■後編
その後、ニッシの叱咤激励により、やる気だけは起きたものの、温室育ちの伯爵様であるグレイにとって腹筋百回は骨の折れる労働らしく、ノルマ到達を半ばにして完全に伸びてしまった。
「あー、もうダメ。今度こそ限界だ。これ以上やったら血反吐が出る」
「あと五十回だ。三十回目の時も、お前はもう無理だと言ったが、それから二十回も出来ているんだ。頑張れ!」
「なんだか、どこぞの居酒屋チェーン店のオーナーみたいなことを言うね。腹筋させていただいてるんだとでも言う気かい?」
「オッと。それ以上は、本編のシリアスさが台無しになるから言わせない」
「そのセリフそのものがメタ発言では?」
「とにかく! ここで諦めたら、今までの努力が水泡に帰すぞ、グレイ」
「無理なものは無理だって、ニッシ。いっそのこと、ここで暮らそうよ。楽しいウーバーイーツ生活の、はじまりはじまり~」
「だから、世界観を壊すなって。まったく。口だけは達者だな」
「こうして栗毛の長い髪が素敵な王子様は、燃えるような赤毛の騎士様と、末永く幸せに暮らしましたとさ。ちゃんちゃん」
「勝手に締めるな。全然めでたくないから! おい、起きろ!」
ニッシは、ペシペシと手の甲でグレイの頬を張ったり、両手で肩を掴んで揺すってみたりした。だが、グレイは一向に目を覚ます気配が無かったため、ニッシはグレイの身体を米俵でも運ぶかのように肩に担ぎ、ベッドの上に寝かせた。
「そういや、何時間経ってるか知らないけど、ここに閉じ込められてから、まだ何も口にしてなかったな。適当に腹ごしらえするか」
疲労困憊のグレイがグッスリ寝入っているのを確かめたニッシは、コンロのそばへ移動し、戸棚の中から調理器具を取り出しはじめた。
「グレイ、料理が出来たぞ」
「う~ん。そういうセリフは、サーラかフィアに言ってほしいところだよ。何が悲しくて、ニッシが作ったものを食べねばならないんだ」
「いいから、身体を起こせ。腹に何か入れないと、体力は回復しない」
「はいはい、起きますよ。節々が痛いから、ちょっと手を貸して」
ニッシに腕を引いてもらって立ち上がった時点で、グレイはニッシがシャツを脱いでいることに気付いた。
「んんっ?」
「ん? どうした?」
「何で半裸なのさ! 無駄に良い筋肉だな」
「水を出そうとしたのだが、予想を上回る勢いで管から出てきたものだから、濡れてしまったんだ。それと、この筋肉は無駄ではない。護衛のために必要な筋肉だ。サーラだって、この腕を気に入っている」
ニッシが得意げに腕を曲げて力瘤を作って見せると、グレイは「もう結構です」とでも言いたげに片手をヒラヒラさせ、ソファーに座ってローテーブルの上に並ぶ料理に手を付けはじめた。
軽い睡眠を摂ったことで、グレイに食欲が湧いてきたことを実感すると、ニッシはグレイの横に座り、同じように料理に手を伸ばした。
「氷室の中身は、卵だけじゃなかったんだな」
「ああ、そうだ。棚には血抜きされた鶏肉もあったし、引き出しを開けたら青菜や人参や芋も入っていたから、まとめてブイヨンスープにしてやった。どうだ?」
「田舎の味って感じがする」
「都会育ちのご子息には、お口に合いませんでしたでしょうか?」
「卑屈になるなよ。そういう意味じゃない」
「なら、どういう意味なんだ?」
「故郷を思い出す純朴さが染み込んでるってことさ。悔しいから、あんまり解説させるな」
「ハハッ。プライドを傷つけちまったか? 悪いな。スープなら、あの鍋いっぱいに作ってあるから、遠慮するなよ」
食事と精神状態は、断ち難い因果関係にある。スープの温かさが二人の心を覆っていた蟠りをとかしたようで、ステンレスの鍋が空になり、二人の腹が満たされた頃には、家柄やら職務上の責任やらに左右されなかった幼少期のように、すっかり打ち解けていた。
そして、食休みを挟んで再開した腹筋百回のノルマは、順調に目標達成へと進んでいった。
「……九十七、九十八、九十九、百。はい、そこまで!」
「は~、やっと終わった!」
「よく耐えたな、グレイ。最初の十回目の頃とは、まるで別人だぞ」
「俺としても、ひと皮剥けたような不思議な感覚がしている。君のおかげだ、ニッシ」
「よせやい。真正面から御礼を言うなんて、らしくないぞ」
「これは失敬。とんだキャラ崩壊でしたかな。――あっ、ドアの鍵が開いた!」
ガチャンと錠が外れる音を聞き取ったグレイは、シャツを着直したニッシに支えられながら立ち上がり、並んでドアの前まで移動した。二人は、部屋のほうをチラッと一瞥してから、ノブを引いて外へと飛び出した。
その後、妙に親しそうにしているニッシとグレイを見かけた物見高い水牛亭の人々は、二人がただならぬ関係に陥ったのではないのかと邪推したとか、しなかったとか。