病院
カラ……
カラ カラ……
カラ カラ カラ……
なかなか寝付けなかった私は、やけにその音が気になった。
ここは、ガンセンター。病院である。
今、この四人部屋の中には私しかおらず、話し相手もいない。
私は60の頃からガンを患い、手術をしたが四年目に再発、以来市民病院の手を離れて六年ほどここのガンセンターに入退院を繰り返している。
入院患者は全てガン、という分かりやすさもあり、私の様な高齢者にもなってくると、大部屋に入れば仲間意識で話題も盛り上がり、意外と明るく過ごしているものだった。
勿論、若者は話が別ではあるが。
だから個室を選ぶ事は今までなく、今回も大部屋を希望した。
なのに、一人だ。
その理由は何となくではあるが、理解している。
この大部屋は、所謂「でる」部屋なのだ。
いつ聞いたかは覚えていないが、入退院を繰り返すうちに、その時同室だった患者からたまたま聞いた。
この部屋は、普段使われておらず、余りにも収容人数が多くなってしまった時のみ開放し、ベッドが空き次第直ぐに他の大部屋へと移動させるのだ。
昨日までは、私の他にもう一人いた。
そのお陰ですっかり忘れていたが、一人になると、嫌でも思い出す。
それが寝付けなかった理由のひとつだとも、気づいている。
カラ カラ カラ カラ……
看護婦が、台車を押す音だろうか?
こんな夜中にご苦労な事だ、いやしかしそれが仕事だ。
カラ カラ カラ……
音が止んだ。
私のいる、大部屋の前で。
「看護婦さん?」
私は、怖さを紛らわす為にわざと声を掛けた。
が。
…… ……… 返事はない。
しかも、ヤバイ。
恐怖のせいか、物凄くトイレに行きたくなってきた。
夜独特の冷気も、それを後押しするようだ。
カラ カラ カラ……
大部屋の前から、今度は台車が遠ざかっていく音が聞こえてきた。
?
私に用があった訳ではないのか?
まさか本当に幽れ……いや、そんな訳がない。
幸い、トイレはこの大部屋の直ぐ近くだ。
私のいる大部屋の横に、トイレと非常階段
、そして渡り廊下がある。
渡り廊下の先は旧病棟につながっているらしいが、そこは普段施錠されていて、看護婦さん以外出入りをする姿を見たことがない。
私は、恐怖を紛らせる為に、わざとスリッパを大袈裟に鳴らしながらトイレへと向かった。
小用をさっさと済ませ、大部屋へと戻ろうとした時だ。
カラ カラ カラ
………!!!
先ほどの、台車の音が…大部屋の方から、聞こえてきた。
…きっと、夜勤の看護婦さんが循環しているのだ。
そうだ。
私は思い直して、トイレから廊下へと出た。
そこには
荷車を押した
一人の老婆が立っていた。
私の気配に気付いたのか
その老婆は、ゆっくり……
ゆっくりと、顔をあげた。
顔はしわくちゃで
その表情を読み取る事は出来ない。
背丈は子供の様に小さく
落ち窪んだ眼球はギラギラと此方を睨みつけていた。
「ひっ……!!!」
いや、きっと何処かの部屋の患者だ!!
だが、長く入院している私でも、こんな婆さんは見たことがなかった。
婆さんと対面したまま、私の足は、動かない。
どうする……?
どうしたらいいんだ?
その時、老婆は手を伸ばして近づいて来た。
地を這う様な声で
「あんた………見たねぇ…………?」
と、言いながら。
***
「こっちに!!」
動かない私の手を、後ろから誰かが引っ張ってくれた。
金縛りが解けたように、足は後ろへとスムーズに動いた。
振り向くと、一人の看護婦さんが、私の腕を掴んで渡り廊下へと導く。
「早く!急いで下さい!!」
私は足をもつれさせながらも、その短い距離を懸命に走り……
看護婦さんについて、旧病棟へと初めて足を踏み入れた。
***
「ねぇ、看護婦さん」
「何ですか?角田さん」
今は看護師って言うんですよー、と軽く言いながら、今日の担当看護師はにこやかに答えた。
「あたしゃ昨日、幽霊見たかもよ」
私がそう言うと、看護婦さんの笑顔はひゅっと引っ込み、変わりに強張りが顔面を埋めた。
「もう、やめて下さいよー!」
でも話は聞きますよー、と言うので、遠慮なく話してやった。
「ホラ、あの4階の渡り廊下の手前の大部屋あるじゃないか?昨日、夜中の散歩で初めてその辺まで行ったんだけど」
看護婦さんは、顔色を変えて怒った。
お散歩していいのは3階だけですよ!と。
私はそれを聞き流して続けた。
「そこまで行ったらね、やけに寒くてさ。看護婦さん、って声がしたから、邪魔しちゃいけないと思って一旦引き返したんだけど」
その大部屋には、誰の名前のプレートもなかったはずなんだよねぇ。
「それを思い出して、また大部屋の方に行ったんさ。したら、大部屋の先のトイレの前で、ぼーっと男の人が立ってたからさ、なんだ、この人だったのかと思って」
けどあたしゃこの顔見られるの嫌いだろう?その為の個室だし、夜中の散歩だ。
「何処の部屋の奴なのかと思って、そいつ掴まえようとしたら…これまた、さっきまでいなかった筈の看護婦さんの服着た女の人が現れて」
二人して旧病棟へと消えてったよ、鍵かかってんのにさぁ。
私がそう笑って言うと、看護婦さんは黙った。
その看護師は、この老婆が人嫌いで個室にこもり、他の患者と世間話をしないと知っていた。
そして他の看護師が、老婆に大部屋の事を話すとは考え辛い。
ましてや普段は、この老婆が看護師に声を掛ける事も決してないのだ。
う~ん、4階には配属されたくないなぁ…
話を聞いた看護師は、ぼんやりとそう思った。