喪われた時の記憶
「あんた達にだって分かっているはずだ。高い能力は本人にとってみれば幸いではなく災いに過ぎないとな、ましてや命綱とも言える真名は失われて戻る事はない。そうなれば後はゆっくり滅びを待つのみでしかない。……いや、ああ、なるほどね。考えようによっちゃ、彼は一族にとって貴重な検体だ。今の時代、世界に融けてしまう詠み手など滅多に有り得ないからな。実験動物としてなら、いくらでも利用価値はある……!っ、ぐっ」
得意気にまくし立てていた新の頬に、鋭く翻った繊手が叩き付けられ、小気味良い音がその場に響いた。
「お館様!」
家令である崎谷の心配そうな声が、その音の後追いをするように発せられた。
当然ながら、彼が案じたのは主人の細い御手の怪我であり、新の心配などではない。
「ってえなったく、肉が薄いもんだから、力は無くとも結構堪えるな。ふ~ん、あんたも怒る事があるんだな。でも良いのか?ただでさえ詠み手同士は感応しやすいんだろ?うっかり高まった感情が同調でもしようものなら"混ざって"しまうんじゃないか?せっかくわざわざこの日まで待って、鍛えた鉄面皮で感情を隔てていたのに、それが丸々無駄になるんじゃないか?それに、なあ?どうして怒る事があるんだ?俺が言っているのは完璧に事実だろ?」
「大抵の悲劇という物は連鎖するものです。帝が崩御なされて、その後継の皇太子様は当時御年七つ、異例の幼帝となられました」
輝李香の言葉は重々しく虹也の耳に届いた。
虹也はその意味を理解する。
「つまり、七歳の子供を、それ以降は他人と触れ合う事の出来ない隔離された部屋に死ぬまで閉じ込める事態になったって事ですか?」
「そう。帝の不在はこの国が無防備になる事を意味します。遅延は許されなかったのだと聞いています」
「そうなんだ」
虹也にとって、その一連の出来事は歴史の教科書に書かれた出来事のようで、今ひとつ現実感がない。
ましてや、それが自分達の身に降り懸かった災禍を切っ掛けに、まるでドミノ倒しのように起こったと言う話は、あまりにも現実感が無く、普通に考えれば到底信じられない事だった。
だが、目前の輝李香の真剣な顔が思考を凍りつかせる事を許さない。
彼女は今、自分自身が叱責される事を覚悟で、真摯に事情を説明してくれようとしているのだ。
無碍に疑う事もまた出来ない話ではあった。
そうして考えている内に、虹也はふと気付く。
(そういえば、この途方も無い話が事実だとしたら、俺は、もしかしたらこの人と、いや、この人達の、親族って事になるのか)
改めてそれに思い至って虹也は不思議な気分になった。
どこか遠い別世界の話にしか思えない輝李香の話が急激に薄ら寒さを伴って肌に迫るような感覚。
虹也は、自分の心の動きを制しながら用心深く会話を進めた。
「その、火事から起こったこの国の不幸は分かりました。それで、そもそもの火事を起こした犯人は分かったのですか?」
犯人と口にした時に、虹也は自分の胸の奥に、ひんやりとしたなにかが蠢くのを感じた。
もしそれが怒りなら熱いだろう。
だが、そこにあったのは名指し難い冷たさだ。
そういえば、と虹也は思う。
あの、部屋に乱入して来た男の目の奥、憎しみの更に奥にあった何かとその冷たさは似ている気がする、と。
「いえ、結局一族も国も混乱している内になぜか不幸な自然災害として片付けられてしまっていたの」
輝李香のどこか苦々しい声。
虹也は無意識の内にソファーから立ち上がっていた。
「しぜんさいがい?」
「落ち着いて!感情を高ぶらせてはいけないわ!」
虹也のその様子に、輝李香は鋭く強い、しかし落ち着いた、指示に慣れた声音で虹也の感情を抑えに掛かる。
「でも!」
「誰もが分かっているのよ。関わった者なら、いえ、少しでも考える力のある者なら分からないはずがないでしょう?それがどれ程おかしな話か。だから、そのせいで更に国は混沌としたの。疑心暗鬼が蔓延し、誰もが誰もを疑うようになってしまった。そして、その渦中で最も疑われたのが誰あろうお母様だったのです」
「沙輝さんが?」
虹也は、輝李香の言葉に含まれる彼女自身の激高に呑まれるように、心の中で吹き荒れていた物が治まるのを感じた。
そして、治まって初めて、自分が興奮のあまり立ち上がっていた事に気付いたのだった。
「どうぞ、お座りください」
「あ、すみません」
やや恥じて腰を下ろすと、虹也は改めて輝李香を問うように見た。
「およそ、人が罪を犯すのは自分が利益を得る為。古今東西それは最も大きな動機です。そしてこの不幸の末に一番得をしたのが誰かと問われれば、それはお母様だと誰もが思ったせいなのです」
「得、ですか?」
「そう、先代ご当主亡き後、月夜見の当主、そして明鏡の座を継いだのは、本来外縁となるはずだったお母様だったから」
なるほどと虹也は納得した。
例えば資産家が謎の事故死をしたとして、世間が疑うのはその財産を引き継いだ者だろう。
当然と言えば当然の話だ。
それと同時に、虹也は一つの恐ろしい可能性にも気付いた。
虹也はその事件のただ一人の生き残りであろうと目されている。
もし、本当に沙輝がその事件の首謀者なら、虹也は、ただ一人の生存者という犯人にとっては邪魔な存在でありながら、むざむざ我が身をその眼前に晒している事になるのだ。
(なるほど、だから墨時のおっさんがあんなに不安そうだったんだな。事が事だけに忠告も出来ないだろうし、ギリギリの折衷案として結界とかの中でも通信出来る機能を端末に付与したって訳か)
しかし、虹也は一方でその事は恐らく杞憂だろうと感じていた。
一度会っただけ、僅かに言葉を交わしただけの相手だが、あの沙輝がそういう悪辣な手段を使うとは到底思えなかったのだ。
沙輝は表情を隠し、隔意を感じさせる対応をしていたが、彼女が虹也を騙そうとしていたのなら、むしろ逆に愛相良くして見せただろうと虹也は思う。
「それは、お辛い立場に立たれたのですね」
だからこそ、そういう慰めに近い言葉も、嫌味なくするっと虹也の口から零れた。
輝李香はそれに少し意外そうな顔をしたが、すぐに口元に微笑みを浮かべて頷いてみせる。
「貴方にそう言ってもらえるならお母様もどれだけ心癒されるか。お母様はご自身のお兄様と何よりその奥方であった方をとても尊敬していらして、何かと言えばよくお二方の生前のお話を聞かされたものですから」
虹也ははっとした。
今輝李香の口にしたその事実こそが、虹也が知りたかった彼のこの場での立ち位置を示すものだったからだ。
「じゃあ沙輝さんは」
「ええ、お母様は貴方を大事な方々の忘れ形見として引き取りたいと思っていらっしゃるの。ただ、我が家は特殊な環境にあるので、貴方のお気持ちを確認しないといけないけれど」
「気持ちですか」
現在の時点では、虹也にはその選択をする為の材料が乏しい。
相手が虹也を親族と確信している事、過去に火事で亡くなったその親族を大切に思っていた事。
それらは理解出来た。が、その火事が虹也の幼い頃に遭遇した火事とイコールで結ばれるかどうかについて、虹也はまだ納得はしていなかったのだ。
確かに状況は酷似しているし、その役目から考えれば、国の中枢にいる沙輝が本気で調べたなら、虹也が成りすましかどうか事前にいくらでも調べられただろう。
今の虹也に関しては、何も過去が出て来ない事しか証明となる物は無いのだが。
だが、それだけでは曖昧すぎる証拠だと、虹也は思っていた。
「俺が本当にその、沙輝さんのお兄さん夫婦の子供であるとどうして分かるのですか?同時期にどこか他の場所で同じような火事が無かった訳でもないはずだ。俺は自分の名前さえ覚えていないし、人間違いである可能性は常につきまといますよ」
「これを見て」
虹也の言葉に、輝李香は慌てる事もなくワゴンカートの上から一枚のプラスチックのようなカードを取った。
それをテーブルに置くと、その表面を円形になぞる。
まるで光を集めるようにして、そこに一枚の立体写真が浮かび上がった。
「貴方は貴方のお母様の若い頃にそっくりなのだそうよ」
沙輝や輝李香が着ているのと同じような、着物に似た服装の若い女性。
笑顔でこちらを見るその顔は、鏡の中で見る虹也自身の顔に驚く程似ていた。
そして、その隣で何かに驚いたような表情をしている男性。
その人は、彼の記憶の中で常に笑顔で傍にいた姉に、とても良く似た目をしていたのだった。