医者を信用出来るって実は凄い事だと思う
驚愕が虹也の意識を支配した。
自分の記憶が不確かである事は承知していたし、思い出すその断片からもしかしたらという思いは確かに在った。
しかしそれを目に見える形で突き付けられるとは思ってもいなかったのだ。
何より、あちらで暮らしていた時にそんな現象は起きていなかった。
「何か随分驚いているようだけどもしや自分が氏族だという事も分からないとかなのかな?」
「ええまぁ」
虹也は動揺が収まらないまま答え、内藤医師は痩せて骨の浮いた手を延ばすと虹也の額の前に翳すように置いた。
「今の所術式の発動は無い、か。素性を探る事で発動するトラップは無いようだな」
虹也は相手のその言葉を飲み込んで、誤解の無いように自分なりに咀嚼してみた。
「……もしかして、わざと危なそうな話題を向けました?」
「うん。トラップが発動してくれれば相手の癖が分かったんだけどね。残念だ」
「ちなみにそれが発動した場合俺はどうなったんでしょう?」
「ん~ちゃんと発動したら良くて廃人かな?」
相手はにこやかに応える。
「ボケェ!無茶すんなコラ!」
その瞬間、普段滅多に激昂しない虹也が立ち上がって怒鳴ったのは当然だろう。
「なんだ!?どうした!またそいつが何かやらかしたか!大丈夫か?コウ!?」
離れて見守っていた保護者がすっ飛んで来た。
(また、なんだ)
あんたの同僚どうなってんの?という気持ちを込めて、虹也は、衝立を蹴り倒して飛び込んで来た墨時の顔を見た。
「山中捜査官、何事ですか?全く落ち着きの無い」
「悲鳴が聞こえたら落ち着いてられねぇだろ普通」
墨時は噛み付かんばかりに抗議する。
(もっと言ってやってくれ)
虹也は内藤医師を挟んだ形になっている反対側から無言の声援を送った。
「確かにそれは人間の本能のようなものですね。分りました」
意外と物分かりが良いのかな?そう考えて、もう無茶は止めてくれると期待した虹也の耳に飛び込んで来たのは、
「そこの衝立を起点に遮音術を展開しましょう。それなら安心ですよね」
という残念な発言だった。しゃおんというのは遮音だろうなというのはさすがに虹也にも分かった。
(安心じゃねぇよ。てか、悲鳴が上がる事前提なのかよ!?)
脳内で突っ込んだところで事態は動かないので、ここは真面目に抗議をするべきか?と虹也が口を開き掛けた所で、目を吊り上げた墨時が押し殺した声で宣言した。
「同席する」
(おお、流石正義の味方は言う事が違うぜ)
虹也は素直に感心する。
こういうストレートな好意というものは、受ける側としてはその理由が分からないと少々の戸惑いを覚えるものなのだが、今の虹也には他に頼る相手は居ない。普段だったらうざいかもしれない正義の味方体質もこういう場合は有り難いばかりだった。
「邪魔です」
対して、内藤医師は率直だった。
「邪魔はしない。一応保護者なんだから良いだろう」
「全く、つくづく人の言う事を聞かない人ですね。まぁ仕方ありませんが、勝手な判断で邪魔をしないようにくれぐれもお願いしますよ。被験者に欠損が出ては困るでしょう?」
欠損という言葉に、虹也と墨時は顔を引きつらせた。
「誤解の無いように言って置きますが、邪魔が入らなければそのような事はありません」
職業的自信に裏打ちされたものか、内藤医師の言葉には揺らぎがない。
「分かった」
墨時は押され気味に、しかしきっぱりと返事を返す。
(ビックリする程人が良いなぁ)
虹也は感心と呆れの入り混ざった心地でそれを見やり、
(ここでありがた迷惑に思う俺って酷いかな?)
と内心呟く。
欠損とか御免だと思ってしまう。
「具体的に何をやってはいけないか言って貰えると助かるんですけど」
「決まっている、口も手も出さなければ問題ない」
虹也の恐る恐るといった問いに対する答えは簡潔だった。
「ん~と、おっさんよろしく」
墨時はチラッと虹也を見て眉を上げたが、無言で頷きそのまま虹也から二人分程離れた場所に腰を下ろした。
その距離は、邪魔はしないという意思表示なのかもしれない。
「さて、それでは探りはこのぐらいにして直接探査をするので何か異常が、そうだね、ちょっとした不安感でもあったら手を上げて合図をするように」
「はい」
さっきのは予備調査という事かと虹也は納得はしないまでも理解した。
内藤医師の手が今度は直接額に触れる。
皮膚に微細な振動を感じた虹也は、何がどうなっているのか知りたい欲求に駆られた。
「ほい」
すると、その心の声が聞こえたかのように、先程の鏡を墨時が虹也に向ける。
「おお、おっさんナイス!」
「お前の外苑文化に侵されっぷりが怖いわ」
「外苑って?」
「今時何を言ってるんですか、"術紋機の新鋭は外苑部に有り"ですからね。実際一部専門用語は外苑部の言語にしかない。もはやそれは大衆言語です。貴方だって使っているでしょうに」
「だからといって必要以上にかぶれる必要は無いだろ?あっちはあっちだ」
「だからおっさんなんて呼ばれているんですね」
「うっせいよ、仕事に集中しろ」
「今は結果待ちですから」
彼等の言い争いの一方で、虹也は鏡の中の自分を見ていた。
額の一点を中心に、銀青の光が、さながら水に広がる波紋のように現れては消える円を描いている。
その様は、まるで虹也の額から光の泉が湧き出しているかのようでもあった。
ふと、音が消失し、ぼんやりとした光に包まれたような感じがする。
それは虹也自身の意識というより、感覚のような部分でそう感じたのだ。
「いかん!鏡を退けて!」
内藤は撥ね除けるように鏡を持つ山中を突き飛ばすと、虹也の耳元で両手を打ち合わせた。
パシンという、どこか聞き慣れた響きが、忘我の縁にあった虹也を引き戻した。
「あれ?」
虹也は、こういう場合に多くの者が上げるだろう芸の無い少し間抜けた声を上げ、現状に復帰した。
墨時は突き飛ばされる瞬間に自ら体を引き、衝撃を逃がす事で守った鏡を内藤の仕事道具の入ったバッグに突っ込むと、表情を変えぬまま片眉を上げて内藤を見やる。
それへ微かに頷くと、内藤は虹也に告げた。
「以前倒れた時、直前に何をしていたか覚えているかな?」
虹也は数度瞬きを繰り返すと、額に指を当てようとして、そこが今光って、何かを探っているらしい事を思い出し、指を当てるのを躊躇った挙句、顎に持って行った。
その姿は有名なかの「考える人」のポーズになってしまったが、ここは致し方ない。
「あの時は、確か……給茶機でお茶を飲んで、ええっと、確かその機械の表面に銀色の光の輪みたいなのが浮かんだような、う~ん、それ以上は覚えてないですね」
「ふむ」と、内藤医師は頷くと、女性の使うコンパクトに似た形の何かを取り出す。
表面をピッとタッチすると、あの墨時達の、手の甲に現れるような模様が走り、やはりホロ画面が立ち上がった。
目と鼻の先にあっても裏側からはその内容は窺えないが、内藤はそれを見ながら虹也に解説をする。
「おそらく君は力場酔いを起こしやすいのだろうね。それが体質によるものか後天的なものかは分からないが、なるべく力場波動線を注視しない方が良い」
「力場酔い?」
「詳しく解説すると長くなるから今は省くが、簡単に説明すると外部の魔気の波動線、いわゆる力場に体内力場が干渉される、いや、引っ張られると言った方が分かり易いかな?とにかくそういう状態になって身体コントロールを失うのだ。まぁ普通はそこまで深刻な酔いを起こす者は居ないが、君は特にその酔いが激しいようだ」
「要するに酔っ払って倒れたって事ですか?それは恥ずかしいですね」
「いや、酒の酔いとは違うぞ?といってもどう違うかの説明を始めると今日だけでは終わらないだろうからやはり今回は省くが、下手すると命に関わる場合すらある」
脅すような内藤の言い方に、虹也は眉を潜めた。
「でもあの、なんでしたっけ、術式布?ああいうのがあれば平気なんでしょう?」
内藤医師はなんとなく医者というより研究者っぽい表情で溜め息を吐く。
「良いかい?例えば壊れた鳥かごがある。当然鳥はそこから飛ぼうとするがその鳥かごの周りには網が張り巡らせてあってそこに引っ掛かる。視覚的に言えばこういう状況だ。この場合鳥には常に心的負担と肉体的負担が掛かる。逃げないだけで決して無事ではないんだ」
「なるほど、なんとなく良くない事だけは分かりました」
その鳥かごを直す事は出来ないのかな?と虹也は思ったが、その本来の内容をカケラ程も理解出来ない彼にはそれが可能かどうかすら判断が付かない。
「ん、と、結果が出たな」
内藤医師はまた別の小さいケースをポケットから引っ張り出し、中からスライドさせるように薄い透明な板のような物を取り出した。
額が少しひやりとした事から、それを虹也の額に当てているのだろう。
自分の目と鼻の先で行われている事なのに何が起こってるのかわからないというのは案外と辛い。
業を煮やした虹也がちらりと墨時を窺うと、内藤の手元を見ているらしき彼の顔にも理解の色は無かった。
(まぁ確かに医者が心電図とかエコー検査とかで色々調べても、解説無しにそれが何を表しているか分かる人間ってあんまり居ないよな、普通)
「少し課長と話をして来る。結果は課長が纏めて話してくれるだろうから、今分からない事に焦る必要はないからね」
内藤は道具を片付けると立ち上がろうとして、ふと思い立ったようにもう一度道具を漁り、しばし唸った挙句小さなビー玉のような物を取り出した。
「力場酔い避けに良い物が手元に無い。仕方ないのでこれを体に近い所に置いておいてくれ」
よこされたビー玉のような物を受け取りながら、虹也はそれを注意深く見た。透き通っているが、反射光の無いそれは普通のビー玉より一回りぐらい小さい感じだ。パチンコ玉とビー玉の中間ぐらいの大きさだろうか?重みはあまりなく、不思議とほんのりと暖かい。
「それは月光草の種だ。魔気を吸う性質があるのでそれがあると近くには力場を形成し難い。対魔術に役に立つ道具ではあるが、君の症状の場合どのくらい効果があるかは少々疑問だけどね。なるべく早めにきちんとした君用のお守りを作るのでしばらくはガマンしておいて欲しい。それまでは出来るだけ魔気の波光を見ない事、良いね?」
「あ、はいありがとうございます」
虹也は頭を下げてその後姿を見送った。
「それが場崩しの実か、実物は初めて見たな」
「珍しいもの?」
「かなりな。高いぞ、無くすなよ?」
「うえええ」
虹也は気軽に胸ポケットに入れたそれを一度取り出すと、困惑したように手に握った。
適当な入れ物が無いのだ。
「ちと待て」
墨時がごそごそと何やら自身のポケットらしきものを探る。
小物入れのようなサイフのような皮製の入れ物を取り出し、その中身を机に出し、(見覚えの無い模様だが、どうやら小銭のようだった)その空いた物を虹也に寄越した。
「良いのか?」
「良い、お前が無くすと下手すると保護者である俺に返済義務が生じそうだし」
「あはは、なるほど」
机に散らばった小銭のようなコインをひとつかみにしてそのままポケットに放り込む墨時を見つつ、虹也は質問する。
「それお金?」
「そうだ、まだ実銀を有り難がる連中は多いからな、まぁ持ってて損は無い」
「実銀って銀貨?」
「いや、流通上に銀玉もあるが、今は主に銅とニッケルだな。銀ってのは昔風の言い方なんだが、そのまま残ってるんだ。おそらく」
「おそらく?」
「俺に小難しい事は分からんって言っただろ?と、俺も結果聞いて来るからそこで座ってな、すぐに茶が出るだろ」
「はぁ、よろしく」
色々と疲れた気分で固い椅子に座り直す虹也の頭に、固い感触が軽く触れた。
上目使いに見上げると、握りこまれた拳が、軽く頭に当たっている。
「直ぐに家に帰してやるよ、まぁ龍の背に乗ったような気で待ってろよ」
「ちぇ、落ち込んでなんかないぞ」
「そうだろうさ」
虹也は誰も居なくなった場所でボーっとする。ふと声が聞こえた気がして顔を上げると、何時の間にか目前に茶が置かれていた。
誰かが運んでくれたのだろうに気付かないとは、やっぱりそれなり疲れていたらしい。
ずずっとわざと音を立てて飲んだ茶は、家で呑んでいた物とはやはり違った味がした。