらと手を組んでるんだろうが、状況的に見て」
虹也の予想通り、それは相手にとってかなりの不本意だったのだろう。
その男は、顔を引き攣らせながら反論をした。
「僕は嫌だったさ!そもそもこんな辺境に来るのが嫌だった!こんな愚かな民の言葉を覚え、口にしなければならない僕の気持ちも考えてみるんだな、韻すらろくに踏めもしない響きの悪い下賎な言葉を!」
「なるほどね、あんたは使いっ走りって事なんだ。上の命令に逆らえない立場ってやつか。なんだ、偉そうな口上をまくし立てるから自分の意志で動いてるのかと勘違いしたよ。単なる下僕ってやつだね。そんな奴と話をしても意味が無いじゃないか。ああ、無駄な事したな、俺」
余裕を見せてせせら笑う。
当然のように相手は激高した。
「なんだと!」
男は、天使の顔から悪鬼もさながらな顔つきに変貌する。
元がいわゆる美形だからか、その顔は寒気がするほど醜く見えた。
「貴様、捕獲任務だからと優しく接してやっていればつけあがりやがって!僕が下僕だと!お前はなんだ!単なるモノじゃないか!意思を奪われ汚物を垂れ流す単なるモノになる単なる部品だ!ああ、そうだ、口や目は部品には必要ないよね?僕に暴言を吐いたんだ、お仕置きをしなくっちゃ」
宙に浮いたまましゃがみ込むと、その男は動けない虹也に手を伸ばす。
そういえば、と、虹也は場違いにも考えた。
こいつ刃物は全然使わないつもりみたいだけど、まさか手で俺の目を潰す気だろうか?真正の変態だな、と。
「馬鹿かてめぇ、リング潰したら魔気の吸収がままならなくなって能力に傷が付くんじゃねぇのか?」
「サバノビッチ!またしても僕を馬鹿にするのか!」
割り込んだ声に、その男は無防備に振り返った。
その額に、すこんと何かが張り付く。
「うわ、間抜け」
虹也がポツリと呟いた。
金髪男の額には黒い種子のような何かが出現していた。
凍り付いたように動きを止めた所を見ると、おそらく拘束するための何かなのだろう。
「おっさん、すげぇ、マジヒーロー?なんでこんなに早く来れたの?」
そこにいたのは墨時だった。
それが当然という思いと同時に、いくらなんでも到着が早すぎるという思いも虹也にはある。
「ごく近くに転送陣を完備した軍施設があったんでな。文字通り跳んで来たって訳だ」
「ふ~ん」
興味なさそうな返事をした虹也であったが、その軍施設が守っている物に、なんとなく見当がついて納得した。
出立からそれ程経過しない内に襲撃した敵の手落ちと言えば手落ちだろうが、まさか連絡不可の結界とやらの中から救援が呼べるとは思わなかったのだろう。
「こいつどうなってんの?安全?」
浮く力も無くなったのか、無様に硬直したまま転がる男を虹也は指し示した。
「ああ、封印珠と言って時間凍結の軍用術式符なんで、まず破られる心配は無いぞ。こんなに無防備に食らってくれる奴は珍しいが」
どうやら怒りのあまり周囲に注意を払えなかったのだろう。
といっても虹也にその男を擁護してやる義理はない。
「ほんと、間抜けな敵で良かった」
足を捻った上に地面の上に這いつくばされていた虹也の言葉は辛辣だ。
「お前、襲われていた割にふてぶてしいよな。とにかく詳しい事情を説明しろ」
「そうだ!その前に、運転手の人が!おっさんふくちゅうむしとかいうの知ってる?」
「腹中虫だと?何がどうしたんだ?」
「なんか運転手さんの脳波がおかしくなって、車が停まって襲撃されたんだけど、こいつの言う事には腹中虫のせいだって」
ちっ、と、舌打ちした墨時は、周囲を見回した。
「こいつから目を離したくないんだが、あいつまだか」
「あいつって?」
虹也の問う言葉が終わるか終わらないぐらいのタイミングで、頭上から影が落ちた。
先刻の経験からビクリと体を震わせた虹也は、慌てて飛び退き、またも足を捻る。
「つっ、」
「二輪モーターで弾丸みたいに突っ走ったくせに、それに徒歩で追い付けとか、ほんと、お優しい男だね」
聞き覚えのある声に、虹也は足を押さえながらマジマジと上を見た。
以前会った事のある墨時の相棒の女性だ。
恐ろしい事に上空の女性はタイトなスカートだった。
「覗いたら殺られるぞ」
囁くような警告が墨時の口から漏れる。
一瞬で体温を下げた虹也は慌てて目をそらした。
「残念、マジマジと見てくれたらこのヒールで踏んであげようと思ってたのに」
目前に降りてきた凶器並に細く尖ったヒールを目にして、虹也はブンブンと首を振って拒否を示す。
「彩花、被害者を脅してないでこっちのクズを頼む」
転がった相手を目にした彼女、彩花はヒュウと口笛を吹いた。
「おんや、こりゃあまた、典型的な外苑の術者じゃないか。いいねぇいいねぇ、いかにもプライド高そうで、ふふ、いたぶりがいがありそうじゃないか」
「だからといって封印を解くなよ。こと攻撃においては外苑部の術者は一流だ。その“見た目”からすると上位クラスだぞ」
「こんな坊や一人に随分振り込んだもんだね。そんなに美味しいネタなのかい、坊やは?」
トロリと、酔ったようなまなざしが虹也に向き、虹也は慌てて再び首を振った。
「俺に聞いても分からないですよ!それより運転手さんがどうなったか心配で」
「そうだな、行くか。彩花、そいつ見てろよ、襲撃に注意しろ?」
「ふふ、証拠隠滅か。ちょっと楽しみだね」
敵が証拠を消すためにその男を取り返すか殺すかしようとするだろうと墨時は言っているのだが、彩花にしてみればそれはワクワクするような事らしい。
舌なめずりをするようなうっとりとした顔になった。
「言ってろ!」
「おっさん、こっち、……だと思う」
虹也は案内をするために先に立った。
しかし、逃げまわった挙句に辿り着いた場所だ。
元の場所に戻る困難さに今更思い至った虹也ではあった。




