承 時代と悪意
全てのことのきっかけは、海を挟んだ隣国で改革が起こり、エランジア王国がエランジア共和国へと名を変えたことでした。
隣国の王家はことを上手に処理したもので、革命の火種を察知するやいなや、神への王権奉還をうたって貴族制から共和制へと移行しました。上手なアピールが功を奏し、地に落ちていた旧王家の人気は急騰。結果、当時の王太子が初代首相に就任し、貴族は貴族院議員に、諸侯は知事に名を変えました。世襲制でこそなくなりましたが、かの国の貴族たちはほぼそのままの力を保ったまま、生き延びることとなったのです。
しかしこの国は、昔ながらの貴族制度をそのまま保とうとしてしまいました。ですが隣国の改革を見た民衆からの共和制への移行圧力にとうとう折れることとなり、貴族制度を残すことを条件に議会の設立を認めました。しかしその議会では徐々に貴族に不利な法制度が整備され、貴族はその勢力を着々と削がれていったのです。
かつては諸侯と呼ばれた大貴族も、その例に漏れず。領地改革法の施行により貴族領は二束三文で国へと売却され、領区と呼ばれる地方公共団体へと姿を変えました。もっとも単価は二束三文とはいえ、広大な領地です。領地を失った代わりに莫大な現金を手にした貴族は、その使途を問われることになりました。
それを元手に事業を起して成功したものと、失敗したもの。そして湯水のように使いきってしまったものと、栄華を諦め細々と生きていくことにしたもの……。個人の持つ才覚で明暗の分かれた貴族たちの中で、幸いにも我が父アルバーン侯爵は新規事業への投資でかなりの利益を上げておりました。
その財力、侯爵家筆頭の家柄、そしてリースデン在学中も身近でサポートできる同学年……それが、私が六歳でジョシュア殿下の婚約者に選ばれた理由だったのです。
これから王家、そして国王とは、さらに難しいお立場となってゆくでしょう。『しっかりと殿下を支えて差し上げられるようになりなさい』と、父は私に言いました。私は幼いながらも、強い使命感に駆られたことを覚えています。
子供の頃の殿下はとても利発なお子さまでしたが、とても泣き虫なお方でもありました。お庭で虫を見るたびに、私の名を呼びながら袖をつかんで離さない……そんな頃もありました。
私はこの純粋なお方を世間の悪意からお守りしようと、ただただ強くあろうと致しました。でも、それは間違いだったのかもしれません。
歯車が狂い始めたのは、十三歳になり上流階級の子女の通う寄宿学校へと入学したころでした。この頃の上流階級とは貴族だけでなく新興の富裕層も含まれるようになり、自由に慣れたご学友たちと触れ合う機会が増えた殿下は、ある日、こうおっしゃいました。
「平民はみな自由を謳歌しているというのに、なんで俺だけこんなにも束縛されなくちゃならない! 同じ人間なのに不公平じゃないか!?」
「殿下……平民には、未だに恵まれない者も多いのです。自由を謳歌できる余裕のあるものたちなんて、ほんの一握りの存在でしょう。殿下、貴方は恵まれているのです。どうぞ、高貴なる者の義務をお果たし下さい」
頭を下げる私へと、上から狂ったような笑い声が降り注ぎました。
それ以来、殿下はあからさまに私を避けるようになりました。それでも私は、あの聡明なお方はいつか気付いて下さると、信じてしまっていたのです。
──いえ、それは目を逸らしていただけなのかもしれません。あの方の弱さを包み込んで差し上げられるほどの度量は……私には、なかったのです。
*****
王太子殿下と侯爵家筆頭であるアルバーン侯爵マクベイン家の令嬢との婚約破棄、そして平民の大富豪である海運王ボルトン家の令嬢との新たな婚約発表は、あっという間に首都中を駆け巡りました。
「ミラベル嬢の名誉のために黙っておく」
記者から婚約破棄の理由を問われた殿下は、そう悲しげな顔をして黙秘を貫き通しました。
やはり殿下は、頭の良いお方なのです。その言葉は暗に私の非をほのめかすものとなり……我先にとその悪行を突き止めようとしたマスコミは、殿下ではなく私を追いかけ回し始めたのでした。
叱られることを覚悟しながら、殿下との婚約が解消されるだろう旨と、解消後にフォースター伯爵アイザック・シェリンガム君と新たに婚約したい旨を伝えたとき。落盤事故の後処理で大変だったはずの両親は、私を責めることなく気遣ってくれました。
ですが同時に、ほとぼりが冷めるまで最低一年は待つことを提案されました。それまでは何事もなかったかのように日々を過ごし、新しい婚約者殿とは会わない方が良いと。彼に……アイザックに迷惑をかけたくなかった私はそれを了承し、しばらく会えないという手紙を送りました。
しかしどこへ行っても粗探しと好奇の視線にさらされて、私はやがて屋敷から出られなくなってしまいました。外へ出ようとすると胸が詰まり、上手く呼吸ができなくなってしまうのです。
父は旧アルバーン侯爵領へ静養に向かうことも提案してはくれたのですが、アルバーン領区は首都に隣接していて、マスコミの目から完全に逃れるのは難しいことだと思われました。
これは、ジョシュア殿下の復讐なのでしょうか?
殿下はそんなにも、私を憎んでいたのでしょうか?
今日も屋敷の周りには、私の失態を今か今かと待ち望む人々であふれている……その恐ろしい状況に、私は狂いそうなほどに追い詰められていったのです。
──そんな時です。彼が、夜闇に紛れて現れたのは。
なぜあと半年待てなかったのだと詰る父に、彼は言いました。
「ミラベル嬢がマスコミに追われ続けて憔悴しきっているらしいと、使用人づてに聞いたのです。どうか彼女を、今すぐフォースター領区へお連れするご許可を下さい!」
「だがフォースターへ行ったところで、好奇の目に晒されるのは同じことだろう!? しかも今君と行動を共になどしたら、マスコミはどう解釈すると思う。殿下の思う壺だ!」
「恐れながら、フォースターは辺境にあります。未だ情報には疎く、首都で起こったゴシップを気にしている人間などほとんどおりません。それに一度フォースターの地に踏み入れてしまえば、我が領民たちは全力で僕の花嫁を守ってくれることでしょう」
「我が領民……か。今時そんな呼び方を自信満々にできる貴族が残っていたとはな。よかろう。どうか娘を……世間の悪意から、守ってやってくれ」
「はい。──必ず」
ここから離れて遠くに行ける──その具体的な段取りを彼の口から聞かされると。私の心はまるで重石を取り除いたかのように軽くなりました。
──その数日後。私が屋敷の正門から堂々と出発した途端。スクープに飢えたマスコミが、行く手を阻むように馬車の周りを取り囲みました。
私はドアを大きく開けさせて立ち上がると、背筋を伸ばして優雅に口を開きました。
「殿下はご身分の壁を乗りこえて、真実の愛を見付けられたのです。私は殿下とそのお相手の女性を、心より応援しております」
そう言って──私は最後に、毅然と微笑むことができました。
街の外れに新しくできた駅でアイザックと落ち合うと、そのまま私たちは首都を離れました。
その後どうなったのか……首都から離れたこのフォースターの地には、あまり聞こえて参りません。ただ王子様と平民の娘の奇跡の恋の物語へと、世間の興味が移り代わることとなったのは確かなようで……その後マスコミが、私を追いかけてくることはありませんでした。
*****
駅で待っていたのは、最近外国から輸入して導入されたばかりだという、最新鋭の蒸気機関車でした。黒くそびえるこの大きな鉄の塊が、まさかひとりでに走ってゆくなんて。黒煙を噴き上げながらホームへと入るその姿を見ていると、私は改めて時代の変化を思い知らされるような気分でした。
客車の中は通路沿いに仕切り客室が並ぶ造りになっていて、ドアを開けると内部は小さな個室になっています。私たちは向かい合うように設置されたソファのそれぞれ窓際に腰掛けると、物珍しそうに窓の外に目をやりました。
列車が石造りの街並みを抜けて郊外へ出ると、窓の外には緑の丘陵が広がっています。所々でのんびりと草を食む白い羊たちの姿を、ぼんやりとながめているのにも飽きたころ。ふと向かいの席に目をやると、窓枠に肘を乗せて眠る彼の姿が目に入りました。
彼はここ数日、私をフォースターの自城に迎えるために、ほぼ寝ずに動いてくれていたというのです。私は彼を起こさないようそっと席を立つと、彼の隣に座りなおしました。
寝顔は彼をいつもより少しだけ幼く見せていて、知り合って間もない頃のシェリンガム君の姿が重なって見えるようです。
──図書室に到着した私がその姿を探すと、彼は机上に伏して居眠りをしているところでした。窓から差し込む光を浴びながら、それでもすやすやと寝息を立てている彼に、そっと近付くと。彼の淡いアッシュブラウンの髪、そして同じ色の睫毛はまるで絹糸のように輝いていて……思わず吸い込まれるように顔を近づけていった私は、ハッとして慌てて身を起こしました──
……でも今はもう、あの時のようなしがらみはないのです。心惹かれるまま、その柔らかそうな見た目に反して私より少し硬い髪に口づけると……急にパチリと青い瞳が開きました。
「い、いつから起きていたの!?」
「……君が、隣に座ったくらいかな」
「起きているのなら、言ってくれればいいのに!」
「……まさか君の方から寝込みを襲ってくるとは思ってもみなかったよ。まったく、僕がどんな思いで我慢してるかも知らずに……」
「おっ、おそうなんて、私っ……!」
羞恥に顔を染めた私は慌てて立ち上がって逃げようとしたものの……揺れる客車に足を取られ、気づけば彼の腕の中にすっぽりと収められてしまいました。
「先に手を出したのは君だから」
「あ、あれはそんなのじゃな……」
私のあげた小さな抗議の声は、すぐに列車の騒音に紛れ込み……あえなくかき消されてしまったのでした。