暗闇の中の真実
虹也は凍り付くような思いに、思考と動きを封じられて立ち尽くした。
世界の全てを拒絶するようなその男の目は、魂を浸食する闇を秘めているかのようで、まるで呪縛のように虹也から心身の自由を奪う。
「新さん、少しお話しをいたしましょう」
沙輝は、その身体を虹也とその闖入者の男との間に滑り込ませると、その男、新に向けてそう言った。
そして、虹也に顔を向けると頭を下げる。
「騒がせて申し訳ありません。私は少し退席しますが、直ぐに代わりの者が参りますので、それまでおくつろぎになってくださいね」
(代わりの人?)
ほとんど人の気配の無いこの屋敷にも、どうやら他に人がいたという事なのだろうか。
なぜか虹也にはそれが不思議に思えた。
「じゃあ、またな。可哀相な王子さま」
新という男の放つ凍った言葉が、去り際にすら鋭い刃のように虹也を切り付けた。
(これは……憎しみ?俺はこの人に憎まれるような存在なのか?)
未だ自分が何者なのかという肝心な部分が揺らぎ続けている虹也には、それは恐ろしい過去を示すように思えて不安を煽る。
なにより、今まで生きて来て初めてとも言える、真正面からぶつけられた深い負の感情は、虹也自身が考えたよりも、彼の精神に深い衝撃を落としていた。
それからどれだけ呆けていたのか、ドアが叩かれる音に気付いた虹也は、そうやって顔を上げるまでの記憶が一切無かった。
「あ、はい?」
虹也はぎょっとすると同時に自分の不安定な心に苛立ちを感じる。
そのせいもあり、応える声がどこか固いものになってしまった。
「失礼しても良いですか?」
応じる若い声。
それは少女のもののように思えた。
「どうぞ」
続け様に起きた出来事にすっかり精神が疲弊していた虹也は、正直な気持ちとして暫く放っておいて貰えるとありがたいと思ったが、流石にこんな場所で我儘も言えない。
それならもう、いっそどこからでも掛かって来い!という心持ちになって背筋を伸ばして相手を待ち構えた。
カチャリと開かれたドアから現れたのは、日本でなら大和撫子という印象がふさわしいような少女だった。
先程の沙輝にかなり似ている事から、ほぼ間違なく血縁者と知れる。
だがその一方で、この少女は沙輝と違い、楚々とした所作の中にきびきびとした若々しさが覗き、まなざしは、柔らかさより強さが勝っている。
「初めまして、私はこの家の長女で輝李香と申します」
きっぱりとした物言いはどちらかというと虹也に好感を与えた。
それでもやはり、彼女にも沙輝と同じようにどこか壁が感じられる。
「初めまして、美郷虹也です。あの、少し良いかな?」
もはや開き直った感のある、虹也の柔らかだが有無を言わさぬ口調に、輝李香はぴくりと表情を動かし、だが、はっきりとした口調で返した。
「まずお茶を用意するから待って」
そう言い置いて、きびきびと動き、開けたドアの向こうからカートを引き込むと、そのままパタリとドアを閉ざし、カートの天板の上の盆に乗っている茶器を流れるような手付きで扱い、茶を虹也に供した。
「あ、ありがとう」
そのあまりの手際の良さに、虹也は否やもなく輝李香の行動を待つ事になる。
「いえ、客に茶も出さなかったなんて恥ずべき評判を立てたくは無いもの。お母様はすっかり舞い上がってしまわれていて忘れておられたようだけど」
輝李香のその言葉には、虹也は違和感を禁じ得なかった。
彼女の母であろう沙輝は、舞い上がると言う言葉の意味するものと、およそ逆のテンションだったようにしか虹也には思えなかったのだ。
「ありがとうございます」
出された茶に礼を言って、虹也は先の続きを促した。
「それで確認しておきたい事があるんだけど」
「どうぞ」
約束通りという事か、輝李香は虹也の言葉を静かに待つ。
「俺は歓迎されているのかな?それとも厄介がられている?」
虹也の思い余った末の問いに、輝李香は虚を突かれた顔を見せた。
母親に比べて若い分、気持ちを秘める事は苦手なのかもしれない。
「どうしてそんな事を考えたの?無月の日を選び、迎えまで出した。それで歓迎されていないとか有り得ないでしょう?……ああ、新さんね。あの人は元から問題ばかり起こしている人なの。お母様も良い加減あんな恥知らずを構わなければ良いものを」
輝李香は、恐らく根が真っ直ぐな娘なのだろう。
もはや口調まで本来のそれであろう物に変わり、自らの好悪の情を隠そうともせずに虹也に示してみせた。
「一日にしたのも意味があるんだ」
虹也は自らの知らない常識が彼女の中にある事をもどかしく感じたが、丁寧に一つ一つ理解していくつもりで対した。
「……そう、か。違う場所で育ったのなら分からないですよね。お母様はあなたに思い入れが大きすぎてかえって口に出来ない事があるようですが。私はあなたに対して他人と等しい程度にしか気持ちは動きません。だから、貴方に事情を説明するというこの役割は、むしろ私こそが向いていると思います」
赤裸々に過ぎるぐらいの輝李香の言葉は、虹也からすれば有り難いぐらいだった。
虹也が今知りたいのは、まさしく、あやふやな優しさではなく、厳然たる事実である。
「俺はそもそも世界の常識からして違う場所で育ったんだ。良かったら一から説明してもらえると助かる」
虹也の言葉に輝李香の眉が僅かに寄せられる。
「そうだったのですか。私は実を言うとあなたに関する事は極僅かな情報しか持っていないのです。ですから、ここはお互いに情報を交換するという事にいたしませんか?」
「分かった。とりあえず俺の質問に答えて貰うと有り難い」
虹也はそう言って出された茶を口にした。
儚い迄に薄い陶磁器の茶碗は、手に柔らかに感じる程美しい曲線を描き、白地に淡い梅のような花を散らしている。
注がれた茶は紛れも無い緑茶で、それも不安な胸の内をゆっくりと温めるような懐かしい香りをしていた。
間違っても歓迎されていない相手に出す茶では無いようにも思える。
だが、“思える”では駄目なのだ。
虹也に対するこの家の立ち位置について、輝李香は先程の言葉で答えたつもりなのかもしれないが、虹也にとってはそれでははぐらかされたのと変わらない。
虹也が求めているのはあくまでも明確な答えなのだから。
「分かりました。まずは私達の一族にとってのあなたの存在意味を説明しましょう」
「お願いします」
そう、それこそが虹也の求めていた情報であった。
断片的に散りばめられたピースは、虹也の意識の内側で嵌め込まれるべき場所を求めているのだ。
別室に半分引っ立てられるように移動した新は、椅子に座る事もせずに、口許に張り付いた笑みを浮かべたまま月夜見の氏族長である沙輝を見下ろしていた。
その姿は、傍からみるとひどく傲慢に見える。
「貴様、半端者の分際でお館様になんという態度か!」
虹也の前では顔色一つ変えなかった初老の家令であったが、今はまるで人が変わったかのように激昂を露にしていた。
歪んだ口元からギリリと噛み締めた歯鳴りが聞こえんばかりである。
「おいおい爺さん、老い先短いんだからそう興奮するなよ」
「おのれ!」
「崎谷、良い。私が話します」
崎谷と呼ばれた家令は、「は、」と一言応えると引き下がる。
「そーそー、家畜はご主人様の命に忠実なのが一番だからね」
「新さん」
穏やかな、しかしぴしりと相手を打つ声に、新は笑みを深くした。
「俺は別に芥のままで良いんだぜ。不用品にそんな立派な名はいらんだろ」
うそぶいて、しれと口にする自虐の言の葉さえ、どこまでも軽く真意の見えない声音である。
その一切を切り捨て、沙輝は新を強く見つめた。
「新さん、貴方がこの家を嫌っている、いえ、憎んでさえいるのは理解しています。ですが、あの方は、あの方にはその矛先を向けるのはお止めください」
虹也に対しては向けなかった、強い、命じる者の言葉。
しかし、その強さすら、目前の男をそよとも動かす事は叶わなかった。
「おやおや、俺はよかれと思って忠告してあげたのになあ。だって伯母様も困るでしょう?今さら過去の亡霊に居座られても。終わった事を掘り返して、何か見当違いの糾弾でもされる事にでもなったら……大事だろ?」
まるで、何かを暗示するかのように、新はことさらゆっくりと最後の言葉を紡ぐ。
「このっ!」
堪らず踏み出そうとした家令を目線で封じ、沙輝は新に強いまなざしを向けた。
「私がなんと言われようと構いません。何もかもを失ったと思ったその中で、ようやく見付けた救いなのです。私は誰がどう言おうと、生き延びてくださったあの方をあらゆる意味で庇護するつもりです」
沙輝の揺るがぬ言葉に、新はふいと肩を竦めて見せた。
「無駄だよ」
たった一言。
だが、それはその場の二人がはっとする程、冷たく暗い声であった。