同じ境遇
「とりあえず、連絡してみる」
男がエレベーターの緊急ボタンを押すと、数秒後に機械的な音が流れ、オペレーターの声が聞こえた。
『どうされましたか?』
「エレベーターが止まっちゃって。扉が開かないんですけど」
『現在、システムを確認しております。安全装置が作動した可能性があります。係員が向かいますので、そのままお待ちください』
「どれくらいかかります?」
『およそ30分ほどで到着予定です』
男は「了解です」と淡々と返事をし、ため息をついた。
「だってさ……」
「えー、30分も?」
女が困惑した声を出す。
吉野は息を殺して二人の会話を聞きながら、ただ壁の方を向いていた。
最悪だ。たった30分。しかし、この狭い空間の中で、カップルと一緒にいるにはあまりにも長すぎる。
「じゃあ、待ってる間に勉強するか」
男がカバンを開け、分厚いテキストを取り出した。
(あっ……?)
よく見ると、それは予備校のテキストだった。
(こいつ……。浪人生なのか?)
男は小規模予備校の東大理系クラスに通っているようだ。
しかし、それ以上に驚いたのは、隣の女が興味深そうにテキストを覗き込んでいたことだった。
「どこまで進んだの?」
「この辺かな。ほら、数列の漸化式」
「どれどれ……。あー、確かにこれ苦手な人多いよね」
「うん……。この解法の流れがイマイチ分からなくてさ」
「えっとね、ここで一度一般項を考えてみると……」
女は男の手からペンを取り、テキストの余白にさらさらと数式を書き始めた。男は熱心に頷きながら、彼女の解説を聞いている。
まさかの勉強会が始まったことに、吉野は呆気に取られた。
会話の流れからすると、どうやら女は大学生らしい。しかも、男が通っている予備校でチューターをしているようだ。
(うらやましすぎる……!)
ただでさえ可愛くて清楚な彼女が、自分に寄り添いながら問題を解説してくれるなんて。しかも、手を繋いだまま、時折微笑み合っている。
(こんな彼女がいたら、俺だって頑張れるのに……)
吉野は、どうしようもなく羨ましくなった。
同じ浪人生なのに、なぜ彼はこんなにも恵まれているのか。
同じ浪人生なのに、なぜ自分は今こんな惨めな気持ちでここにいるのか。
(クソ……)
吉野は、狭いエレベーターの中で拳を握りしめた。