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「潜熱」

作者: ましこ

現実的なものを見て書くよりもファンタジーを描きたい、表現してみたい。そう思うようになった稚拙な小説です。

 男からみたチヌという少女は、潮焼けた長い髪をしていた。きっと後ろ姿を見ても、髪型を変えたとしても、どこかなだらかな円を書いた背筋を見れば、きっとチヌだと確信する、自信だけがあった。彼女はいつも店先のシャッターを下ろすときに長い棒を使っているので「チヌちゃん、親父さんが呼んでたよ」と言って、代わりに閉店の手伝いをするのが日課のようなものだった。チヌは手に持った棒をぎりぎりと力強く握りしめて、歯がゆそうに立っているだけで、男には挨拶もせずに裏手口へと去っていった。


 それでも男は満足だった。


 チヌは仙台駅から少し離れた場所にある、いろは横丁という小さな商店街に住んでいた。四方をコンクリートに囲まれた通気の悪い場所だったが、彼女の小さな頃は不思議と人がたくさんいた。毎日賑わっていて、大人たちからは無条件に可愛がられていた。男は隣の店先からその光景を、我が子のように眺めていた。

 けれど少女が大人の階段を登るたびに、かつての栄光を感じられないほどに、いろは横丁は衰えていった。男が酒瓶を運ぶ数も減り、気がつけば鈍色のシャッター街になっていた。かつての景色を懐かしむように、男はいろは横丁を眺めていた。もう日も短くなっているのか、夕方なのに街頭の灯りが鮮明に見えた。


 ひとしきり感情に浸ると、男は自分の店とチヌの店の間にある細い道を通って行く。すると、勝手口の方で父親と談笑をする少女を見つけた。


「チヌちゃん、おやっさん、表、閉め終わりましたよ」


 扉の上の方の縁に手を付き、覗き込むように声をかける。


「秀明くん、いつも手伝ってくれてありがとうね。ね、チヌ」


 実の父親がチヌを見ても口をパクパクと動かすだけで、少女が彼に対して何かを言うことはなかったが、父親も男もどこか嬉しそうな顔をしており、何故か満足そうだった。チヌは男や父親に対して目を背ける素振りはしていないが、どこか都会めいた男と自分を比べるように、目を右往左往させていた。


「チヌだとシャッターが高くて届かないからね……ね?」


「そのくらい、俺のいるうちだったら、いつでも手伝いますから。俺の親父、今入院してるでしょ?」


「長びきそうかい?」


 手招きをするように、男を家へと招き入れると男は慣れたように入って来る。そして差し出された椅子に座りながら、チヌと彼女の父親を交互に見ながら話を続けた。


「そうですね……やっぱり糖尿が酷いようで。でも、口ばっかりは達者なんですよ。いつでも息子は放っておいて、チヌちゃんは元気かって……そればっかりですよ」


 ケラケラと笑う男を他所に、チヌは牡丹のように顔を赤くして、男の袖口を恥ずかしそうに叩いていた。


「そりゃそうだ、いろは横丁でチヌはアイドルだからな百恵ちゃんより可愛いんだから」


 頬をふくらませるようにして、チヌは席を立った。彼女がいなくなっても、男だけで話は弾み続けているようだった。

 ドアはあってもないような昔ながらの家の造りなので、部屋のどこにいても彼らの声は遠くに聞こえた。チヌは自室にこもり、手鏡で自分の顔を見ながら男の顔を思い出していた。男とチヌは5歳だけ年の離れた幼馴染で、彼女の物心ついた頃に東京から引っ越してきた、隣の店の孫息子だった。同い年の男の子と並んでも頭一つ出るくらいには背が高く、彼を囲む女子達の隙間から遠く遠く、眺めることしかできない学生生活を過ごしていた。もちろん進路のこともあり、途中から学校が変わったため、同じ学び舎で過ごした時期は短かったが、家に帰ってくるといつもように、こうして男が迎えてくれていたのだ。

 それがひどく懐かしいことのように思えて、鏡には数滴、涙か落ちていた。


――秀明くん、いつここを立つだい?


――明日の夜ですかね……夜行で戻ります。ウチの畳みもあらかた終わったし、何より親父のこともありますからね。


 「秀明」という男と「チヌ」という少女のような女には、年以上に言葉では説明ができないような隔たりがあるようだった。そのことを本人たちが誰よりも知っていて、チヌ以上に男が気に病んでいた。

 手鏡には酷く髪の長く、血色の悪い貧相で、無愛想な女が写っている。笑いたくてもうまくは笑えない陰日向で生きるしかないような、じっとりとした雰囲気があった。


――いろは横丁は、チヌちゃんみたいなものなんですよ。だから、俺が側にいてあげたかったな……。


――何ができるってもないのに、口だけは達者だな。ほんとアイツにそっくりだ。


――やだなぁ親父さんったら、いつもそう言うんですから。


 たしかにと、漏れ聞こえる声に耳を澄まして、聞きたくもない話をラジオのように聞いていた。ただずっと……より真実味のある話なのだが。

 男が自宅で帰る声を聞きながら、行き場のない気持ちを燻ぶらせて、何をするということもなく、ただ窓から夕焼けだけを眺めていた。鈍色の……曇り空のような、いろは横丁が空の色と一緒になるのは、決まってこのときだった。


「チヌ、秀明くん帰ったぞ。後で酒でも持っていってやってくれ、酒屋に酒だなんておかしな話だけど……」


 父親はチヌの返答も待たずに、部屋の前に瓶を置いて去っていた。何かとこのようにタイミングをずらして、チヌに頼み事をするのが、父親の悪い癖だった。


――こんばんは、本日のニュースです。 


 いろは横丁から音も立てずに人が消えていく。代わり映えのしない日常から男が消えていく。父親のテレビを見るような生活音だけが、規則正しく聞こえてきて、余計に胸が苦しくなった。男は特別、どこかに出歩くことのない男だった。きっと今から訪ねても、家にいることだろう。

 チヌが手土産を片手に出向こうとすると、男は自分の店前に簡単なテーブルと椅子を置いて晩酌をしていたのが見えた。


「チヌちゃん、どうしたの。あ〜それ持っていけって言われたのね。餞別かな……別にお酒だったらいっぱいあるんだけどね。本当、親父さんらしいや」


 男の父親が入院することになるまでは、家業の手伝いをしながら、男はここで小さなバーを開いていた。もう今では、酒屋だったのかバーだったのかも判別がつかない、もの1つおいていないがらんどうの部屋だった。


「チヌちゃんも良かったら一杯どうかな?」


 男はもうすでに酔いが回っているのか、誰もいない虚空を眺めていた。少しだけ、仄暗いようにも見える。

 チヌはシャッターに背を預けるようにして、男の顔を見つめていた。


「昔誰かがさ、雨は拍手だって言ってたんだ。別にこの言葉を、誰が言ったっていいんだ。ただなんだか素敵だな……って思ってて」


 男の声は波のようで、大きくなったり小さくなったりしていた。チヌはよく聞こえるようにと髪を耳にかけた。

 男は続ける。


「俺とチヌちゃんはきっと、住む世界が違うんだ。俺にとってチヌちゃんは人魚姫なんだよ。ごめん……わけがわからないこと言ってるよね。最近、昔のことばっかり思い出しちゃうんだ。海を泳いでたチヌちゃんの姿とか、本当どこかに消えてしまいそうで、俺ちょっと嫌だったんだよね」


 人は男をおしゃべりだという。けれどそれは、男の上辺だけを見ている。話すことが不自由なチヌの分まで、代わりに男が話をしていて、それが癖のようになって染み付いて離れないことも、全部全部。チヌは分かっていて、何もできなくて、ただ見てることしかできなかったことも。


「新しい補聴器買ったの?」


 チヌは誰にでも分かるように頷いた。


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