第二章 真っ暗聖女、新しい生活
ふわりと花の香りがした。
私はゆっくりと目を開け、まだうまく働かない頭を動かして、現状を把握しようとする。
と、視界の端にピシリと背筋を伸ばして立つ見知らぬ女性が。
「わっ!」
飛び起きようとするも、柔らかい寝台の上で勢いをつけたため、ぐらり落ちそうになる。
「聖女様!」
慌てて女性がこちらに駆け寄ってくるのを手で制し、私はなんとか体を起こす。
「だ、大丈夫です」
表情では伝わらないので、大袈裟に手を振って無事を伝えると、女性はほっとした様子。
「まだお辛いでしょうに、失礼致しました。私はロウデル伯爵家次女ラウミと申します。本日より聖女であるメイナ様のお側付きとなりました」
優雅に礼をする美しい女性に思わず平伏しそうになり、私はなんとか踏みとどまった。
以前の自分基準でいけば大変に貴いお方なのだけど、昨夜の事が夢でないなら、私は王子妃になったという事。こちらがへりくだるとルルタの評判にも影響してしまうはず。
それにしても、『まだお辛い』とは?
「ルルタ殿下は執務へ向かわれましたが、メイナ様は、その……初めてでございましょうから、なるべくゆっくり寝ていただく様に、と」
ラウミの言葉に私は昨夜、二人で決めた事を思い出した。
初夜は滞りなく済ませた事にしよう、と。
「入浴が必要でしょうから、侍女を呼びますね」
「大丈夫です! あの、そちらも殿下がきちんと……」
寝台の乱れや汚れについては、見られるのを恥ずかしがった私を気遣い、ルルタが魔道具で綺麗にしたという説明をしてくれているはず。
だから、体も魔道具で綺麗にしてくれたと言いたかったのだが、ラウミは「まあ」と上品に口元を押さえて、微笑む。
「急な事ではございましたが、お二人の仲睦まじいご様子に安心いたしました」
私は下品にならない程度の声で笑って誤魔化す。
都合がいいので今後も『仲良く二人で入浴している』という事にしよう。入浴中に何をしていると思われたのかについては、考えない事にした。
どうせ全身良く見えないんだから、入浴を手伝ってもらっても本当は何もしていない事はわからないとは思うけど、念の為。
「では、軽い朝食をご用意いたしますね」
寝台の傍らにある小さなテーブルに、ラウミがお茶とフルーツを切ったものを並べてゆくのを見ながら、私はこれからの予定を聞いてみる。
「落ち着かれましたら、神官長がご挨拶をと申しておりましたが、いかがでしょうか?」
「はい、ぜひお願いします」
私の返答に、ラウミは後方の扉を少しだけ開けて、控えている衛兵に声をかけた。
そうか、こちらから行くんじゃなくて神官長が出向いてくる。そんな立場なんだと、私はどこか他人事の様に思っていた。
「本当に私が聖女なのでしょうか?」
神官長が到着したとの知らせを受けて、ラウミの案内で別室へ。挨拶を受けてからの開口一番、後方に控えているラウミに届かない様に小さな声で聞いてみると、神官長だというお爺さんはほっそりとした体を揺らして意外に大きな声で笑った。
「貴方様が聖女でないなら、他の誰が聖女だというのでしょう、証をご覧なさい」
目の皺に少し涙が溜まるまで笑ってから声を潜めてそう言われる。目をやると、手の甲の光は一層大きくなっていた。
ちょっと派手ではないだろうか。
「それに貴方様のご様子は、代々伝わっている『聖女は光に愛される』という言葉とも合致するのですよ」
私は、影の塊にしか見えない自分の手をじっと見る。
村では『光に愛されている』と言い張っていたけど、まさか大神官様からお墨付きをいただくとは。
「先代の聖女様は、常に背後から光が差し、周辺が照らされていたとも伝わっております」
「その女神様の愛は夜道では便利かもしれないですが、不眠になりそうですね……」
「ご安心ください。女神様が与えたお役目が済めば、自然と元に戻るとも伝わっておりますから」
私はその言葉にほっとした、ずっと強がっていたけれど、さすがに自分の顔を見ることもできない状態が一生続くのは、少し辛いなと思っていたので。
「そして聖女である貴方様は『魔力の巡りを整える』のがお役目です」
「魔力の巡りを整える?」
初めて聞く言葉に、私は首を傾げた。
「この国の大地には網の目のように魔力が広がり巡っていますね」
私は頷いた。それはこの国に住むものなら小さな子供でも知っている事。
遥か遠い昔。女神シウナクシアは、実り少ない荒れた大地で懸命に生きる人の子の姿を哀れに思い、自らの体を大地に変えて与えたといわれている。だから大地にはいまだ女神の魔力が巡っており、私たちはその魔力をわけていただいて魔法を使えるのだと。
「ところが、様々な要因でその巡りが滞る場所が出て来ます。そして、魔力の巡りが滞った土地からは、魔物が生まれやすい。通常は神殿から派遣された神官が魔物の浄化に各地を回っています。大抵は魔物を浄化すれば自然と魔力の巡りも元に戻るのです。その辺りは貴方様も治療術士であればご存じでしょう」
治療院を運営しているのは神殿であり、治癒術士も神官も、神殿で学んだ者。
だから当然、神官が行っている『浄化』の事も学んで知っている。
ちなみに、光の魔力を治癒方向に発揮できれば治癒術士、浄化方向に発揮できれば神官として活躍する者が多い。
「その滞りが百年周期で大きくなるのです、今はまだ神官による魔物の浄化で対応できていますが、既にその兆しが見えており、いずれ普通の浄化では追いつかない程になるでしょう。それを解消できるのは聖女だけであり、その方法については聖女にのみ神託が下るのだと言われています」
「まだちょっと実感がありませんが、今は神託を待てば良い、という事ですか?」
「ええ、心配なさらずとも、じきに女神様からお声がかかりますよ」
にこにこと孫を見守るお爺ちゃんといった顔で笑う神官長に、私はどんな顔をして良いかわからず、とりあえず曖昧に笑って見せた。
「おかえりメイ、神官長と会ってきたんだって?」
部屋に戻ると、執務の間の休憩なのか部屋に居たルルタが、読んでいた本から顔を上げて問う。
「はい」
「彼、昔は僕の先生だったんだよ。僕の小さな頃からずっと変わらずあのままお爺ちゃんで、笑う時だけすごく声が大っきいんだ」
気やすい物言いに私は思わずふふっと声を漏らした。それと共にすっと肩から力が抜け、気を張っていたんだなと思い知る。
そして、その何気ない優しさに胸が温かくなる。
こんな顔もわからない私を聖女だからと押し付けられて尚も私を気遣ってくれる人。
それなら私は、私の役目を果たして、少しは役に立たないと!
その為にまずは『聖女』というものについて学びたい。
そう考えながらルルタの手の中の本を見て、ふと思いついた。
「今までの聖女様についての記録などを閲覧する事はできますか?」
「書庫にあると思うから後で届けるよ。他に何か欲しいものはない?」
私の少し決意を込めた声色に気づいたのか、ルルタが労わる様に聞いてくれる。
他にと言われてぱっと思いつくのは一つだけ。
「あ! できれば私の居た村に、代わりに治癒術士を一人送ってはいただけないでしょうか? あの辺りは治癒術士が少なくて……」
「わかった、すぐ手配する」
その言葉に私はほっと安堵の息を吐く。
私が戻らないとなると人手が足りない、そうなると副院長の心が折れかねない。院長は上手にサボれる人だから全然心配してないのだけど。
「急に帰れなくなって心配だし、不安だよね。ごめんね」
「殿下……いえ、ルル様に謝っていただく様な事ではありません。これは誰かがやらなくてはいけない事でしょうし」
最後は、自分を鼓舞する為の言葉。
「そう言ってくれると、少し胸の支えが下りるようだよ」
ふわっと微笑んでくれるルルタ。そして本を片手に立ち上がった。
「そろそろ戻らないと。今日は遅くなると思うから、先に寝てくれていていいよ」
「はい、いってらっしゃいませ、ルル様」
見送りの言葉に、ルルタは嬉しそうに頷いて扉を閉める。その目は少し名残惜しそうに見えた。
……私の願望が見せた幻かもしれないけど。
「本当に、いい人だなあ」
だからこそ、失望させたくない。
「よし! まずは情報収集から!」
しばらくすると、ラウミがワゴンを押して入室してきた。
「こちらが代々の聖女の記録でございます」
「ありがとう」
窓際にある机の上に積んでもらい、お茶をお願いしていざ本の山と対峙する。
その殆どが、神官による記録か、聖女自身の残した日記や走り書きを纏めたもの。私はまずはペラペラと軽く流し読んでみる。だが。
「なんで……」
何故か、具体的に何を行うかの記載が全く無い。皆、女神様の神託に従ったとしか書き残していないのだ。
どの時代にも失敗したと言う記録は残っていないのは、幸いだったけれど。
私は半ば意地になって、今度は隅々まで詳しく読み進めてみた。
何処かに隠された紙片でも挟まっていないかと、行儀が悪いが本を軽く振ってみたり、ページを透かしてみたり、暗号で書かれているなんて馬鹿なことも考えた。
そのどれも空振りで、私は本の山の間に突っ伏した。目を瞑ると、閉じた瞼の裏で文字がこちらを馬鹿にする様に踊っている。
ああ、空回りしてるなーと思っているうちに、私はスッと眠りに落ちていた。