おんぼろと言ってはいけない建物
例によって例の如く、その建物の入口も半円を描く凸面を外に向けた造りだった。
どの建物も基本的に角が削ってあるし、考えるまでもなく、そこになんらかの意味があるのだろうと思わせる。
虹也にしてみればこういう細かい違いには注目せざるを得なかった。
似ている文明で馴染んで来たからこそ、違う部分に目が行ってしまうし、そこにこそ、その文明の個性といえる物があると思えるからだ。
彼の思惑はともあれ、木造のその建物は第一歩を踏み込んだ時点でその個性を発揮した。
ギィイー…、と、まるで生木を刃のない鋸で挽くかのような、何か酷く特徴的な音を響かせたのである。
「うぐいす張りかよ!」
思わず人ならぬ建物に突っ込んでしまった虹也ではある。
「なんだ?何を一人で騒いでるんだ」
「これ、床は抜けねぇの?」
虹也がそう口に出した途端、空気が凍った。
目前の二人と、点在する職員らしき人達が押し黙って一人の人間を凝視する様はかなり異様な光景だ。
「え~と、何……ですか?」
耐え切れず虹也は音を上げた。
「ん~そうだな、言ってみれば、保身の為の沈黙?」
応えたのは犯人を拘束中の墨時ではなく、それにプレッシャーを掛けながら同行している例の女性である。
「良かったら詳しくお願いします」
虹也はなんとなく、この相手に対する時は自分から引いては駄目だという予感があった。なので堂々と問い質す。それと同時に、周辺の見物人のざわめきが混ざり合って意図しないどよめきとなった。
(見せ物か、俺は)
なんとなくむかつきながら、虹也は相手の返答を待った。
「なに、簡単な話だ。この建物をこよなく愛している人物が色々な力関係の上部に居るって事さね」
何かしゃべり方が一々挑戦的だが、確実に面白がっているのは分かる。
「はあ、なるほど」
あまり相手の期待に応えるのも腹が立つので、虹也はその情報を軽く流して終わらせた。
「余裕だね」
「そういう訳じゃ無いですが」
「無いですが?」
どうやらこのお姉さんは見掛け通りしつこい性格だったらしい。
「いい加減にしろやお前等」
犯人入りの網を引き摺りながら、先頭を歩いていた男がたまりかねたのか二人の会話に割り込んだ。
「ほう、ではそっちとの話をここで進めて良いのかな?」
ニヤリと赤黒い口元が歪む。
「あー、こいつを引き渡して来るからそいつを課に案内頼む」
(さすがに判断が早いな)
墨時の離脱の素早さに、ちょっとだけ感心した虹也だった。
「その偉い人に怒られるから建物を悪く言うと駄目なんですか?でもいくらなんでも危ない箇所は修理した方が良いと思うんですが」
自棄というか、蛮勇というか、唐突な衝動に動かされて、虹也は危険そうな話題を進めてしまう。
「ほう、坊やなかなか勇気を見せるじゃないか、いいよ、好きに提案すると良いんじゃないか?」
「え?ちょっと待ってください。俺は部外者ですよ!」
ふ、と、冷ややかな濃い紫の目が彼の目を覗き込む。
「自ら斬り込んでおいて逃げるというのかい?」
ぞくりとする声だ。だがそれは魅惑ではなく危険を孕むものである。
正直虹也とて、その偉い人とやらに興味が無い訳ではない。だが、だからと言って脅されて自分の安全をチップにしてテーブルに並べる等というのは、無謀という以前に彼の矜持に関わる話だった。
「逃げるのかい?」
空気が冷えて濃い紫の彼女の目にほの暗い揺らぎが見える。
「……いえ、滅相もないです」
「滅相?」
「あ~逃げるのは性に合わないっていう事ですよ。提案させてイタダキマス」
そのまなざしの前に、彼の矜持は崩れ落ちた。
まあ矜持の高さも命が無事ならではだよな。と自らに言い訳をする虹也ではある。
いくつかのオープンな事務所のような場所と木製の扉に隔たれた部屋を抜けて、広い階段が現われる。
そこまでの移動で、虹也は気付いた事があった。おそらくこの建物が昨夜のゲートとやらの到着先のはずなのだが、今のところ昨夜見たような廊下に遭遇していないのだ。
虹也は軽く頭の中で見取り図を描いてみた。
廊下の位置と方向、部屋の間取り、全体を組み合わせてみると歪な形になって収まりが悪い。壁の仕切りの向こうに別の空間があるのは間違いなさそうだった。
裏口からの通路はそっちだろうと虹也は当たりを付ける。
「上だ」
とんでもなく簡潔な指示に従って進みながら、虹也は汗がじわりと滲み出すのを感じていた。正面に立ち、背を向けて自分を誘導する相手は自分を守護する立場だと分かっていながらも、なぜかその一歩一歩に不安があるのだ。もし地獄の案内人というモノがいるとしたら、きっとこういう存在なのだろうと思えてしまう。
「私が怖いか?」
「え?はい!」
思わず反射的に正直に答えてしまい、虹也は誤魔化すように咳き込んだ。
「ふふ、それは良い。見所があるよ坊や。自分の中の恐怖を認めてしまえばそれはもう認識された事実でしかないからね。更に先に進む障害足り得なくなる」
意味深な言葉が怖い。
「えっと、どこへ進む為のですか?」
「私は半分吸血族なのさ、だからその恐怖は本能として正しいって事。相互理解するにはそこをまず越えなければどうにもならないからね」
淡々とした彼女の言葉は、あまりにも虹也の常識から剥離していた。なので彼の反応は鈍く成らざるを得ない。
「すいません、俺はそういうの分からないんで」
「そりゃあまた豪胆だな」
彼女は思わずといった風に噴き出し、そう言った。
「いや、だから、知っていて言った言葉なら豪胆ってのは嬉しい褒め言葉なんだけど、本当に分からないから少し悔しいですね」
もちろん彼とて自分が元々在った場所での物語としての吸血鬼は知っている。というか、むしろそれしか知らない。
どう考えても世界の違うこの場所でその常識を元に判断は下せない。
それはごく当たり前の感覚だと彼は思う。
「なるほど、胡散臭い話だと思ってたが、意識の改竄ってのも事実なのかもね」
その言葉に虹也は唸った。
彼女も墨時の同僚ならその件は承知だろう。当然だ。
だが、彼には彼の主張があり、それを認める訳にはいかないのだ。本格的に否定しておかないとのっぴきならない事態に嵌まりそうで虹也は焦る。
「俺は頭の中を書換えられたりしてないです」
はっきりと告げた虹也の、正当と信じる主張は、しかし軽く鼻で笑って流された。
「お前は愚かだな。意識を改竄された者が自らの記憶が間違っていると思うとでも?」
彼女の言い分は確かに正しい。狂っている者は自らを狂人とは主張しないだろう。
だからといって虹也は自らの記憶を疑う訳にはいかない。
それは何よりも大事な物だからだ。
(結局は堂々巡りか)
だが、諦めて流されていてはお話にならない。諦める気が無いのなら退く訳にはいかない。何よりも自分自身だけは揺ぎ無く信じていなければ他に縋る物は無い。
友人や両親、沢山の彼を育てた暖かいもの。そして、痛みや苦しみもまた、失ってはならないものには変わりない。
言葉の無いままに先へと進み、二階に上がってすぐの通路は先程虹也が推測した裏口があるであろう方向に進路を向けている。
此所まで見て来て、殆どの構造が曲面と円で構成されている事が彼に全体の把握を難しくさせていた。
実際彼が今歩いている通路も少しずつ内側に湾曲している。
虹也は学生時代冒険クラブなるサークルを設立して主に足で調べて地図を作る活動をしていたのだが、曲線で構成された道はマッピングし難い為いつも苦労させられたものだった。
敷地の利用としても直線で構成されたものより無駄を出す事になりそうなものだが、恐らくはそれらのマイナス面を差し引いても利する何かがこの構造にはあるという事なのだろう。
単に伝統である可能性も否定出来ないが。
「到着」
ニィと、またあの不安な笑顔で簡潔に囁かれて、虹也は突然ある事に思い至って扉に手を掛けた彼女を呼び止めた。
「あの、そういえばごたごたですっかり後回しにしてましたけど」
「うん?」
「お名前をまだ伺っていませんでした。えっと、まずは俺が自己紹介しますね。俺は虹也、美郷虹也と言います」
一瞬きょとんとした顔をした女性が笑みを再び口元に乗せた。
「彩花、綾瀬彩花だ」
彼女は、珍しい生き物でも見るかのような視線を虹也に向けながらそう名乗った。