前編
ざわざわと教室の中にざわめきが起こる。なにごとかと視線を上げてその原因と目が合い、本田和佳の頬が目に見えて引きつった。
「和佳!」
教室中に響き渡るほどの声量で名前を呼ばれ、さらには手招きまでされてしまっては、知らないふりなどできるはずがない。ひくりと頬を引きつらせたまま、慌てて和佳が腰を上げた。
「いきなり呼び捨て?」
隣に座っていた友人の豊田琴巴が不機嫌そうにつぶやいた声が耳に届いたが、それは聞こえなかった事にする。
教室の出入り口に立って待つ川崎圭吾のもとに駆け寄ると、普段は絶対に見せる事がないと思われるような、明るい笑顔を向けられた。その表情に弱い事を自覚している和佳は、言葉をなくして見入ってしまう。
「例の件だけど」
その言葉に我に返った和佳は、例の件が何を指すのかに気付き、こくりと頷いた。
「今日でもかまわないかな?」
「え。き、今日?」
さすがにいきなりの事で、心の準備もなにもあったものではない。ただでさえ先ほどから心の振幅が大きくて、心臓がもちそうにないというのに。
「やっぱり迷惑だろう? まどかには俺から言っておくから」
困ったような微苦笑を浮かべる川崎の腕を、和佳が慌てて掴んだ。
「あ、いい、よ。うん。今日、でも」
言ってからしまったと思っても、時既に遅し。覆水盆に返らず、後悔先に立たず。思いがけない所でことわざを復習する羽目になった和佳は、思わず頭を抱えたくなった。
「悪いな。助かる」
そう言って携帯電話を取り出した川崎は、和佳に背を向けて電話をかけ始めた。既にアドレス帳どころかグループワンタッチ登録されているその相手は、十中八九まどかに違いないだろう。
今のうちに逃げ出そうかという思いと、了解したからにはちゃんと行かなければという思いとが交錯し、和佳は軽いパニック状態に陥っていた。そのため、結局逃げ損ねて了承してしまっていた事に、通話を終えた川崎が振り向いた時にようやく気付いたほどの混乱ぶりである。
「じゃあ、後で迎えに来るから」
用はすんだとばかりに立ち去ろうとした川崎は、しかし何かを思い出したように足を止めた。なにか言い忘れた事でもあったのだろうか。そう思いながら不思議そうに川崎を見る和佳に、川崎がふっと口元を緩める。
不意打ちの笑顔に、またしても和佳の鼓動が激しくなった。
「忘れ物」
それまでこっそりと二人の様子を窺っていたクラスメイトから、どよめきとともに驚きの声が上がる。中には、悲鳴に近い物も含まれていてように思うが、定かではない。
周囲が色めき立っている中、当の和佳一人が状況を掴めず、離れていく川崎の顔をぼんやりと見つめていた。
「昨日だけで、もうそんなに仲よくなっちゃったんだ?」
琴巴の意味深な笑顔に、昨夜さんざん電話で問い詰められた記憶がよみがえり、頬の筋肉が引きつる。
「や、別に、仲よくなんて」
「仲がよくなきゃ、ほっぺにチューなんてしないでしょうが、普通は」
先ほど起こったどよめきが、再び教室中に広がった。未だ把握しきれていなかった事実を突き付けられ、和佳の顔が真っ赤に染まる。
「な、な、な」
そう。川崎は去り際に、和佳の頬に軽く唇を押しあてて行ったのだ。その行為の意味するところは当然琴巴の言葉通りほっぺにチューなのだが、それをどう捉えるべきなのかが分からない。
確か昨日の川崎は、責任を取れと言って、さきほどと同じようにほっぺにチューをして来たはずだ。つまりこれは、川崎が実の姉であるまどかとの不倫の噂を立てられた事への、罪滅ぼしという事なのだろうか。それとも、人前でこうする事で和佳との関係を仄めかし、噂を塗り替えようという魂胆なのだろうか。
「そうか、そうなんだ」
後者だと考えれば、すべて合点が行くというものだ。和佳はぽんと手のひらを打ち合わせた。
「さっきまでうんうん唸っていたと思ったら、なんなの、それは」
「え?」
琴巴の呆れた声に、思考に耽っていた和佳が現実に引き戻される。
「あ、あはははは、は」
教室中の視線をその身に受けながら、ひたすら笑ってごまかそうとするしか、和佳にできる事はなかった。
放課後、和佳の教室に川崎が迎えに来た時にもひと騒動あったのだが、これも例の魂胆のためなのだと思えば、案外気にせずにいられた。ほんの僅かに胸の奥に感じた痛みに気付きさえしなければ。
「あ。川崎君、ちょっと待って」
「え?」
琴巴に呼び止められた川崎が、何事かとそちらに視線を向けた。ちょいちょいと手招きされ、やや不機嫌そうに眉間に縦ジワを寄せながらも、鞄に荷物を詰め込んでいる和佳に背を向ける。
何事かを耳元で囁いている琴巴とさらに不機嫌そうに口元を歪める川崎を見ていたくなくて、和佳は手元の作業に没頭した。
「和佳。用意は?」
ようやく帰り支度が整ったのを見計らったように、川崎が声をかけて来る。どうやら琴巴との内緒話は終わったらしい。胸の裡にチリリと焼けつくような痛みを感じ、和佳は一瞬息を止めた。
「あ、うん、ごめんね。お待たせ」
和佳の言葉が終わらないうちに、川崎が彼女の鞄を手に取って歩き出す。
「か、川崎君っ?」
慌てて後を追う和佳の視線の端に、苦笑しながら手を振る琴巴の姿が映り、慌てて手を振り返した。
教室の外に出ると、川崎はすでに階段を下りかけている所で、和佳は慌てて小走りに後を追う。
川崎はある事が理由で、校内でもかなり顔と名が知れ渡っている。その川崎と一緒にいるというだけでも注目を集めるには十分なのに、和佳が必死に追いかけているのだ。途中すれ違った生徒達からの好奇の視線を受けながら、自意識過剰なのだと自分に言い聞かせ、和佳はできるだけ意識しないようにした。
身長差がある分、当然ながら足の長さにも差がある。ようやく川崎に追い付いたのは、昇降口の手前だった。
「か、川崎君、足、速いー」
「ああ、悪い」
息が上がっている和佳に対して、川崎はまったく息も乱さず、しれっとした顔で悪びれた様子もない。
「鞄、ありがとう。自分で、持つから」
「ん。いや、俺が持つ」
「え。で、でも」
「途中で逃げられちゃ困るから、これは人質ならぬ物質」
もう既に機嫌は直っているのか、にやりと笑顔を見せる。突然そんな顔を見せられてしまい、和佳の心臓がどきどきとうるさく跳ねた。
「逃げたり、しないよ?」
「どうだか」
「あ、疑ってる? 信じてない?」
「まどかとの約束を守らなかったくせに、信じられると思うか?」
その事を持ち出され、和佳は言葉を飲み込んだ。
川崎の姉のまどかは、和佳の兄の俊樹の妻でもある。結婚直後から俊樹が海外に単身赴任中のため、寂しさを紛らわす相手として和佳が会いに行く事を約束していた。だがしかし実際にはこの三カ月、その約束が果たされた事は一度もなかったのだ。
「う。そ、それは」
両親の離婚で離れて育った川崎とまどかは、母の死を機に再会を果たし、父の希望もあって、まどかが川崎家のすぐそばに住むようになった。もともと寂しがり屋のまどかを、川崎もその父もとても大切に扱っている。そのまどかを海外に連れ出す事をせずに、兄はあえて単身赴任を選んだのだ。和佳の両親もまどかへの助力を約束しており、その事は和佳自身もよく知っていた。
川崎親子からも兄からもこよなく愛されているまどかは、無邪気なほどに素直で純粋な人だ。母一人娘一人で育ったとは思えないほどに。ふんわりと陽だまりのように温かな笑顔は、和佳をして放っておく事などできないと思わせるものだった。
誰からも愛されるまどか。そんな彼女の事を、和佳ももちろん好きにならずにはいられなかった。ただ一つの事を除いては。
けれど和佳は同時に知っていたのだ。そのただ一つの事が、まどかとの約束を反故にさせた理由に他ならない事を。だからこそ、まどかに対しても兄に対しても、川崎に対してまでもひどく後ろめたい思いがある。
ぐだぐだとそんな事を考えている間にも、川崎はさっさと靴を履き替えて昇降口から出て行ってしまう。当然ながらその手には、和佳の鞄が物質として握られている。
「ま、待ってよ、川崎君―」
ともすれば情けなさで涙が出そうになるのをこらえながら、和佳は川崎を追って再び走り出した。
ようやく学校が視界から消えた頃、和佳はふと目に止まったケーキショップに足を止めた。並んで歩いていた川崎が、それに気付いて立ち止まる。
「なにか持って行きたいんだけど、まどかさん、何が好きかな」
フランチャイズで全国展開しているそのケーキショップで売られているケーキの味は、ひと言でいえば平凡だ。それなりに十人好きするような無難味に仕上げてはいるが、特別美味いというわけでもない。
ここから徒歩十分ほどの場所に、以前テレビで紹介された店がある。値段は目の前のケーキショップの五割増しほどもするが、味は格段の差がある。和佳も父や兄にねだって何度か買ってもらった事があるのだが、その時の感動は今でも忘れない。
「んー。ケーキよりも和菓子だな。羊羹とか金鍔とか」
「よ、羊羹?」
あのふんわりとしたまどかのイメージとは少し違う気がするが、それならば駅前の老舗和菓子店がいいかもしれないなと和佳が考え込んでいると、
「俺、ケーキは苦手だけど、和菓子なら大丈夫だし」
としれっとして川崎が言った。
「へ? や、川崎君じゃなくて、まどかさんの好みは?」
「どうせむこうに着けば茶うけに出されるだろうし、それなら俺も食える物の方が無難じゃないか。まどかは、とりあえず甘い物なら何でもOKだからさ」
まどかへの手土産なのに、川崎の好みで選んでしまっていいものだろうか。和佳は瞬時悩んだが、川崎の言葉にも一理ある。和佳自身はケーキに目がないが、つぶ餡以外なら和菓子もかなり好きなのだ。
三人の好みを考え併せると、確かに羊羹か金鍔あたりの方が無難だと思える。どうせなら、いちご大福にしようかなどと思いながら、和佳の足は自然に駅前に向かっていた。