月の無い日の始まりに
部屋の窓から見上げる空は曇天、なんとなく気持ちも盛り上がらないと虹也は思い、いやと頭を振った。
「天気は関係無いよな」
ぽつりと本音を漏らす。
身内であるかもしれないという相手との面談の当日、虹也は多くの不安と、僅かばかりの期待に心を揺らしていた。
その上、
「これ、やっぱり派手過ぎないか?」
派手という表現には似つかわしくない落ち着いた色合いだが、鏡に全身を写して立っている虹也の服装は、さながら古い洋画に出て来る初めての夜会にでも出席する若い貴族のようだった。
いかにも正装といったその姿は、日常の風景の中では着用者に忍耐を強いる程浮いている。
「大丈夫よ。何事も第一印象は大事なんだから、なるべく格好良い方が良いに決まってるじゃない」
銀穂は、まるで子供の晴れ着にはしゃぐ若い母親のように盛り上がっていた。
「うん、お前は顔立ちが氏族風だからな、そういう服装だと気品があるように錯覚するぞ。似合ってる似合ってる」
褒めているのかどうなのか疑わしい墨時の評価は、虹也の不安を倍増させただけだった。
「なあ、やっぱり今回は様子見で普段着にしないか?」
早朝に目覚めてからこっち、もはや本日のメインであるはずの相手の立場や家柄は二の次で、その格好が浮くか浮かないかが彼らの議論のメインとなっていたのだ。
「ばっか、お前、みすぼらしい格好で浮くより上等の格好で浮いた方がマシだろうが」
「俺の意見は逆だね、第一これ動き難いだろ」
「そんなはずは無い。ちゃんと寸法は調整しただろうが」
「そりゃそうだけど」
動き難いというのは、虹也の心情的な問題だ。
せっかく無理して用意して貰った服を、汚したり破いたりしたくないという気持ちがあるので何かあった時にその辺りを気にしてしまうかもしれないと思ったのだ。
しかし、虹也は照れのせいでそれをストレートに言えない。
そうこうしている間に時間は迫って来た。
虹也と墨時、両方の端末がデフォの立ち上げ画面を表示すると、外部からのアクセスを知らせる。
「あんたたち表紙ぐらい少しは凝りなさいよ」
それを見た銀穂が呆れたように言った。
ちなみに、表紙とは虹也が立ち上げ画面と呼んでいる起動時のホログラム画像の事である。
「良いじゃないか参考画面で、別に困る事はないぞ」
「まあ俺は良いの見付けたら変えるけどね」
見た目に興味の欠片もなかった墨時は、虹也の言葉にショックを隠せない。
「う、裏切り者め」
「いや、なんの約束もしてないから」
「若いんだから洒落っ気があるのは当然でしょ、あんたもそういう所から若さを主張してみたら?」
「お、そろそろ降りないと拙いぞ」
銀穂の主張を不器用に躱すと、墨時は虹也を伴って部屋を飛び出す。
実際、今のコールは相手の位置情報の予約コールで、合流予定までに十分を切ると知らせが入るように設定してあったのだ。
「もう!しょうがないんだから!……コウちゃん、色々考えずに自分の気持ちを一番にするんだよ!」
銀穂は諦め気味に相方に文句を言いつつも、虹也に助言を忘れない。
「ありがとう、銀穂さん、行って来ます!」
虹也は元気良く銀穂にそう告げると墨時に続いたのだった。
墨時の住むマンションのような建物は一応官舎に当たるので、一般車両の横付けなどは制限があるらしく、約束の相手との待ち合わせは少し離れたレストラン風の店の前になっていた。
店舗前に丸い玉石のような物があり、その手前でという話だ。
レストランはこちらの常識に疎い虹也にもはっきりと分かるぐらい高級店然としていて(何しろ立派な門と前庭がある)、玉石はその門と壁に沿うように少し離して外側に置いてあった。
「これは結界石なんだ。これに囲まれた内側は強固な守護の力が働いているんで、魔術以外でも一切の戦闘行為が不発になる。ここを指定したって事は、少なくとも相手はお前の安全を考えているって事だろうな。何かあってもいざとなったらこの内側に逃げ込めばそこそこ安全を確保出来る」
玉石に対する墨時の説明を聞いても、虹也としては全く何の判断も出来ないでいた。
虹也は、こちらの世界に親族がいると言われても、どうしても現実感が無いのである。
まだ姉が生きているかもしれないという希望があるのならばそれなりの期待もあっただろうが、虹也はもう姉が死に至る間際の記憶を取り戻していた。
そして虹也の幼少時の記憶にはそれ以上に親しい相手が浮かばない。
尤も、思い出していないだけという可能性もあるのだから、あまりにも突き放して考えるのも早計過ぎではあるだろう。
そんな虹也の整理のつかない想いを置いて時は移り、やがて墨時が軽く虹也を突っ突いた。
「おみえになったようだぞ」
敬語が滑って聞こえるその墨時の言葉のぎこちなさに僅かな癒しを感じながら、虹也は物思いを止めてその車を見た。
こちらの車特有の静かな駆動のせいでほてんど音も無く走って来るそれは、他の車両より前後左右上下に大きかった。
もはや小型のバス並だ。
そして、普通の車がカタツムリだとしたら、その車はゾウに似ていた。
「コウ、緊急回線は通常回線の裏に仕掛けてある。通話が繋がらなくてもそのまま回しておくんだ。周囲に誰かがいるようなら、回線を確保したまま閉じれば繋がった状態で維持出来るからな」
最後の確認のつもりなのか、墨時は虹也に向かって緊急時の連絡手順を告げた。
「大丈夫。何回も手順を繰り返しテストしただろ?もう目を瞑っても出来るよ」
「言ったな、帰ったら目を閉じてやってもらうからな」
「くっ、いや、良いぞ!その挑戦受けてやる」
そんなやり取りの間に、車は彼らの前に停まった。
驚いた事にその車にタイヤは無く、止まった時にシューという空気の漏れるような音がする。
「ホバー車?もしかしてこの車、水陸両用?」
そもそもどの車にも排気筒が無いのだから、エンジン機構の設計思想から全く異なるであろうこの世界で、それが驚くべき事なのかは分からないながら、他に殆ど見掛けない以上は特別仕様なのは間違ない。
そんな特別仕立ての車を持って来る辺り、墨時の言う通り、相手は虹也にかなり気を使っているように思えた。
見れば道行く人々も酷く驚いた顔でその車を眺めている。
すぐに停車した車のドアがスライドして開く。
虹也はもう何が来ても驚くまいと決めていたので、まるで自動ドアのようにスライドしたそのドアにも、少し顔を引きつらせたのみでそれを眺められた。
人が降り立つ。
「美郷虹也様ですか?」
それは痩せ過ぎず、当然太ってなどいない初老の上品な男性だった。
彼は、虹也の隣りに立つ墨時などまるで存在しないかのように、真っ直ぐ虹也だけを見て尋ねる。
さすがに少しムッとした虹也の背を、墨時が軽く押した。
「行って来い。それとも手を引いてやらなきゃ歩けない赤子だっけ?」
「バーカ、自分の面倒みている相手の年も分からない程ボケたのか?」
二人は目を合わせるとニカッと笑みを交わした。
その間も静かに佇んで虹也の返事を待っていた男性は、虹也が「そうです」と頷いてみせると深く一礼し、自分が出て来たスライドドアの後方の少し高い位置にあるドアを開く。
呆れた事に、そのドア部分というか、車体の後ろ部分は、木目も鮮やかな重厚な木造りのように見えた。
しかも、扉は観音開きで左右一枚ずつを丁寧に手袋を嵌めた手で開いて行く。
「なんか既についていけそうに無いんだけど」
価値観の違いを突き付けるようなその仕組みに早くも弱音を吐いた虹也に、墨時は笑い混じりの声で言った。
「逃げ出してもなんとかしてやるぞ。どうする?」
それは笑い含みだが、真剣な響きを持つ言葉だった。
本気で虹也の為に逃げ道を作ってくれるつもりなのだ。
そう理解した虹也は、丸め掛けていた背中を伸ばし、口元を引き締める。
「ばっか、俺が後ろを見せて逃げ出す訳ないだろ、滅多に出来ない体験なんだろうし、せいぜい楽しんで来てやるよ」
「おう、格好いいぞ、男の子」
「子供扱いすんな、そりゃあ、まだ自分の食い扶持も自分で稼げない居候の身だけどさ、図体がでかいだけじゃないんだからな」
開いた扉の中に見える座席は、まるで高級レストランの個室のような内装だ。
もうここまで世界が違うと、逆に虹也は開き直れた。
「どうぞ、こちらへ」
開いた扉の下に踏み台が展開していて、少し高い車高も全く困らずに乗り込めるようになっている。
「じゃ、行ってきます!」
颯爽とした、しかし、どこか衣装に着られる成人式の若者のような姿で、虹也はその車に乗り込んだ。
その扉の内側へと入る時に、僅かな空気の違いを虹也は感じる。
(ここにもやっぱりバリアー的な何かがあるんだろうな)
その感触からそう悟って、木造の車体で平気な意味を理解した。
乗り込んだ虹也を確認して優雅な仕草で閉じられる扉の向こうから、
「行って来い!朗報を待ってるぞ!」
という墨時の声が聞こる。
不安は決して無くならないが、それでも虹也はうっすらと微笑んで、真っ白な袖口の金カフスをそっと撫でたのだった。




