登山
赤石奈保は、町田充と、標高1000メートル程の山を登りに来ていた。
山登りと言ってもハイキングコースがあるらしく、日帰りの予定だ。
山登りをした事がない奈保は、山に慣れている充の言うがままに荷物を作り、歩くがままに着いていっているだけである。
ハイキングコースなのに先程から道程はやけに険しくなっていたが、奈保は無心で登る事に魅力を感じ始めていた。
「ほら、あそこが結構、見晴らしがいいんだ」
充が指差す方を、顔を上げて見てみると、切り立った崖の様になっていて、確かに見晴らしは良さそうだった。
一人しか立てないその場所に、充と代わって立ってみる。
「うわぁ…」
遠くに、標高2000メートルの山々が連なり、とても美しい、壮大な景色が広がっていた。
快晴ということもあって、空気までがキラキラしている。
しばらくその景色に見惚れていると、
「こんにちは」
と知らない声に挨拶された。
振り向くと、真後ろにいた充の更に後ろに、自分と同じ20代半ばの男女のカップルがいた。
山登りでは、知らない人達と通り過ぎる時に挨拶するのもマナーだ。
「こんにちは」
奈保も気持ち良く挨拶し、そのカップルに場所を譲ろうとしたが、男の方が自分達二人をじろじろと見ている。
(この男の人、なんだろう…)
少し不躾なその視線に戸惑ったが、相手から先に沈黙を破った。
「お二人とも…その装備でこの先に行くのは危険ですよ?その装備だったら、ハイキングコースまでにしておいた方がいいと思います」
奈保が口を開くより先に、充が口をはさんだ。
「わかってます、この景色を彼女に見せたくて、ここまで来ただけですから。これから戻ります」
そう言って、充はさっさと歩き始める。
奈保は「ご親切にありがとうございました」と声を掛けて男女と別れ、だから道が険しかったんだ、と一人納得した。
しばらく歩くと、今度は初老の夫婦が岩場で休憩をしていた。
「こんにちは」
お互い挨拶をして通り過ぎようとしたが、奈保は男の方が、足を擦っているのに気付いた。
「あの…足、大丈夫ですか?」
先程の若い男が、この先険しくなると言っていたのを思い出して、受け売りですけど、とそれをそのまま伝える。
すると二人はニッコリと笑い、
「この山は何度も来ていて、慣れているから大丈夫よ。でも、ありがとう。貴女達も、気をつけてね」
と言った。
奈保はもっと夫婦との会話を楽しみたかったが、
「おい、何してるんだよ。早く行くぞ」
充に急かされ、夫婦への別れの挨拶もそこそこに、先を急いだ。
奈保は、道すがらのこうしたやり取りでも心がほっこりと温かくなるのを感じ、山登りを好きになりそうな気がした。
充の後を追いながら、奈保はいつ別れ話を切り出そうか悩んでいた。
充とは、なんだかんだで6年の付き合いになる。もう出会った頃のトキメキはとっくになくなって、お互い空気の様な存在になりつつあった。
充の事を嫌いになった訳ではなかったが、これ以上一緒にいても、先はないと思った。
定職につかず、奈保の部屋にあがりこみ、最近ではギャンブルにはまり出している。
奈保は普通に結婚や出産をしたかったが、充相手では不安が大きかった。
休憩の時に話すつもりだったが、意外と休憩場所は他の人がいたりして切り出せない。
むしろ、歩きながらの方がいいかも、と考えた奈保は口を開いた。
「あのさ、充、話が…」
「悪い、奈保…迷ったかも」
「えっ!!?」
充の声に反応して周りを見渡せば、確かに道とは思えないところを二人は足場にしていた。
自分の考えに没頭し過ぎて、すっかり周りが見えていなかったのだ。
「すまん奈保、ちょっと俺が先に行って様子を見てくるから、お前はここで動かずに待っててくれ」
「え!?でも…」
「大丈夫だ、直ぐに戻ってくるから!!」
「待って、一人にしないで!!」
奈保の願いもむなしく、充は軽快な足取りで先に行ってしまった。
山の事を何も知らない奈保は、途方にくれた。
充を信じて、待つ他なかった。
しばらくしても充が帰って来ないので、リュックに何か役立つモノはないかと漁ってみたが、水が入った水筒以外、何もなかった。
たかがハイキングだと思って侮っていたのか、奈保には余計な重たいものを持たせたくなかったのか、食料なども充のリュックにあるようで、益々不安は募るばかりだ。
待つだけの身としては、10分が1時間にも感じるものである。
余計な事は考えないようにして、じっとその場で待った。
どれだけ待っていただろう。
人の声が聞こえて、思わず奈保はその声のする方へ駆け出した。
「あら!貴女、どうしたの!?お連れの方は?大丈夫?」
それは、先程話をした初老の夫婦で、奈保は安心感からどっと涙を流した。
夫婦は急に泣き出した奈保に驚いたが、何も言わずに落ち着くまで待っていてくれた。
事情を説明すると、夫婦は
「この先に、登山者が休憩する宿泊施設があるから一緒に行きましょう?」
と誘ってくれた。
奈保は、自分が動いてしまう事で、充がわからなくなってしまうのではないかと気になったが、夫婦の
「あのね、こういう場合、貴女がまず無事に帰還して、山岳救助隊を派遣して貰うのが一番いいと思うの」
という話に賛同し、夫婦と一緒に行動する事にした。
奈保は夫婦と他愛ない話をしながら、宿泊施設の見えるところまで歩いた時、一時は止まった涙がまた溢れて来た。
「私達、この山の山岳ガイドをしていたの。こんな目にあって、怖かったと思うけど…また、山に来て欲しいな?」
「はい、山が悪いのではなくて、私達が悪いんですから」
「そう?嬉しい♪私達の息子夫婦も、一年に一度、この山に来てくれるのよ~」
夫婦は、奈保を励ましながら、宿泊施設まで案内した。
「ここまで来れば、もう大丈夫かしら?」
「本当に、ありがとうございました」
「宿泊施設のスタッフに話をすれば、直ぐに色々やってくれると思うから、貴女はとにかく早く休みなさいね?」
「はい」
夫婦の姿が見えなくなるまで見送り、宿泊施設に向かう。
その時、夫婦の名前と住所を聞かなかった事に気付き、奈保は物凄い自己嫌悪に陥った。
***
宿泊施設のスタッフは、奈保を温かく迎えてくれ、救助隊の要請などを素早くやってくれた。
宿泊施設には、見晴らし台のところですれ違った、カップルもいた。
女性が優しく、
「大変でしたね」
と言い、奈保に相席を勧めてくれた。
男性は、奈保が食事を済ませて落ち着いた頃に
「お節介な話とは思うが…あの男とは、別れた方がいいと思う」
と言い出した。
奈保が理由を聞くと、しばらく渋った後に、
「ショックを受けないで欲しいんだが…」
と話し出した。
奈保が見晴らし台で景色を見ている時、真後ろにいた充は、奈保の背中を押そうとしている様に見えた、という事。
山を知っている者が、ハイキングの格好であそこまで行くはずはなく…また、ハイキングだとしても、必ず飴やチョコレート等の食糧は奈保の荷物に入れるのが普通である事。
「あんたを殺そうとしたとしか思えない」
と、言った。
男の話に驚きつつ、思えば、遭難してからの充の行動には思い当たる節があって、奈保は何とも言えない気持ちだった。
所在なげに、宿泊施設の中をぼんやりと見回していると、一枚の写真が目に飛び込んできた。
その写真は、先程の初老夫婦と、宿泊施設のスタッフがこの施設の前で撮った写真だった。
山岳ガイドをしていたと言っていたから、ここに写真が飾られているのだろう。
「すみません!このご夫婦のお名前とか連絡先ってわかりますか!?このお二人が、私を助けて下さったんです!!」
奈保は、宿泊施設のスタッフに聞いた。
宿泊施設のスタッフだけでなく、若い男女カップルも顔色をかえた。
男性が
「この夫婦って、俺の両親なんだけど…本当に、この二人に助けられたの?」
と確認してきた。
「間違いありません!この山の山岳ガイドをしていたっておっしゃってました」
それにしても、目の前の男性は夫婦の息子だったのか。
なんという偶然か。
奈保は嬉しくなって、
「お二人に改めてお礼に伺いたいんです、連絡先を教えて下さい!!」
とお願いをする。
しかし、男性の返事は。
「二人は、大分前に、この山で亡くなったんだ」
というものだった。
驚く奈保に、男性は続けた。
「親父が、足を痛めていたのに、無理して山に登って滑落して…母親も、それを助けようとしてね」
困ったように、話す。
「俺達は毎年、お墓参りのつもりで一年に1回、この山に登っているんだよ」
不思議と、怖くはなかった。
溢れ出るのは、言葉にならない感謝、感謝、感謝。
奈保は、夫婦の言葉を思い出した。
「山を嫌いにならないでねって言ってました…また、登りに来てねって」
「ははは、親父達らしいな」
今は亡き夫婦のお陰で、奈保はその後、無事に帰宅する事が出来た。
充は結局、行方不明のままだ。
奈保は、家に帰ってから、充が自分を殺そうとした理由を知った。
奈保の預金通帳から、800万程のお金が勝手に引き出されていたのである。
おそらく、ギャンブルに使い込んでしまい…奈保がいつか気付く事を恐れたのだろう。
奈保は、充の物を全て捨て、引っ越し、新しい生活を始めた。
***
~発見されなかった遺体の記憶~
充は、奈保を置き去りにした後、予定していた場所に荷物を置いた。
奈保の荷物には必要なものを一切入れなかったが、充の荷物には、寝袋から防寒着、水に食糧と、全てが充実していた。
途中、見晴らし台で突き落とせるかと思ったが、若い男女に邪魔された。
けれども、やはり遭難に見立てた方が他人に発見されにくいと思い直し、当初の予定通り、遭難するフリをする事にした。
俺も7日間位、野宿か。
施設に行ったら、救助隊を呼ばなければ、疑われてしまう。
自分も遭難する必要があった。
ポケットからタバコを取り出し、胸一杯に吸い込む。
火も消さずに、投げ捨てた。
すると、投げ捨てたタバコの先に…一万円札を見つけたのである。
少し身を乗り出せば、届きそうな位置。
ラッキー
そう充は思い、拾おうとした。
瞬間、足下が崩れ…
そのまま下に、滑り落ちた。
滑り落ちた充が、全身の打撲の痛みに顔をしかめながら上を見上げると、初老の夫婦が見下ろしている。
「おおぃ、助けてくれ!!」
助けを呼んだのに、夫婦はその場から何も言わずに去ってしまった。
いや、絶対にあれは気付いている。
きっと、助けを呼びに行ってくれたに違いない。
食糧は上にあるから、それを取りに行ってくれたのかもしれない。
だが、待てども待てども、救助は来ず…充は夫婦を恨んだ。
最期に充が意識を手放した時。
「貴方が他の人にやろうとした事よ…自分がされても、文句はないでしょう?」
耳元で囁かれた気がした…