空に至る病
堅いドアを打つノックの音が響く。
「失礼いたします」
そう問う声に、
「どうぞ」
輝李香が応じた。
カチャリと小さな音を立てて入って来たのは、当然ながら家令の男と沙輝であった。
家令の男が室内を一瞥して沙輝を通す。
「先程は大変失礼を致しました。輝李香はよい話し相手になれましたか?」
沙輝のその言葉と共に、輝李香はすっと立ち上がり、沙輝に向かい深く頭を下げた。
「お母様、いえ、ご当主様。私、約を破りました。虹也さんにご自分の存在の意味を話してしまいました」
輝李香の告白に、沙輝は一瞬目を見開いたが、しかし直ぐに顔を伏せた。
「そう、ですか。分かりました。輝李香、貴女はしばし自室にて謹慎を命じます。崎谷、付いて行ってください」
「承りました。崎谷、よろしくお願い致します」
なんの澱みもなく罰し罰される彼女達に、虹也は慌てて異議を唱えた。
「待ってください、輝李香さんは俺の要望を容れてくださっただけです」
輝李香は、そんな虹也に向け、去り際綺麗なお辞儀をすると、初めてはっきりとした笑顔を見せた。
今まで彼女の方が少し年上だと思っていた虹也だったが、その笑顔はその印象をやや幼く修正させる。
もしかしたら、実は虹也より年下なのかもしれないと思えた。
その姿が扉の向こうへと去った後、沙輝が虹也に顔を向ける。
「大丈夫ですよ。間違っているのは私である事は分かっていたのです。輝李香は命を違えた責任がありますが、私にも迷った過ちがあります。あの子を厳しく罰する事はありません。私は弱い人間です。分かっているはずの事でも、せめて、なんとか、と、思ってしまうのです」
着座する前に、深々と頭を下げる沙輝に、虹也は自身も立ち上がって頭を下げた。
「俺の為を思ってくださったんでしょう?両親と懇意だったから」
虹也は、産みの親達を両親と呼ぶ事に違和感を覚えながらそう言った。
言葉にすると、これ程抵抗があるものだろうか?と、虹也自身が戸惑う。
「ええ、貴方のお父様は私の兄だったし、お母様は……親友だったわ。とても強くて優しい女性だった」
見た事の無い産みの母を語る沙輝を、虹也は不思議な気持ちで見詰めた。
ずっと、産みの親に殺され掛けたのだと信じて成長した彼には、実の両親への想いは、つい近年まで昏い物でしかなかったのである。
突然違うと言われても、なかなかに上手く想いが消化出来ず、その噛み合わない想いのまま、目前で語られる思い出を聞くのだから、どうにも居心地の悪いものになった。
虹也とて、自分の思い込みで事実を誤解していた事はとっくに理解している。
だが、頭でそうと理解しても、人の心というものは簡単に切り替えが利くものではない。
そのせいで、虹也は現実感の無い創作された物語を聞いているような気分にさえなっていたのだ。
「あなたのご両親はお互いに顔見知りでもあったし、なにより小さい頃に決められた婚約者同士でもあったの。だから私も、彼女とは家族同然に育って、本当の姉妹のようだったわ。尤も彼女の方が年下だったから、お姉様と呼ぶには少し抵抗があったのだけれども、その葛藤も、今思えば幸せなばかりだった。……虹也さん、」
「はい」
「人は、能力の為だけに血を交わす私達を愛情の無い生きた道具のように思っているかもしれないけれど、私達は狭い世界の中なりに、想いを繋いで生きて来たのです。それだけはどうか知っていて欲しいの」
虹也は言葉を選ぼうとして止めた。
今何を口にしても、実の無い空虚なものになる気がしたのだ。
それでも言うべき事はある。
「俺は一つだけやりたい事があります。家族の、両親と姉のお墓に参りたいです」
沙輝は少しだけ戸惑った風を見せたが、すぐに頷いた。
「それはそうでしょうね。あなたのご両親の墓所は、一族の共用の物になりますから、後日案内出来ると思います。ただ、あなたのお姉様には明確なお墓がありません。ですから、燃えた屋敷があった場所の碑がそれに当たると思います」
「燃えた屋敷のあった場所?」
墓が無い。
能力が無いから外へ里子に出され、死んでも墓に入れられない。
罪人ですら、もっとマシな扱いなのではないだろうか?
虹也はどこか麻痺した部分の感情でそう思う。
「あなたが戻って最初に保護された場所でもあります」
虹也は思い出し、また心が冷えるのを感じた。
淋しい荒れた雑木の林。
警羅の人が危険な何かがいると言ってなかったか?
そう言えばあの時、何かが暗闇の中から絡み付いて来ていたようにも思った事を虹也は思い出す。
あそこに今も姉の魂は在るのだろうか?
だからあそこに呼ばれたのか?
想いに、虹也の気持ちは千々に乱され、気持ちが荒ぶるのをなんとか抑えるのがやっとだった。
「輝李香の行動で、私も自分の愚かさに気付きました。隠す事は守る事とは違う。知って、どう対処するか決めた貴方を支えるのが私の役目なのだと」
虹也を見る沙輝のまなざしは優しかった。
それを素直に受け入れられないのは、自分の身勝手だと虹也は分かってはいる。
この世界、この家にとって当たり前の事が虹也には非道に見える。
だが、それは沙輝の責任では無いし、責めてどうなる事でもないのだ。
やがて、沙輝は、何かを決意したようにまっすぐに虹也の目を見た。
「虹也さん、貴方は一族の中でも稀に見る強い詠み手の才能を持って生まれました。ですが、詠み手の力には、他の魔法には無い大きなリスクがあるのです。……それは、世界の中に己が意識を溶かすという性質のせいで、術者の自我が失われ易いと言う事です。私達はそれを真名を持つ事で防いでいます。あなたは、その真名を持たない。名取りの儀式前に事件が起こり、貴方は自身の真名を知らぬまま、ただ三人、貴方の真名を知る者は全てその時に失われてしまいました」
沙輝は唇を噛む。
「良く聞いてください。貴方はいずれ自我を失います。私達にはもはやそれをどうする事も出来ないのです」
虹也は沙輝の言葉を冷静過ぎる程冷静に聞いた。
一番の理由はそれまでと同じように、あまりにも虹也が考える常識からかけ離れ過ぎていて、現実味が無いという事であった。
そもそも、いきなり「あなたは必ずおかしくなります」と言われて、「それは大変だ!」と返せる人間がどれほどいるだろうか。
「ええっと、俺には正直実感が無いのですが、それってその詠み手という力?を使わなければ問題の無い話では無いのですか?」
「それは詠み手の力の本質の問題になります。大変申し訳ありませんが、この辺りの詠み手の力に関する話は、貴方が身内になってくださらないとお話する事が出来ません。いえ、本当は問答無用で貴方を軟禁し、強い封印の元、その状態なりの幸福を探して差し上げるのが一番良い事なのだと私には理解出来ています。ですから、逆にお伺いしたいのです。貴方はどうなさりたいのでしょうか?私達の身内となり、魔気をなるべく薄めた結界の内で、細々とではあるけれども、なるべく長くの正気の生活を送る事を望むか。多くの事を知らないまま、いつか来る自分を失う時を待つか」
沙輝は、その白い自らの両手を、揉みしだくように握りしめ、絞りだすようにそう言った。
虹也は、沙輝のその言葉よりも、辛そうなその様子で、段々と現実味を感じ始める。
「俺は、……」
「いえ、ごめんなさい、虹也さん」
沙輝は、虹也の言葉を遮って頭を下げた。
「私は急ぎすぎていますね。ごめんなさい。結論にはもっと時間を掛けましょう。一度、お互いに冷静になるべきだと思います」
沙輝のその言葉に、虹也はほっと安堵して、その自分の安堵に自分が追い詰められていたのだと気付いた。
どこかまだモヤモヤとした気持ちが、叫びだしたいような衝動を連れて来る。
なんでそんな話をしたんだ?と怒鳴りつけたい気持ちと、そんな馬鹿な話が実際にあるのか?と信じられないでいる気持ち。
それらが全て混ざり合って、虹也の判断を揺るがせる。
時間を空けるのは、確かに必要な事だった。
「今の保護者の方は良い方なのでしょう?貴方がとても信頼している様子だと家令の崎谷から聞きました。その方は軍の方ですから、一般の方よりは国の大事をお分かりでしょう。相談してみるのも良いかもしれません」
思いも掛けず、墨時の事に言及されて、虹也は安心と怖さを同時に味わう。
この世界で、唯一安心出来る場所に帰れるという安堵と、その相手に迷惑を、それも国から監視されるような迷惑を掛けるのではないか?という恐怖。
だが、今この時、誰かに頼らずに結論を出す事は虹也には出来そうもなかった。
そして、虹也が自分を狡い人間だと思う程には、墨時が彼を見捨てない事を確信もしていたのだ。
「分かりました」
袖口のカフスを指でなぞる。
(人の好意を逆手に取って、苦境に追い込んでるんじゃないのか?俺は)
もっと明確に、この女性を恨めれば良かったのにとも思ってしまいそうになり、虹也は頭を振って考えを切り替えた。
物事は悪い方に考えればどこまでも悪い方に転がる物だ。
墨時などは、相談しなければむしろ怒るだろう。
「次の機会までには必ず、決断しておきます」
そう言って顔を上げた虹也を、沙輝はどこか眩しそうに見たのだった。