恩人
私は棗。
大好きな奏さんが付けてくれた名前です。
奏さんとの出会いは、忘れもしれません。
3年前の、雨が降りしきる中、私は捨てられました。
右も左もわからないところで、どうしていいのか分からず、呆然としている私を、奏さんは優しく抱き上げてくれて…
「どうしたの?貴女…こんなに可愛いのに、雨に濡れたままで…貴女のご家族は何をしているの?」
と、私の自慢の黒髪を何度も撫でてくれました。
私は、言葉が話せません。だからでしょうか、私は色んな家庭をたらい回しにされていました。
迷惑にならないように、家の隅でひっそりとしているのに、皆そのうち鬱陶しがるようになって、私を捨てたがりました。
雨でびしょ濡れになった私は、その温かな眼差しに思わず涙をポロポロ流しました。
奏さんは、そんな私の様子に気付いたのでしょうか?
「貴女…うちに、来る?うちには二人の子がいるから、結構賑やかになると思うわ」
と、声を掛けて下さったのです。
「貴女の名前は、棗でいいかしら?この子は柚、この子は曹、よろしくね」
私は、奏さんの子達に挨拶を済ませ、その日から奏さんのお家でお世話になることになりました。
「棗、一緒にお風呂に入ろうか?綺麗にしてあげる」
「棗、この着物どうかしら?貴女に似合うと思って、買ってきたのよ」
幸せな日々が続きました。
けれども、そんな日は終わりを告げようとしていたのです。
ある日、奏さんが男の方を家に連れてきました。
ところが彼は、私達に挨拶をするどころか、胡散臭そうにじろじろ見たのです。
私達は、恐怖しました。
奏さんがお家に連れてきた男の方なのだから、きっと恋仲なのでしょう。
けれども、私達はどうしても彼を好きになれませんでした。
決定的だったのは、奏さんの家が、火事になった事でした。
放火でした。
奏さんは、直ぐに私を抱き上げ、なんとか一緒に命からがら逃げる事が出来ましたが、柚と曹は…火にのまれました。
奏さんは私に、彼の家に行こうと思う、と言いました。
私は嫌でしたが…奏さんの決めたことには文句が言えません。
奏さんに引き連れられた私は、彼の機嫌を損なわないよう、毎日家の隅で縮こまって生活しました。
ところが…
ある日、私は聞いてしまいました。
彼は、ハッキリと奏さんに
「おい、アイツ捨ててこいよ」
と言いました。
直ぐに、私の事だとわかりました。
「ねぇ、あの子は私の家族みたいなものなの。どうか、この家に置いてくれないかしら?」
「今まで我慢してたが、なんだかアイツ薄気味わりーんだよ!」
「そんな事言わないで、棗は私の大切な…」
言い合いは、何日にも及びました。
そして、ある日。
奏さんが、私の前に来て、泣きながら言いました。
「ごめんね、棗。ごめんね…」
ずっと、泣きながら謝り続ける奏さん。
ああ
私はまた、捨てられるんだな、と思いました。
奏さんと過ごした日々は、どの家庭で過ごした日々よりもキラキラしていて…
柚や曹がいた頃は…奏さんの彼が現れる前は、本当に幸せでした。
そんな日々をくれた奏さんを恨むなんて事、ありません。
ただ私は、奏さんの彼を、憎んでしまいました。
***
「仕事お疲れー」
「おう、お先」
俺は家路に着いた。
やっと、今同居している奏が、アイツを捨てる決心をしてくれて、心の荷が下りた。
アイツ…棗は、本当に不気味だった。
誰もいない部屋で視線を感じて振り向けば、そこには必ず棗がいた。
奏の趣味を付き合って初めて知ったが、本当に驚いた。
まさかあんな気持ち悪い日本人形を大事にしているとは…しかも、家族同然の様に。
家に帰ったら、やっとあの視線を感じずに、くつろげる様になるんだな。
そう思うと、自然に足が軽くなった。
――その後、まさか日本人形に呪い殺されるとも知らずに――