零れ落ちた時を埋める者
「白月、いえ、今は虹也さんでしたね。実を言うと、私が自己紹介をしないのには理由があります」
変わらぬ表情のまま、その女性は静かに告げた。
それへ虹也はうなずく。
当然ながら、どのような事柄にも大体は理由があるものだ。
さすがにこんなところ迄招いておいて、嫌っているから冷たいなどと思い込む程には虹也は子供ではない。
だが、理由の分からない隔絶は、どれほど理屈を並べても人の心を蝕むものだ。
実際、これまでの余所余所しい扱いのせいで、虹也はこの家や人達に対して、好意はもちろん悪意すらも、感情らしきものは何一つ抱けていない。
「この家は特殊な立場を持っています。言うなれば生きた国の保安機構の一部のような。それゆえに、私達は行動を制限されざるを得ない立場です。虹也さんに敢えて家名を告げないのは、騙し討ちのように貴方を退っ引きならない立場に追いやりたくないという配慮もありました。ですから、失礼を致しているのは重々承知ですが、家名についてはしばしお待ちいただけますか?ですが、名乗らないというのは人と人としての交流を拒むのも同じ事と貴方が感じるのは当然の話でもあります。ですから、名のみでよろしければ名乗りをお受けください。私は沙輝と申します」
「分かりました。それでは改めまして、美郷虹也です。よろしくお願いします」
その説明と、名乗られた名に、虹也はやっと少し安心した。
やはり何の説明も無いよりは、ある程度は明かしてもらった方が良い。
それにしても、虹也が事前に噂として聞いていた以上に色々と難しい家柄のようだった。
氏族というのは、つまり魔法使いの家系という事らしいが、虹也にとっては魔法云々は全くお手上げの世界である。
分からない事を元に何かを要求する事は出来ない。
虹也は、しばらくはあまり色々気にせずに、ただ相手の言葉を受け止めるだけでいれば良いのだと自分を納得させた。
「こちらに気を使ってくださっていたんですね。そうとは知らず失礼しました」
「いえ、こちらこそ最初に説明すべきでした。至らなくて申し訳ありません」
疑念の一つはある程度納得出来たが、虹也には尚も気に掛かる事がある。
このやたら丁寧なよそよそしさだ。
家に関わらせたく無いだけとしたら、ここまでどこか壁を感じるような受け答えに終始するだろうか?
だが、先程もそう思った通り、先方の事情は虹也の予測の範囲では捉えられない可能性が高い。
ここは追求するより聞くべき時だろうと虹也は判断した。
「そう言えば姉は俺を“しろちゃん”と呼んでいたようでした。そちらのおっしゃられた名前は全く覚えていませんが、姉のこの呼び名に似てなくは無いですね」
話題を変えることでこの場の雰囲気を変えようと、虹也は敢えて手札の一枚を切った。
姉に関する事柄は、先手に出すには少し大きな切り札だったが、虹也としては姉の情報を知りたい気持ちもある。
だが、その虹也の言葉に相手は少し戸惑った風に見えた。
「お姉様ですか?……ああ、ひわさんの事ですね。あなたの導師をなさっていらした」
「ひわ」と、口の中で呟いて、どんな字を書くのだろうと虹也は思った。
彼を命懸けで守り抜いたくせに、そんな強さがあるようにはとても見えなかった優しげな顔立ちが思い浮かぶ。
そして、ふと、沙輝と名乗ったこの人が、なぜ僅かに戸惑ったのかが気になった。
虹也がその疑問を口に乗せようとしたその時、予期せぬ振動が彼等を襲う。
ぐらりと一瞬体が泳ぐような感覚を感じ、咄嗟に避難場所を目で探した。
だが、振動と言っても、それは地震のように足元から伝わる物とは違っていた。
まるで、横合いから空気で殴られたような衝撃が不意に襲ったのだ。
そうやって素早く周囲を見渡した虹也は、目前の女性が険しい顔を窓に向けているのに気付く。
ふと、その顔が赤く染まった窓を見て絶望の色を浮かべた姉に重なる。
あろう事か二度目の、今度は精神的な揺さぶりを受け、虹也は、当時の感情に支配されそうになる自らを制し、吐き気に似た、喉元にせり上がって来る物を飲み下そうと必死で耐えた。
しかし、だからこそ、その時。
虹也は初めて目前の女性、沙輝に、姉へと連なる血の繋がりを感じた。
(少し姉様に似てる)
虹也の姉は天然パーマのブラウンに近い髪色で、朝は髪を解かすのに悪戦苦闘していた程である。
黒髪黒目のこの相手と、色合いは全く似てないが、顔の造り自体はどこか重なる物があった。
『しろちゃんは髪に癖が全然付かなくて羨ましいな』
また蘇った記憶は、しかし今度は優しい日常の一コマだった。
痛みを覚悟していた虹也は、温かい想いと共に、ほっと力を抜く。
「何かあったのですか?」
ようやく、虹也は気を取り直して沙輝に尋ねた。
彼女の表情は尚も険しく、既に視線は窓から移動している。
その方向は、
(屋敷の中?)
なんとなく耳を澄ました虹也は、屋敷内の静寂が、まるで覆いを剥すように取り払われた事を感じ取る。
知覚の捉えられるぎりぎりに人の気配があり、それはどんどんと近付いて来ているようだった。
緊張を孕んだ沈黙の果て、近付いた気配は争いの空気を纏ってドアを乱暴に押し開いた。
「いよう!本来の後継者様が見付かったんだってな!愛しの当主様の焦ったご尊顔を拝しにやって来ましたよ!」
「あまた様!お止めください!」
一目で分かる荒んだ目付き、赤ら顔は酒が入っているのか?
何の躊躇も無く振るわれる動きの一つ一つに暴力に繋がる危うさがある。
道で出会えば厄介事を望む者以外は誰もが彼を避けて歩くに違いない。
どこからどう見ても、その男はごろつきだった。
だが、虹也は自分では自覚の無いまま、まるで引き寄せられるようにその男を凝視していた。
何かが意識の奥から突き上げるように行動を促している。
だが、その行動が何なのかがどうしても掴めなかった。
呼吸を無理矢理止められたような、そんな苦しみが虹也の全身を支配する。
「あらたさん。貴方、結界石を壊しましたね?」
沙輝はこのあらたというらしい男を止めようとしていた使用人らしき初老の男性を手で制すると、自ら向き直って糾弾した。
「わりぃ、車を停めようとしたら当たっちまったよ」
だが、男は全く悪びれずにそう言うと、何がおかしいのかゲラゲラ笑い出す。
「よう、坊や。ようこそお帰りなさいませ、そしてお気の毒さま。可哀相な王子様」
いかにもチンピラのごとき軽さで虹也を見たその男の目。
その奥には向けた相手を凍らせるような名指し難い狂気に似た何かがあった。
そして、それは紛れもなく虹也へと向けられていたのである。




