香水
私は、通いなれた通勤路をゆっくりと歩いていた。
今日も、仕事が終わった後の、適度な疲労感に身を包まれながら、夕食のメニューに想いを馳せている。
そしていつも通り、通勤路から、近道ポイントに向かう。
神社の、二人並んで歩くのがやっとな狭い階段を30段あがるという、疲れる近道だ。
街灯が少ないと言われる真っ暗な道から、神社の階段に差し掛かろうとした時、人の気配を感じた。
その人は、階段下にうずくまっている様である。
無視して階段をのぼることも出来たが、先日女性がこの階段から落ちたという話も聞いていたので、怪我しているといけないと思い、一応声を掛けた。
「どうかしましたか?」
私が尋ねると、若い女性の声が返ってきた。
「人を待ってるだけです…ありがとうございます、お構い無く」
「そうでしたか、けれどもここは暗くて変質者も出ると聞いているので、早目にご友人と連絡を取って、明るいところに行かれた方がいいですよ」
「それは怖いですね…あの、今私携帯電話を持っていなくて…もし出来たら、携帯電話を貸してくださいませんか?」
「構いませんよ」
私が去った後に、女性に何かあった方が後味が悪い。
私は、携帯電話を手の平に乗せ、彼女はそれを取った。
彼女が近くに居ると、とても良い香水の香りがした。
私の仕事は調香師である。
仕事の一貫で、世の中に出回る全ての香水を嗅いでいるので、この香水も当然嗅いだことがある。
けれども、50を過ぎると、もうそのブランド名までは覚えていなかった。
香水に使われている、原液の香料ならほぼ言えるのに。
「もしもし…」
「だから、私よ…神社の階段下で、ずっと待ってるんだけど…」
彼女は、友人と話している様だが、静かに話している彼女に対して、相手は随分怒鳴り散らしている雰囲気だった。
話の内容まではわからないが、男の声だというのはわかる。
「早く来てよ…」
「なら私がそっちに行こうか?」
話がまとまったのか、彼女は電話を切った。
「どうもありがとうございました、助かりました」
彼女はそう言いながら、私の手に携帯電話を返した。
「神社の階段、急だから気をつけて下さいね」
そして逆に気を遣われたので、笑顔で返した。
「ありがとう、ここは通勤路なのでいつも通っているんです。だから大丈夫ですよ」
彼女と別れを告げ、私は再び夕食のメニューに心を向けた。
***
そして次の日、私は変な男から電話を受けた。
「もしもし?」
「誰だ?てめぇ」
…誰だ?とは、むしろ私の台詞だ。
何故この男は、私に自分から電話を掛けてきて、そんな事を言うのだろう。
「すみませんが、どちら様ですか?」
「昨日、てめぇから電話受けた奴だよ。てめぇのケーバンこっちに残ってんだ、ばっくれんなよ?」
私は心から何の事だ、と思ったが、昨日女性に携帯電話を貸した事に気付いた。
「ああ、昨日神社にいた女性の友人ですか?」
「あぁ?てめぇが用意した女だろうがよぉ!!」
男の話すことは意味不明だ。
「…私が彼女にお会いしたのは、初めてですが」
仕方がないので、私は昨日の事をかいつまんで話した。
けれども、男は信用しなかった。
「てめぇが言ってることは皆嘘だ。てめぇの狙いは何だ?」
私はいい加減相手にしきれなくなり、仕事中なので、と電話を切った。
***
俺は、電話に出たオッサンの狙いがわからなくて、取り乱していた。
オッサンはきっと、俺を揺する気だ。
きっと、あの現場を見たに違いねぇ…。
オッサンは、あの神社が通勤路だと言ってた。
今仕事中って事は、きっと今日も通る。
よし、神社で待ち伏せしてやる。
俺は、即座にバイクに跨がり、神社まで飛ばした。
近くの喫茶店で時間を潰し、夕方。
昨日電話があったのはもう少し遅くだったが、逃したくねぇ。
早目に、神社の階段下でオッサンを待った。
近所のオバハンに変な目で見られながら、それでも我慢して待った。
三人くらい、近道として神社を抜けるオッサンに声を掛けたが、人違いだった様だ。
そして、辺りが真っ暗になった頃。
近所のオバハンが警察に通報をしたらしく、俺は職質されそうになった。
面倒だから、撒いて逃げた。
くそっ、オマワリの来た時間と被ってオッサンが通り過ぎてたらどうしてくれんだよ!
俺が神社に戻ると、一人のオッサンが、ゆっくりと神社の階段をのぼっているのが目に入った。
…あいつだ。
違いねぇ。
***
「オイ!オッサン!!」
急に後ろから、声を掛けられた。
それと同時に、階段を物凄い勢いで駆け上がる音。
私の知り合いではないが、どうやらオッサンとは私の事の様だ。
私は、階段をのぼりきったところで、後ろを振り向き、若い男性と思われる者を待った。
声に聞き覚えがある…ああ、昼間の電話の男か。
「オッサン…あんた…もしかして、目は見えない?」
安物の香水の香りを纏わせた男は、私に追い付くなり、そう言った。
何だ?そんな事を言いに来たのか?
「ああ、そうだよ?君にはこの白いステッキが見えるだろう?」
男から、男がつけている香水とは別の、昨日嗅いだばかりの香水の香りがした。
「ああ、昨日の彼女も一緒かい?彼女の香水の香りは、本当に良いものだよねぇ」
***
「ああ、昨日の彼女も一緒かい?彼女の香水の香りは、本当に良いものだよねぇ」
そう言われて、俺は愕然とした。
俺が突き落として殺した女。
その女からの、有り得ない着信。
翌日我に返って、着信履歴に残っていた番号に電話すると、見知らぬ男。
男は、俺の犯行現場を見てて、脅すためにそんな手の混んだ真似をしたんだと思った。
けど実際は、男に犯行現場を見れたはずもなくて。
じゃあ、あの電話は何のために?
男が言ったことは、皆真実だった?
俺の後ろから、嗅ぎなれた香りがした。
それと、聞き慣れた、声。
「…やっと…来たわね…」