ブアメードの血
俺は、マジシャンの助手よろしく首から上だけをボックスから出した状態で、ベッドに横たわっていた。
何の事はない、人体実験の被験者なだけだ。
短距離走の選手だった俺が、何でこんな事をしているか端的に言うと、金が必要だからだ。
膝の故障を治す手術代の。
普通に治すのではなく、元通りに治して貰うのだ。
世界屈指の外科医にお願いするその手術代は、べらぼうに高かった。
選手生命を諦めて毎日死んだ様に生きるなら、命の危険があってもこの人体実験を引き受けることにした。
この人体実験で手に入るのは、お金。それと、その外科医との交流だ。
なんせ、今回の人体実験は、その外科医が今目の前で行っているのだから。
***
勿論この外科医は、医師免許を持っていない。
しかし、モグリの世界で知らない人はいない、超有名人だ。
先日は、脳の移植手術に成功したとの噂が流れてきたくらいだ。
まぁ、流石にそれは誇大された話だろうが。
さて、俺がこのベッドに寝てから、そろそろ2週間が過ぎようとしていた。
契約期間は一ヶ月だが、契約書には「ベッドに寝るだけの簡単な人体実験」とあった。
ただし、「人によっては生命の危機あり、一ヶ月で五千万円」だ。
初日から兎に角、自分の筋力が気になった。
寝ているのは昼だけかと思いきや、一日中だったのだ。
つまり、俺は31日間寝っぱなし。
毎日、規則正しい生活とトレーニングを送ってきた俺にとって、未知の世界だ。
一日オフの日ですら基礎運動は欠かさない俺には、非常に辛い筈のバイトである。
だが実際は、さほど辛くはなかった。
何故なら一日中、殆ど本当の意味で寝てしまうからだ。
朝7時に起こされて、簡単な質問を受ける。
「調子は如何ですか?」
これだけだ。
そして、やたら綺麗な助手と思われる女(外科医の妻らしい)が手術セット一式をワゴンに乗せてやってくる。
しばらくすると、腕にチクリと針で刺したような痛みを感じて、俺は眠りにつく。
なにやら外科医がカチャカチャと俺の体の方(俺にはボックスで阻まれて見えない)で何かをしているのを聞きながら。
それを、2週間繰り返しているのだ。
しかし、最近おかしな現象が起きている事に気付いた。
俺は、いつ、食事や排泄を済ませているのだろう?
以前は腕に注射が打たれた感覚があったのに、今はそれもない。
いや、もっと言うと、体の感覚がないのだ。
背中やお尻ががベッドに付いている感覚。
指や腕を持ち上げる感覚。
呼吸によって、胸が上下する感覚。
それらを感じないのである。
最初は麻酔のせいかと思いもしたが、それにしたっておかしい。
俺は遠回しに、外科医が行っている人体実験について聞いてみた。
眠気がくる前に聞いてしまわないと。
「あの、この人体実験って、どんなものなんですか?」
外科医は俺をチラリと見ると、すぐに手元に視線を戻して答えた。
「君は、ブアメードの血と呼ばれる実験を知っているかな?」
「ブアメードの血?」
昔から陸上で才能を開花させ、短距離走一本で突っ走ってきた人生を送ってきた俺には、残念ながら勉強時間というものが存在しなかった。
「授業ではやらないよ、そうだなぁ…心理学とか社会学とかでは学ぶ機会があるかもしれないけど」
外科医は簡単に説明してくれた。
昔オランダでブアメードという死刑囚に行われた実験で、ブアメードには「人間がどれくらいの量の血を流せば死ぬのか調べたい」と伝え、その上で「1/3の量で死ぬんじゃないか」という予測も聞かせる。
ブアメードの足の指を切り、血を流し、1/3量に達したところでそれを伝えたところ、それを聞いたブアメードは、息をひきとった。
しかし実際は、ブアメードは一滴の血も流していない。
ブアメードには血を流し続けている、と勘違いさせたのだ。
足の指に痛みを与え、水滴の音を聞かせて。
この人体実験は、「人は自己暗示によって、自らの生命機能を停止させる事が出来る」事を証明した。
「…で、この証明はノセボ効果の証明にもなるんだけど」
「ノセボ効果??」
「簡単に言うと、悪いと思い込む事で、回復が遅れたり副作用が出たり…症状が悪化したりする事だよ」
ああ、何だかよく分からなくなってきた。
「結局、その話がこの実験とどう繋がるんですか?」
「んー…この話続けちゃうと、実験がストップしちゃうかもしれないんだよね」
まぁいーかぁ、と外科医は軽い口調で続けた。
「なんかさぁ、この人体実験の話を知って、思ったんだよね。
もし、ブアメードがその話を知らずに、本当に血を流していたとしたら、いつ死んだのかなぁ?ってね」
「つまり、実際にどれ位の血が流れたら死ぬのかが知りたいんですか?」
「いや、そんなのいつかは死ぬから、それを量ったところでつまらない。
だからさぁ、外科医らしく思った訳。
人間、どれ位、体を無くしても平気なのかなー?って」
「体?」
「臓器とか、足とか腕とか、その辺」
俺は、睡魔に襲われながらも懸命に外科医の話を聞いた。
「人間ってさぁ、例えば肺とか心臓とか、無いと死ぬって思うじゃない?だから、今は君の姿を見せられないんだよね」
ノセボ効果の例もあるからね、と外科医はまるで天気の話でもしているかの様だ。
ゴクリ、とツバを飲み込む。
「物理的には、現代の医学…っていうか、医療機器なら頭だけでいけるかと思ったんだよね。
体がなければ体を維持する為の栄養はいらない。
臓器がなければ、臓器の活動を維持する為の栄養もいらない。
脳に必要なのは栄養と酸素。
最初、肺と心臓は必要かな?って思ったけど、それらも人工的に代用品を用意すれば、いらないよね。
消化器系は、結局脳の維持だけだから、胃とか腸とかそんな大層なものはいらなくて、脳に送り込む血液の中に必要な栄養だけ混ぜればいっか、ってね」
ボックスの中の俺の体は、今どうなっているんだ?
さっき飲み込んだツバは、何処へ行ったんだ?
俺は、この人体実験を終わらせたら、膝の手術を受けて、また短距離走の選手に戻る。
戻…れるんだよな!?
首から下の、感覚はいつからなかった!?
「君は、本当によく頑張ってくれている」
外科医はニコニコと笑って言った。
「初日に下半身を取り除き、1週間かけて臓器を同時進行で人工器機に切り替えていったが、君の体力のお陰で何の問題も起きなかった。
今、1週間経過しているが、特に不具合は起きていない。
残り1週間あるが、この分なら問題ないだろう」
「…ボックスを外して…俺の、体を見せて下さい…」
「何故だい?さっきも言ったが、今は見せる事は出来ないよ」
「いいから見せろよ!!」
俺は半狂乱になりながら外科医に声だけで詰め寄った。
きっと、外科医の言うことは出鱈目だ。
ブアメードとかって奴同様、騙されているに違いない。
ボックスをあければ、きっとそこには俺の体がある。
なければいけない。
外科医は、ハァ、とため息をつきながら言った。
「仕方ないな、鏡越しには見せてあげるけど…契約期間は後1週間あるからね、死なないでくれよ?」
俺は自分の左側を見た。何故なら、左側の壁は何故か全面鏡だったからだ。
今は見せるつもりがなくても、いつかはこうして見せるつもりだったんだろう。
恐怖だった。
何故なら、緊張で高まる筈の胸の鼓動を感じないから。
外科医がボックスに手をかけ、あっさりと持ち上げた。
あ、意外と軽い素材で出来てたんだな、なんて今の俺には関係ない事を思った。
「うっ
うわああああああああああぁあぁーーーーーー
っっっっっっ!!!!!!」
絶叫。
俺は、人生で一番大きな声を張り上げた。
驚愕。
俺は、人生で一番あり得ない光景を見て目を見開いた。
絶望。
俺は、人生で最期に目の前が真っ暗になる経験をした。
それは、膝を故障した時の比ではない。
……俺の、首から下はなかった。
首から繋げられたチューブが幾つも、よく分からない機械に繋げられていたのだ。
***
「あぁ、やっぱりアスリートの強靱な精神でも死んだか」
「先生」
女が、外科医を非難する様な声を掛けた。
「うーん、これで10人目も死んだねぇ。
見てよこれ、10人が10人とも、心臓にいきなり負荷がかかってる。
他の臓器に異常は見られない。
やっぱりブアメードの実験、ノセボ効果の証明っていうよりも、『死という極度のストレスを感じて引き起こされた心臓発作による死』っていう、否定説が正しそうだよね」
外科医は、目の前で事切れた男の『体』を眺めながら言った。
「折角、膝も治してあげたのになぁ」
外科医は手術が好きだった。
契約書に書かれたとおり、膝は初日に完璧に治しておいた。
細工がされていたのは、男の体でなく鏡の方である。
「肺がなきゃ、大声も出せないと思わないのかなぁ」
外科医が施したのは、各臓器に計器を取り付ける事と、全身の感覚機能をなくす為の麻酔コントロールだった。
しかし、後者は非常に難しい。
男は契約書に書いてある文字通り、「ベッドに寝ているだけの簡単な人体実験」をしていたのである。
男は、ブアメードと同じく、思い込みによってその生を閉じた。