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一日修行

俺は、目の前の建物を見て唖然とした。



今にも崩れそうな、大きな亀裂の入った灰色の壁。何十年経てばこんなに汚くなるんだと思える暖簾。ガラスは、もともと曇りガラスなのか埃がついているだけなのか、判断がつかない。



それでも、俺が店長に言われて一日修業の為に、はるばるやって来たこのラーメン屋からは、とてつもなくいい出汁の匂いがしてきた。



「すみませ~ん……」



カラ……と小気味の良い音ではなく、建て付けの悪さからかガツッガツッという音をたてて引き戸を開ける。



店内は薄暗く、まだ仕込み中の為か、厨房から微かに光りが漏れてくるだけだ。


最近は厨房=カウンター席の向こう側、という店の内装が多い中、まるでチェーン店の様に厨房とホールが分かれているこの店は珍しいなと思った。



俺が個人ラーメン店の正社員になって、3年が経とうとしていた。


店長(=社長)はまだ若く、これから徐々に暖簾わけをしていく事を決めていた。オリジナル豚骨ラーメンを全国民に食べて貰う事を夢見て。


俺は店長に買われて、暖簾わけ第一号店の店長に、と言われていた。しかし、意外とブームの移り変わりが激しいラーメン業界で、自分の店しか知らないのは問題だという事で、店長の知り合いが営むラーメン屋に一日修業する事になったのである。



どっかのテレビ番組に出ていた、怒鳴り散らす様な人じゃないといいな、と思いながら店内に入ったが、怒鳴り声どころか静寂が辺りを包んでいた。



「すみませ~ん」


聞こえなかったのかな、と思い、もう一度大きめの声をかけた。



だが、誰も返事をしない。



……なんだっつーんだよ……



店長から、修業の話は通っているだろうに、こちらを全く気にしない?店主に苛立ってきた。



普通、他人が厨房に勝手に入るのは御法度だが……今回は特例だ。


そう思った。




それにしても、何をベースにした出汁なんだろう……?


辺りはラーメンの良い香りで充満している。


うちは豚骨をベースとして、鰹と鳥と後は企業秘密の出汁を使っているが、この店は匂いだけでは判断がつかなかった。



厨房に近付くと、ダンッダンッという、何かを叩き切る音だけ響いていた。



「あのぅ、今日だけお世話になります……」



自己紹介をしながら厨房に入ると、中では一人の店主が出刃包丁の背中側で骨を断ち切っているところだった。



名前を続けるつもりだったが、出来なかった。まな板の上を見てしまったからだ。






ヒッ……




生まれて初めて、『息を飲む』という事をしたのだと思う。






まな板の上で店主に捌かれているのは、人間だった。



店主が断ち切っていたのは、人間の足。



腕と、内臓を取り除かれた4つに分けられた胴体がその脇で、次に捌かれるのを待っていた。



首はゴミになるのか、内臓と共に半透明のゴミ袋に入っているのが、かろうじて見えた。……というより、見えてしまった。




店主が、俺に気づいたのか……包丁を持ったままゆっくりとこちらを振り向く。




━━流石に俺は、店主が振り向くのを待たずにそこから逃げ出した━━




建て付けの悪い引き戸を開けるのが、10分位かかった様に思えたが、実際は3秒も掛かっていなかったのだと思う。




とにかくその店から転がり出て、やみくもに……とにかく、人のいるところに向かって走った。




━━店長!!あんた、あの店主と知り合いならヤバイぜ!!!



そう思って、繁華街に出たところで俺は息が整わないまま、店長に電話をした。




「バカヤロウ!!一日研修して貰えるのに、相手を待たせるなよ!!」



店長の第一声が、これだった。




意味不明なまま店長の話を聞くと。



予定の時間になっても俺が現れないので、店主が心配して店長に電話をしたとの事。


遅刻をしたのかと慌てて店長が俺に電話をすると、ずっと電波が届かないか電源が入ってない、という。



店長は最初、怒りモードだったが、俺がいつもの様子と余りに違っていたので、こちらの話も聞いてくれた。



そこでわかった事だが、どうやら俺は路地を一本間違えてしまったらしい。




その後、店長と何度かその問題の店を探したが、一向にその店は見つからなかった。


幸いだったのは、店長が俺の話を信じてくれて、遅刻の言い訳と捕らえなかった事だ。



仕切直しで、もう一度その知り合いの店に修業に行かせて貰ったが、その時の経験があるからか、どれもが普通に思えた。





暖簾わけはもうすぐだ。


店長はまだ、今の味のまま暖簾わけをしていいのか、悩んでいる。






時折、思い出した様に俺に話す。


「なぁ……お前が入ったその人骨ラーメン屋さ……どんな味だったんだろーな」


「さあ……今まで嗅いだ事のない、物凄い良い匂いだった事は間違いないですがね」



俺も店長も知っている。


世界でこれだ!と思える出汁を追求するのに……何でも試すチャレンジ精神を、二人とも持ち合わせている事を。




今、真新しい新人が、何の話をしているのか判らずに……真横にいる。

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