閉ざされた函の中の会話
墨時はギシギシと音を立てる廊下を移動しながら、この男には珍しくためらうような素振りを何度か見せた。
目当ての部屋の前で更にためらい、意を決して扉を開こうとして前のめる。
「うおっと……」
たたらを踏んで辛うじて体制を立て直した墨時の目前には、彼がここへ来た目的の姿があった。
途端に墨時の顔が嫌そうに歪められる。
相手に失礼な話だが、その相手の顔もあからさまな嫌悪の一歩手前といった有様なので、どっちもどっちといった所であろう。
「てめえな」
自分が危うく転びそうになった原因を脳内断定して、墨時は開口一番文句を発しようとする。
「おや?ドアの前でごそごそやっているのはどんな変態な不審者かと思えば、残念な単細胞生物でしたか」
が、先に嫌味を飛ばして来たのは相手の方だった。
「内藤技官、嫌がらせをやってすっきりしたか?」
「失敬な、私は嫌がらせなどという俗な行為に耽ったりはしませんよ。今のは純然たる悪意です」
平然と言い放つ相手に、墨時は殺気を込めた視線を向ける。
「良い度胸だな、内藤技官」
「おやおや、この程度の悪意でおたおたするようでは捜査官は勤まりませんよ?」
闘鶏の雄鶏のようにしばし顔を付き合わせていた二人だったが、流石に不毛さを感じた墨時はやや乱暴にだが、用件を告げた。
「あんたにわざわざ資格を確認して貰う必要はない。それより胸糞悪いがてめえに用事があって来たんだ、話しを聞け」
「頼みごとなら礼儀を尽くすのが筋では?まあ良いでしょう、君のような人類未満の猿に過分な期待をする方が愚かというものです。どうぞお入りください」
いつもながらの毒舌ぶりに辟易しながらも、墨時は部屋へと入り込んだ。
事件に関する資料分析、果ては検体の解剖まで行なう分析班の部屋は、化学実験室と医療施術室を合体させて散らかしたという印象だ。
しかも墨時は、ここには無造作に危険物が放置してある事も知っている。
その雑然さに顔を引きつらせながらも、足場を探るように移動した。
「あらこんにちは、山中捜査官」
そんな墨時に対して、薬品棚で何か作業を行なっていたらしい女性技官が挨拶をして来た。
「珍しいですねこちらにお見えになるなんて。よほど追い詰められておいでなんでしょう」
いかにも同情に満ちた視線だが、騙されてはならない。
この部屋に勤める者にまともな精神の持ち主などいないのだ。
強化された鉄心編みのザイルのような精神の持ち主でないと、この職場ではやっていけないのである。
「とりあえず知識だけは他の追随を許さないからな、この男は」
墨時はどこか悟りを開いた修行者のような面持ちで、半円に組まれたテーブルと椅子から危険の少なそうな物体を手で押し退けて、強引に席を確保すると腰を下ろした。
「それで?私の天才的な頭脳を必要としているのはどのような案件でしょうか?……いや、皆まで言わずとももちろん分かりますとも。あの坊やの事でしょう」
「一人でベラベラ喋るな。なんでもかんでも分かった風にしてんじゃねえぞ」
トンとテーブルを指で叩いた墨時の前にすいと茶器が置かれた。
先程の女性技官である。
「どうぞ、お口をお湿しになって」
にこりと笑う口元のほくろがなんとも妖艶だが、それが実は付け黒子だと墨時は知っていた。
「どうも」
礼を言いながらも、墨時の手はピクリとも茶に向かって動かない。
「ふん?私の推測が違っていたとでも?」
「当たっているからこそムカつくってのはあるんだよ」
墨時は小さく舌打ちをすると、椅子に背を預けるように深く座った。
「あいつに、どうも詠み手の兆候が現れたっぽい」
完結に口にしたのはこの国では公然の秘密に類する話題だったが、その内容に驚いたりする者はこの場にはいない。
内藤は軽く首を傾げる動作をみせる。
「そもそも、力場波光に呑まれた時点で兆候と言うべきだと私は思いますけどね。具体的には何が起こったのですか?」
内藤の言葉に墨時の表情が強張る。
「ちょっと待てや、あれは力場酔いって言ってたよな。違うってのか?」
「力場酔いは気分は悪くしますが意識は失いません。坊やのあれは詠み手特有の共感の類でしょう。情報統制であまり詳しい情報は出ていませんが、太古の昔から詠み手が魔気を通して世界と共感しているのは周知の事実ですからね」
「それ、部長に報告はしたのかよ?いや、今も部長のエリア内だから筒抜けなのか?」
「いやいや、この部屋はシールドしてありますよ?」
「えっ!?」
墨時は思わず椅子から立ち上がって、自分の同僚を凝視した。
「保安条項違反だろ、それ」
「許可は貰っていますよ。直の接続では不快な物をご覧になると思いますのでここはシールドして間接的な支配を施してください。と」
「不快って」
「ここでは死体や生体をバラす事もあるでしょう?」
聞いて、墨時の顔が段々と青くなる。
そういう事があるであろう事はもちろん墨時も知識としては知っていた。
生体への肉体破損行為。
それはいわゆる拷問である。
当然それはいち技官の考え一つでやってはならない事だが、申請し、許可が下りれば任務として問題の無い行為なのだ。
だが、墨時は、それが実際に行われているとは欠片も思っていなかった。
それ程までに悪辣な手段を必要とするような事件など起きた試しが無いからだ。
「座ってください。詭弁ですよ。実際に私がここの担当になって以降、生体へのそういう行為が行われた事はありません。せいぜいが職員の協力による試薬実験程度です」
墨時は頬を引き攣らせながらも大人しく座った。
内藤の“試薬実験”については、捜査部内に知らぬ者はいない怪談に近い話だからだ。
捜査部には分析班で出される飲食物を口にしてはならないという暗黙の了解がある。
「そ、それで報告はどうなってるんだ?」
気を取り直した墨時は、会話を元に戻した。
内藤は薄く笑うと、肩を竦めてみせる。
「私は施術師ですよ。推論し、実験し、結果を導き出す。そうやって確実性がある一定を超えた情報だけを上に報告するのが正しい在り方です。推測を報告するなぞ学生ですらやらないでしょう」
「それはまた、回りくどすぎて事が終わっちまうレベルだな」
「それで構わないでしょう?私達の役割は終わった事の解析だ。情報の蓄積こそが一番の役割なのですよ。そこに推論の入り込む余地はありません」
「頭痛え」
墨時は彼自身の常識との違いにめまいのようなものを感じた。
「おや、良い薬が……」
「ま、待て!頭痛は収まった、話を戻そう。コウの、虹也の事なんだが、術の使えない場所で先見をしたらしい」
内藤が目で女性技官に合図を送ろうとするのを遮って、墨時は慌てて相談内容を話す。
内藤は視線を戻し、無言で墨時に先を促した。
「ほら、屋内施設遊技場に良くあるだろ、条件設定で固定して点数を競うやつ。あれでなんとなく流れが読めたんだそうだ」
「なるほど、条件設定固定は他の術式と共存出来ない。能動的魔術では有り得ないという事ですね。確かにその条件下で実験すれば確証に近いデータが取れるでしょう」
「やはりそうなのか?」
内藤は片眉を上げて墨時を見た。
「直接見てもいない実験の結果を判断出来ると思う程私も自惚れてはいませんよ。ですが、少し気になるのですが、その様子は誰でも見れた訳ですよね?大丈夫なのですか?」
「う!?」
内藤の指摘に、墨時は虹也が襲われ掛けた事を思い起こす。
偶然にしては出来過ぎている事件だが、その過程と結果はお粗末過ぎる。どう考えても玄人が計画的に行ったとは考え難かった。
断定するのは危ないが、偶発的に虹也を見つけた術者が仕掛けたと考える方が適当だろうと墨時は思っていた。
そして、それは虹也があまりにも自分の力に無防備だったせいだとも言える。
墨時としては虹也に自身の力を自覚させて虹也自ら危険から遠ざかるように指導すべきなのだろう。
しかし、そこで墨時は躊躇してしまう。
彼がもし“詠み手”の能力者であったとしたら、その先に待つのは悲劇でしかないからだ。
「確かに街中はあまり危険は無いですが、庇護の力も万能ではありません。建物の影や裏通りには昼間でも陰鬼等が潜んでいるしそれを利用するような力を持つ者もいます。山中捜査官、君は彼にちゃんと自分の力の事を教えるべきではないですか?真名を持たず制御の出来ない詠み手の末路は確かに不幸ですが、それは外からどうこう出来るような問題ではありません。むしろ氏族側から働きかけがあったのだからそちらに任せるべき問題でしょう。ですが、彼が何者かに狙われるというのならばそれはうちの、いや、君の管轄であるはずです」
内藤の言葉は墨時に深く突き刺さった。
だが、それでも彼としては、一つの確信を得るまでは虹也にその事実を突き付けたくはなかったのだ。
「やはり、無いのか?詠み手の末路を避ける方法は」
「詠み手の力についてはほとんどの情報が公開されていませんが、隠しようもない程歴史の中で繰り返されて来た悲劇ですからね。もちろんとっくに克服されはしていますが、それが真名を用いての制御であろう事も推測されます。あの事件は名取の儀式の直前に起こった。順当に考えればあの坊やは真名を持っていないという事です。そして子供の真名を知るのは名取の儀式まではその両親のみ。これはどこの氏族でもそうですし、詠み手でも変わらないでしょう。そして、そのご両親もあの事件でお亡くなりになられています」
「望みはあると思うか?」
「接触して来た氏族の出方を待った方が良いでしょう。彼らも優良血統を無駄にしようとは思わないでしょうし、最悪でも命は繋ぐような手段は講じるのではないですか?」
何かに耐えかねたように、ガタリと、音を立てて墨時は立ち上がった。
「氏族の血統がどうとかは関係ない。ただその体が生きていれば良いなんて話をしている訳じゃないんだ。俺は一人の未来ある若者の命と心を救う話をしていたつもりだ」
「甘いですね。この世に確実な物など何もないのです。どうせ零れ落ちる運命ならば、どんな形でも希望にすがるべきではないでしょうか?」
墨時は無言で席を立つと音を立ててドアを開ける。
「俺はお前みたいに頭が良い訳じゃないが、分かっている事もある」
譲れぬものを語るように墨時は後ろを見ずに言った。
「人は心無い冷たさの中に希望を見出して生きるようには出来てない。互いを思いやる温かさの中にこそ希望は生まれるんだ」
ドアがバタンと音を立てて閉じる。
「人としてよりも存在として価値があるという事が、それ程嫌な話なんでしょうかね」
部屋に残された男は、ニヤニヤとどこか楽しそうな笑みを浮かべてそのドアを見つめていたのだった。




