リセット
読んでいた本から目を離し、ふと腕時計を見ると、時刻は13時10分前だった。
まずい、クライアントとのアポイントの時間に遅れる。
これでは、早目に現地に来て喫茶店でお昼をとり、珈琲で時間を潰していた意味がない。
私は慌ててバッグを掴み、トレイを下げて、喫茶店を後にし、真向かいにあるビルに走った。
片側三車線の大通りを挟んでいる為、ちょっと遠回りになるが、一番近くの信号に向かう。
お昼時の為、この辺りのビジネスビルに勤める者達が一斉に動き、歩道は混みあっていた。
「ちょっとすみません、すみません」
声を掛けながら、上手いこと人の波を縫う。
…が、信号機の影に隠れていたスーツを着た、手提げ鞄と紙袋を持ったビジネスマンには気付かず、見事に体半分をぶつけてしまった。
「すみません!」
「あっっ」
ビジネスマンが、ただぶつかったにしては大袈裟な、驚愕した様な声を出したので、何事かと後ろを振り向いた。
***
私の記憶は、そこで途切れている。
そして今、目の前では、年齢不詳の男がこちらを見て微笑んでいた。
…その前に、ここは何処だ?
「ようこそ、判決の館へ」
男が、タイミングよく私の心の問いに答えた。
判決の館?
私が周りを見渡したところ、そこは館の様に重厚感のある、格式高いホテルのロビーの様だった。
ようこそ、という事は、目の前の男はホテルマンだろうか。
この穏やかな話し方は、フロント係の者の様にも聞こえる。
そしてその男は、穏やかな口調のまま、続けた。
「貴女は、先程お亡くなりになりました」
「ここは転生するか否かを決める判決の館ですが……貴方は、特殊な家系にお生まれです」
私はほとんど言葉の意味を理解しないままだったが、男は構わず続けた。
「貴方の家系は、一つのチャンスを与えられる様ですね。
そしてそのチャンスとは、リセットです。
貴方は、死ぬ5分前に遡って、人生をやり直し出来ます。
……では、行ってらっしゃいませ」
男はそう言って、男の後ろにあった黒い扉を開こうとした。
「ま、待って下さい!」
私は、慌てて男の動作を止める。
「はい、何でございましょう」
止めたはいいが、聞きたい事がありすぎて、何から聞けばいいのかわからない。
それに…頭の何処かで、これはドッキリなんじゃないか、という疑惑がまとわりついて、変な質問は出来ないぞ、という強迫観念があった。
「私は…何故死んだんですか?」
「残念ながら、その問いにはお答え出来ません」
男は初めて困った様な表情を浮かべた。
「そうですか…。じゃあ、ここでしばらく考える時間を頂けますか?」
「それは構いませんよ。24時間以内なら」
良かった。
いきなり死ぬ5分前に遡ったとしても、パニックに陥るだけで、周りの人間に変な目で見られるのがオチだ。
死ぬ理由は、信号機周辺だった事をふまえると、まず交通事故が一番に考えられる。
それなら、ぶつかった相手があんな声を出したのも頷ける。
事故じゃない場合は、可能性は低いが、通り魔に刺されたとか。
他には、地震などの天災とか、脳出血とかの病気。
事故なら、5分後に、あの場にいなければ避けられる。
けれども、病気であるなら、場所はどこであれ、死ぬには変わりない。
ならば、残りの5分は家族に言い残した事を、伝えるのに使うとしよう…
妻には、保険の確認と、預金通帳、葬儀…の話は流石に無理か。
というより、慌てやすく早とちりしやすい妻の事。
まともに私の話をきけるか、わからない。
いやむしろ、怒って電話を切られるか、泣き出して会話どころじゃない可能性の方が高い。
妻には今までのお礼だけ伝えて、後は冷静な娘に話すとしよう。
「もうよろしいのですか?」
私が顔をあげたのを見て、男は気遣う様に、微笑んだ。
***
私は喫茶店にいた。
手には、読みかけの本。目の前には、トレイの上に、食べ終わった後の皿と、冷えきったコーヒーがほぼ空の状態で並んでいる。
思わず腕時計を見ると、13時の13分前だった。
私は、携帯を手にして、妻に電話をした。
…30回コールしたが、出ない。
最期の会話くらい、出て欲しいと思いながら、今度は娘にかけた。
「もしもし、何?パパ」
私は、極力声のトーンを下げて話した。
「ああ、落ち着いて聞いて欲しい。
パパは、もしかすると、5分後に死ぬかもしれないんだ。原因は、パパにもわからないんだけどね」
「…ふぅん、それで?」
「ママには携帯が繋がらなかったから、今までありがとう、パパが死んでも元気にやってくれって伝えて欲しい」
「私には?」
「勿論、感謝しているよ!
私には、勿体無い位の家族だった。パパは幸せだったよ。
ところで、パパの入っている保険の確認と、銀行の通帳や判子の場所を先に伝えておきたくてね…」
私が、事務的な事を夢中でしていると、それまで相槌しか打たなかった娘が言った。
「ねぇ、パパ。
…もう、5分たってる」
私は慌てて、腕時計を見た。
13時少し手前だった。
「…やった!事故だったんだ…!」
私はその場で思わず飛び上がり、結局周りの人間に変な目で見られた。
亡くしたはずの命が、戻ってきた。
興奮は冷めず、正直今日は仕事どころじゃなかった。
家族に直ぐにでも、会いたかった。
「もしもし!?パパは、どうやら生き残れた様だ!
お前は今、何処にいるんだい?」
「今?セントラルビルよ」
「そうか…じゃあ、今からそちらに向かうとするよ!」
ラッキーな事に、セントラルビルはこのビジネス街にある、大きなショッピングモールだった。
しかも今いる喫茶店から、10分程の距離しかない。
私は、クライアントに電話をし、急だが予定をずらして貰った。
普段真面目な分、こうしたキャンセルは初めてだ。
人間、一度死ぬと、大胆に行動出来るらしい。
***
「あれ?ここどこ?」
ショッピング中だったはずの私は、キョロキョロと周りを見渡した。
重厚感のある、ロビー。
人の屋敷なのか、ホテルなのか、イマイチわからない。
「ようこそ、判決の館へ」
声がした方に顔を向けると、なかなかのイケメンがこちらを向いて微笑んでいた。
「あの、私ショッピングモールにいたんですけど…」
不法侵入で捕まりたくないと思って発した言葉だったが、不要だった様だ。
「はい、貴女はそこで亡くなりました」
私は、パパとの会話を思い出していた。
成程、こういう事だったのか。
私が死んだのは、パパとの電話を切った後。
パパがセントラルビルまで来るって言うから、一度時計を見たんだ。
そこで記憶は途切れている。
見た時間は、パパと電話を切ってから大抵5分後だった。
私が思案している様子を、じっとイケメンが眺めていた。
なんとなく、何を言おうとしているのか、検討がついた。
「貴女は、先程お亡くなりになりました。
ここは転生するか否かを決める判決の館ですが……貴女は、特殊な家系にお生まれです。
貴女の家系に許されるチャンスとは、リセットです。
貴女は、死ぬ5分前に遡って、人生をやり直し出来ます。
では、行ってらっしゃいませ」
イケメンはそう言って、後ろにあった黒い扉を開いた。
パパも、これを経験したから私に電話を掛けてきたんだ。
しかもパパは、人生をリセットして、生きる道を見つけた。
なら、私にもそのチャンスは必ずある…今の段階でわかっている事は、セントラルビルには居てはいけない、という事だけだ。
***
「そうか…じゃあ、今からそちらに向かうとするよ!」
私が電話を切ると、直ぐにまた娘から電話が掛かってきた。
「パパ?私も、判決の館に行ってきたわ。5分後に死ぬかもしれない」
「なんだって!?」
「多分ね、天井の崩落事故か何か。大きな音がして上を見上げたら、天井が落ちてくるところまでは覚えてるから」
頭がフル回転した。
「とにかく、パパは直ぐにそっちに向かうから、お前もセントラルビルを直ぐに出て…そうだな、セントラルパークで落ち合おう!」
「わかったわ、パパ」
セントラルビルの近くには、セントラルパークという非常に大きな公園がある。
丁度、私と娘の中間地点だ。
…それにしても、今回の事は偶然なのか?
私が死を回避したから、その分が娘がにまわったのか?
久々の全力疾走に息を切らしながら、考えた。
いや、考ても仕方がない。とにかく、5分後に娘の無事を確認するのが先だ。
セントラルパークに入ると、様々な人達がまばらに寛いでいるのが見えた。
ベンチで新聞を広げる老人、芝生でひなたぼっこをする若者、犬の散歩をする女、サイクリングをするカップル…
息を切らして全力疾走する私を、皆不思議そうに見ている。
私は、視線の先に、娘の姿を捉えた。
娘も、走りながら、私に気付いた様で、手をふりながら、こちらに向かってきた。
腕時計を見ると、まだ2・3分しか経っていない。
とにかく、これでセントラルビルの事故に娘が巻き込まれる事はなくなった訳だ。
ホッとした時、私の横をスケボーに乗った少年が物凄いスピードで通り過ぎ、娘は驚いてそれを反対側に避けた。
避けた娘はその反動で、反対側を歩いていた、スーツを着た、手提げ鞄と紙袋を持ったビジネスマンにぶつかった。
ビジネスマンの手から、鞄と…紙袋が、落ちた。
前に一度、見た風景…
あれは、そう
私が一度、死んだ時の…
私と娘と、その紙袋に入っていた爆弾を持っていた男は、その後の爆発に巻き込まれて、今度こそ、死んだ。
爆破テロ歴史上の事実
セントラルビル爆計画失敗…セントラルパークにて誤爆、死者3名。
爆破テロ消された事実
1回目
セントラルビル爆破計画失敗…ビジネス街にて誤爆、死者13名。
2回目
セントラルビル爆破計画成功、死者158名。