沈黙の家
その屋敷は、深い森に抱かれるように存在した。
白漆喰らしき外壁で2階建てのその屋敷は、建物として確かに立派なものだったが、氏族という重い響きと比べると、随分と質素な物に思える。
むしろ立派なのは周囲を囲むように広がる庭の方で、山の裾野の一画にあるらしいその屋敷の庭と森林とが、まるでひと続きになっているように広がり、恐ろしく広大な庭に見えた。
虹也は、規模は違えど庭から裏山へと入り込めた自宅を思い出し、その一瞬だけ気持ちが緩むのを感じる。
父母との多くの思い出が、その庭にはあったからだ。
案内された屋敷には人の気配が薄く、先導する初老の男性は必要最低限の言葉しか発しない。
ただのシステムであった車内のナビゲーターの方が、余程人間的であったと思える程だ。
今現在彼らが歩いている二階の渡り廊下は、外壁部分が全面ガラス張りになっていて、そちら側の庭が一望出来る。
その、水豊かな野山を模した箱庭は美しく、そこへと目を向けた虹也は僅かな癒しを感じたが、それだけに屋敷内の静寂が際立って感じられてしまう。
(屋敷前でみんなで待ち構えていて歓迎とかを期待した訳じゃないけどさ)
虹也はひっそりと口の中でそう呟き、先行する真っ直ぐな背を追った。
虹也も考え無いでは無かった。
もう十年以上前の事件、しかも当時は五才程度だ。
殆ど大人と言ってかまわない程に成長した今の自分に、果たしてどれほどの面影があるものか、と。
相手が騙りと警戒するのなら、むしろそれが当然だとも思う。
そう考えはしたが、虹也は自分の気持ちが沈んで行くのを感じていた。
「奥様、お連れしました」
声に気付いた虹也が、慌てて物思いから覚めると、目前の人物は立ち止まっていた。
危うくその背に突っ込み掛けて足を止める。
「どうぞ、お入りなさい」
応じたのは、高くも無く低くも無く、するりと耳に収まる声だった。
そして同時に感情の読めない平坦さも感じさせた。
カチャリと扉が開くと、流石に虹也は緊張で身を堅くした。
「どうぞ、奥様がお待ちです」
ここまで虹也を誘導した男性は、部屋に足を踏み入れず、虹也を部屋の中へと招いた。
(常に一対一という決まりごとでもあるんですか?)
思わず問い質したかった虹也だが、ぐっと我慢してそれに従う。
状況や人に慣れる間も無く、ほとんど相手の思う通り、状況に流されるままに終始しているのが虹也に苛立ちを抱かせた。
だが、ここは相手の土俵である。
あがいたところで仕方ないと思い切って、虹也はその部屋に身体を入れた。
「失礼します」
どの程度の礼節が適当なのか全く分からなかった虹也は、大袈裟でない程度に頭を下げる事にした。
作法など端から分からないのだから下手に繕っても見苦しいだけだろうと思ったのだ。
茶道や華道を修めていた彼の母は時に言っていた。
礼儀とは相手を不快にさせず、豊かな時間を過ごさせる為の所作なのだと。
行動の端々で相手に視線でお伺いを立て、動きを丁寧に予想しやすいものにする。
そしてその全てが卑しく見えないように芯を通し、気を抜かない。
どんな場所どんな人相手であろうと、そう心掛けて対応すれば、正式の作法を知らずとも少なくとも相手を不快にせずに済む。
茶道も華道も女のやる習い事と見向きもしなかった虹也だが、その母の言葉は忘れずにいたのだ。
軽く頭を下げて入った虹也が頭を上げると、同時に扉が閉まり、次の行動へと彼を誘った。
虹也の視線の先には同じように下げた頭を戻す女性が半円型のソファーに腰を下ろすのが見える。
「よくお見えになりました。どうぞそちらへ」
反対側の対のソファーを示され、虹也は促されるままにそこに腰を下ろした。
やはり完全な一対一だ。
もはや意図してそうしているに違いないと、虹也はほぼ確信に近い気持ちで思った。
「確かに、面影があるわ。兄様にそっくり」
虹也は今回はリングを隠す為の眼鏡を外している。
隠す意味が無いし、身内を確認する為に弊害になると思われたからだ。
あの眼鏡を掛けていると微妙に色合いが淡く見えるのだが、そのせいか、今は目前の女性が虹也の目には酷く鮮やかに映った。
別段特別な色合いを纏っている訳でもない。
彼女は黒髪黒目、いかにもな日本人顔(異世界ではあるが)で、上品にアップにした髪は飾り気が無く、藍色の着物に似た服装だ。
偶然にも虹也と似た様な色合いではあったが、だからこそ質の違いが素人の虹也にすらあからさまになってしまっていて、やや虹也の礼服がみすぼらしく見える。
しかし、この服を用意してくれた墨時達の想いを纏っているのだと思うと、虹也は全く憶する気持ちにはならなかった。
ともあれ、そんな具合で個々の部分を見た感じでは、この女性に虹也に強く訴え掛ける要素は見当たらないのだ。
年齢で言えば40代ぐらいだろうか?
女性としても母親的な意味でも、虹也の琴線の対象外だ。
それは身内ゆえの特別な感覚だと考える程虹也はロマンチストではない。
なので考えた挙句に眼鏡のせいにしたのだった。
「白月王という名を覚えていらして?」
いきなり尋ねられて、虹也は重い口を開いた。
「さあ?なんだかお芝居か物語の登場人物のようですね」
見当も付かない問いに虹也は肩を竦める。
「それがあなたの幼名でした」
虹也は顔を引きつらせる。
「大層な名前ですが、僅かな俺の記憶の中では、そのように呼ばれた事は無かったようです。やはり人違いだったのではないですか?」
虹也は早々に禁じ手とも言える言葉を言い放った。
相手が既に虹也がそうだと断定した上で話しているのが癇に障ったというのもあったし、真実知らない名前だったという事もある。
なによりも、正直他人でいて欲しい名前だった。
『白月王』とか、人に聞かれたら爆笑される類の名前だろう。虹也だって他人の名前として聞いたら笑い転げる自信がある。
「記憶があるのですね。事前の情報では記憶を失くしていると聞いていましたが」
女性は虹也の否定を気にした風もなく話しを続けた。
虹也は、彼女と話していて何かずっと嫌な感じを受けていたのだが、その理由に唐突に気付いた。
顔を合わせてから、その女性は一度も笑顔を見せていないのだ。
それどころか、ずっと表情を変えずに話しをしている。
ここへと案内した男性もそうだったが、まるでそれは人形か機械を相手にしているようだった。
それに、
「失礼ですが、俺の名前は既にそちらはご存知のようですが、俺はまだ貴女のお名前も伺っていません」
初対面で名乗り合いも無しにいきなり会話を始めるそのやり方が理解出来ない。
人と人がお互いを理解しようとする場合、名乗り合うのは当たり前なのではないかと虹也は思っていた。
確かにこの女性の言葉使いは上品で、虹也を見下した風でも冷淡に扱っている訳でもない。
だが、人と人としての触れ合いを拒絶しているように虹也が感じてしまうのは仕方のない事だろう。
虹也の言葉に、その女性は初めて表情を変化させた。
ほんの僅か、まるで痛みを感じ、それに耐えるように。