月の証明
「それで君の名前は?」
問い掛ける口調は穏やかだが、尋問には違いない。
虹也は緊張しながらも、それに答えた。とりあえずここでごねる理由は無い。
「美郷虹也です」
対応する相手は、頷いて書面にペン先を当てた。
「文字は美しい里かな?」
「あ、いえ、郷の方です」
「ごう?」
「くにとかきょうとか」
「ああ、きょうね。ごうなんて読んだかな?」
「ええ」
ここで彼は違和感を覚えた。
文字を説明する上で相手の書き文字を目で追っていたが、その文字が微妙に変なのだ。
美の上辺の両端が不自然に上がっているし、郷の左の偏は全体を抱え込むようにして簡略化されていた。
それは個々人の癖である可能性もあるが、今まで感じた違和感を裏打ちする一つの鍵にも感じる。
ここが今まで居た場所と似て異なる”どこか”であるという証左の一片だ。
「ご家族に連絡を取りたいので連絡先を教えて貰えるだろうか?」
「家族は先頃亡くしたんでもういません」
その返答に返るのは、既に慣れても来ていた、相手の気の毒そうな顔。
しかし、今はそれだけではなかった。
何かを納得したようなまなざし。
虹也はそれを悟ってムッっとした。
「だからって自殺なんかしませんよ」
「しかし、満月の夜半に身に守りも帯びずに守護の光の無い場所を彷徨っていたりすれば、ほぼ間違いなく骨も残らず食らわれる事ぐらい、子供だって知っている事だ。失礼ながら普通の行動とは思えませんが?」
「おっしゃってる事は理解出来ない部分もありますが、とにかく、あそこにいた事に関しては、俺にもよく分からないんです」
言いたい事は色々あるが、とりあえずは何もかもが分からない。
この人達は警官って事でいいのかどうかすら分からないのだ。
本当にここで何もかもぶちまけてしまって良いのだろうか?何か間違いを犯しているんじゃないか?何度も何度も不安が押し寄せる。
行動や話した感じはそれっぽいのだが、語られる常識が全く違う。しかもここがもし自分の勘違いで、違う”どこか”なんかではなく、単にちょっと家から出てきてしまった近所のどこかなら、かなり危険な方向におかしいのだ。
「自分の行動なんだから分からないというのはおかしいのではないかな?」
だが、疑って掛かってさえ、彼の声の調子にも、目付きにも、それと分かるようなおかしな兆候は見えない。
「でも、俺、さっきまで自宅の庭にいました。それなのにいつの間にかあの雑木林にいて」
真実のカードを一枚めくる。
手持ちは危険な札ばかり、どちらにしろどれかを開かねばならないならこれしかないだろうと思ったのだ。
父にはお前は勝負師にはなれんなと散々笑われた彼だが、フェイクが無理なら、真実で勝負するしかない。
「なんだって?それは夢遊病とかの持病があるという事かな?」
なにやらその、警官らしき二人の様子が変わる。
緊張?いや、緊迫感?
「いえ、寝ている間の事ではありません、俺は起きていました」
はっきりと彼等の顔色が変わった。
二人は何事か話し合うと、一定の結論に達したらしく、先程より真剣な面持ちで虹也と相対した。
「詳しく確認を取りたいんだか、良いかな?」
「あ、はい」
いいえとか言える雰囲気じゃないし、拒否する意味も無い。
虹也は素直に頷いた。
「君は自宅の庭にいた。それは何時頃の話だね?」
「正確には分かりませんが、大体夜10時ぐらいだったと思います」
「なるほど22時前後だな。それで、日にちは?」
「ええっと、4月の28日です」
彼の言葉に相手の眉が潜められた。
「あの、何か?」
「君はここに来るまでの間、月は見たかね?」
「はい、見ましたけど、それが?」
直前に月を見上げてそこに円状の虹を見た彼は、当然のように異変後にもう一度それを確認しようとした。
しかし、そこに満月はあったが、既に虹は失せていた。
「満月ではなかったかね?」
「はい、そうでした。さっきも話題に出てましたよね」
「おかしいとは思わなかったのかな?月が満ちていれば15日、せめて16日だろうに」
虹也は首を傾げた。
月と日にちに何の関係が?
そこまで考えた時にはたと思い付く。
(太陰暦?)
太陰暦は月の満ち欠けを一ヵ月とした暦で、新月から次の新月迄で、大体30日、つまり満月はその中間の15日になる。
日本も昔は太陰暦だったので十五夜などの風習にそれが残っているのだ。
「あの、それは太陰暦ですか?」
「たいいん?病歴の話か?」
「あ、いや、えっと、月を元にした暦ですよね?」
「そりゃそうだ」
「あの、太陽暦は使ってないんですか?」
机の反対側で男は肩を竦めると、頭の奥から何かを引っ張り出す者特有の遠い目をした。
「ありゃあ大陸の方の一部で使われている暦だな。潮の満ち引きと噛み合ってないし使い辛そうな暦だが、あれを使っている国があるという事はなにか意味があるんだろうな。だがまぁ、我が国では普通は使わんよ」
「そういや学生時代、意地の悪い試験問題で月と太陽のそれぞれの暦を使っている国を書けという問題が出ましたよ。うっかり月輪圏と太陽圏を混同して書いちゃいましたね」
「被ってないからなぁ、おっと、すまない。話がおかしくなってしまったな。それで暦がどうしたんだね?」
虹也は絶句した。
今の会話に彼の理解が及ぶ部分が無い。
敢えて言えば太陽暦も存在するらしい事だけだ。
覚悟はしていたものの、その何気ない日常に根ざす会話は、とうとう彼に決定的なものを突き付けたのだ。
「あの……俺、何がなんだか」
肩を落とした彼に、警官のような男達は一様に気遣わし気な顔を向けた。
「君も不安だろうからこちらの一応の見解を伝えておくが、君は恐らく意識改竄を受けているのではないかと疑われる」
「意識改竄?」
「ああ、その、ショックを受けるかもしれないが安心してほしい。本部には優秀な術師がいるし、後遺症に対する対策は昔より遥かに進んでいる。大丈夫だ」
虹也は一つ瞬きをすると、言われた言葉を飲み込んだ。
「ちょっと待ってください!俺の意識ははっきりしています。記憶の断絶もない。いきなり知らない場所に居ただけなんです」
「落ち着いて、大丈夫だ。別に決め付ける訳じゃないし、君に責任があるとも、騙しているとも思ってない。ただ意識を操作する術や術式を使用するのは大罪なんだ。そのつもりで慎重に捜査が行われると、いう事で安心してもらいたかっただけなんだよ」
「それは返って不安になるだけでは?」
記憶を否定されるような事は我慢ならない。
それは全てを否定される事だ。
虹也はその思いをあからさまに視線に乗せる。
「心配しなくてもちゃんと調べる。大罪が疑われるなら本部が出るからね。彼等は専門家なんだ。そう、君がそうやって怒りを感じるぐらい、それが行われたとしたら許せない行為なんだ。だから絶対にどうにかする。それを分かって、安心してもらいたいと思ったんだ」
彼の言う安心が自分のそれと同じでは在り得ない。
が、向けられたものは疑いや敵意では無かった。そこにあったのは人間の人間たる情だった。
それは安心には遠いながらも、虹也の心に余裕をくれる。
「分かりました。俺も分からない事ばかりで判断の手掛かりが正直欲しいです。信用させてもらう事にします」
「うむ、すまないな。一端でしかないといえども人々の平安を預かる身でありながら、君の不安を拭い去れないのは不徳の致す所だ」
その言葉に、やはり警官と同等の役割の人達なのだと虹也は納得して、同時にストンと力を抜いた。
「あの、改めて、さっきはありがとうございました。さっきは危険の度合いが良く分かってなかったんですけど、命を助けて貰ったんですよね?」
そう言って、彼は今、調書を取っていた相手とは別の、自分をここに連れて来た方の男に改めて礼をする。
まだ半信半疑の部分が無いと言えば嘘になるが、どうやらここでは闇にはなんらかの、命にすら関わる危険があるらしかった。
彼が気付いてくれなかったら、自分はどうなっていたのだろう?何も分からないまま命すら失くしていたのかもしれない。
そう改めて思うと、ぞっとしたし、やはりなによりも有り難かった。
「いや、あの辺は因縁のある場所だからね、夜回りの際は注意する事にしてるんだ。ともあれ、良かったよ。いや、まだ良かったというのは早いかもしれないが」
その労わるような笑顔に、ここがどこであるにしろ、やはり人間は人間なんだと安心する。
だから、彼はこの時、相手の言葉に注意を払うのを忘れた。
おかげで回答へと辿り着くのに随分と遠回りをする羽目になるのだが、それが良かったのか悪かったのかは、その後の判断に任せるしかない。
ともあれ、回り道は思わぬ出会いへと彼を導く事になった。