そこにいるよ
まだ新米教師の私は、職員室の自分のデスクで肩肘をつき、悩んでいた。
担当は、小学一年生。
みんな純真で、まだ虐めもない。先生を馬鹿にする事もない。宿題をやらない事も、授業をサボる事もない。
では何故悩んでいるか。
私は、何枚もの画用紙の中の一枚を手に取り、ため息をつく。
画用紙に描かれたそれは、まだ稚拙だが、温かみのある絵だ。
それもその筈、表題は「家族」であり、クラスの皆が一生懸命描いたものであるのだから。
個人のプライバシーに関わろうとしなければ、悩む事でもないかもしれない。
けれども、私には気になった。
すずきはると君の絵だ。
彼の家庭は、シングルマザーのはず…
なのに彼の絵には、はると君と、ママと、小さく…男の顔らしきものが描かれている。
この絵が、単に提出するだけのものであったならば、問題はなかった。
ただ、これは次の授業参観までに、教室の後ろに貼る予定なのだ。
――はると君のママは、新しい恋人でも出来たのだろうか?――
私は、そう考えてしまった。
という事は、シングルマザーである事を知っている者がこの絵を見た時に、同じ考えに至ってもおかしくない。
それが噂となったら、はると君やその母親にどんな影響を与えるのがわからず、それが怖かった。
「…うだうだ考えていても仕方ない!お宅訪問して、この絵を展示して大丈夫か聞けばいいじゃない!!」
善は急げ。
時計を見ると、まだ18時だった。夕食時にかかってしまうが、訪問して失礼な時間帯ではない…はず(汗)
「今日はお先に失礼します!」
残っている先輩達にそう言って、席を立った。
手に、すずきはると君の住所が書かれた紙切れを握りしめて。
19時、私は質素な平屋の一軒家の前に到着した。
家庭訪問は、新米教師の私には非常に緊張するイベントである。
インターホンがない為、軽く木製のドアをノックしながら、声を掛けた。
「鈴木さん、鈴木さん、いらっしゃいますか?はると君の担任の飯坂です」
「…先生?」
ガチャ、とドアを開けて顔を出したのは、はると君だった。
「はると君、こんばんは!今日はお母さんとお話をしに来たのだけれど、お母さんお家にいるかな?」
「ママは8時になったら帰ってくると思うよ。入る?」
はると君は、玄関を大きく開けて、私を部屋の中に招き入れてくれた。
見た目より奥行きがあったはると君のお家は、狭くはあったが2つの部屋があった。
一つはダイニング、一つはリビング兼寝室として使っているらしい。
「先生、ここ座って」
はると君は、座蒲団の敷いてあるスペースを指差し、台所に行った。
冷蔵庫を開け、
「お水かお茶か…リンゴジュース」
と、こちらを見て言う。
「じゃあ、お水をお願いしようかな」
私ははると君に微笑みながら、まだ小さい彼が、夕食時に一人で母親が帰ってくるのを待っている事、急な来客にもしっかりと気を配っている事に、胸が痛むのと同時に感動した。
「先生、ママと何を話しに来たの?」
純粋な疑問形で聞いてくるはると君に、一瞬誤魔化そうかとも思ったが、本人にも軽く聞いてみればいいじゃない、と思った。
「はると君が描いた絵の事よ~。上手に描けてたねっ♪」
はると君は満更でもないようで、うん、頑張って描いた、と恥ずかしそうに返事をする。
「ところで…はると君の絵には、ママと…もう一人、男の人のお顔が描いてあるけど、誰なのかな?」
「あそこの人だよ」
はると君が指差した先には、仏壇があった。
仏壇には、はると君のお父さんと思われる男性が、にっこりとこちらを向いて笑っている。
「先生が…絵を描くとき、一緒にお家にいるなら何でも描いていいって言ったから…」
はると君は、私に怒られると思ったのか、尻すぼみで説明した。
確かに私は、ペットも家族と考える子達もいるだろうからと、家族のお題を出した時にそう言った。
そして実際、犬やハムスターも、一緒に描いてきた子達もいたのだ。
私は反省し、自分を恥じた。
はると君のお父さんは亡くなっているが、はると君は毎日仏壇に手をあわせ、一緒に住んでいるのだと考えて描いたに違いない。
遺影には顔しか写ってないから描いた絵も、男性の顔だけだったのだ。
「そっかぁ…!はると君の絵を見たら、描かれたパパも必ず喜んでくれるね♪」
私は、これで問題なく絵を展示出来ると思い、ほっとしてはると君に笑いかけた。
けれど、はると君は。
「パパじゃないよ」
と言った。
私は、理解ができなくなって…
「え?だって、あそこにいるパパを描いたんでしょう?」
と聞いた。
「違うよ。先生は一緒に住んでいれば、誰を描いてもいいって言ったから、僕はママとその人を描いたんだよ?」
今度ははると君は、私を指差している。
正確には、私の後ろを。
「この家に来てから、ずっと一緒に住んでるから」
私は、背筋が凍るのを感じた。
「はると君…その人、どこに、いるの…?」
だから、そこにいるよ。
そう言ってはると君が指差す自分の後ろを…私は見ることが出来なかった。