逃げ場のない夜
吉野は、もうこれ以上ここにいる意味はないと悟った。
ベッドから起き上がり、スマホをポケットに押し込み、バッグを肩に掛ける。部屋を振り返ることなく、ドアを開けた。
廊下は静かだった。向かいの部屋から漏れる微かな笑い声が、耳に刺さる。
(クソッ……)
靴を履き、早歩きでロビーへ向かう。まるでここに来たことを誰にも知られたくないかのように、足早に通路を進んだ。
エレベーターの前に着くと、ちょうどドアが閉まりかけていた。
「っ……!」
反射的に駆け込み、ドアの隙間に滑り込む。
しかし、すぐに違和感を覚えた。
エレベーターは上に向かっていた。
「やべっ……」
この場から逃げ出したかったのに、逆方向に運ばれている。
しかも、乗っていたのは吉野一人ではなかった。
エレベーターの奥には、同世代の男女が立っていた。
男は特別なイケメンではないが、どこか品のある立ち姿をしている。
女は、黒髪で清楚な印象の優等生風。シンプルで上品なブラウスとスカートが知的な雰囲気を際立たせていた。
二人は手を繋いでいた。しかし、いちゃいちゃする様子はなく、自然体で寄り添っているだけだった。
(これから、この真面目そうな子が……)
吉野は思わず想像してしまった。
この清楚な子が、今夜はこの男に抱かれるのか。今はおとなしそうに見えても、部屋では違う顔を見せるのかもしれない。
(クソ、うらやましい……)
男になりかわりたいと思った。こんな風に、自然に女の子と一緒にいて、当たり前のようにホテルへ向かう。そんな当たり前の青春を、吉野はまだ知らない。
(俺は何をしてるんだ……)
惨めだった。悔しかった。
そんなときだった。
突然、エレベーターがガクンと揺れた。
全員の身体がふわりと浮くような感覚の後、カクンと衝撃が走る。そして、静寂。
扉は開かない。ボタンを押しても、何の反応もない。
「え? 止まっちゃったの?」
女の声が不安げに震える。
男が試しに何度かボタンを押してみるが、エレベーターは沈黙したままだった。
「マジかよ……」
吉野は、エレベーターの中で立ち尽くした。
よりによって、こんな状況で。
よりによって、こんな場所で。
吉野の息は、苦しげに詰まった。