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稲生鷹高 - ウィキパディア

ウィキパディア-フリー百科事典

ページ/ノート

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稲生鷹高

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稲生鷹高(いのう たかだか 1968年9月11日 - 2003年6月9日)は現在、鎖国中の日本の九州に位置する豊後国の直入郡3万石を治めていた直入藩( なおいりはん )の藩主。譜代大名である。僅か3万石の経済的にも軍事的にも弱小藩であった直入藩の改革に努め九州の役では大村藩による侵攻作戦の阻止に成功し幕府軍の勝利に大きく貢献した。内戦の終結後、稲生鷹高はその功績を時の将軍、徳川明國( とくがわ あきぐに )に高く評価され外様大名から譜代大名となった。日本の大名の中でも革新派の大名として主に軍事面で大きな影響力を示し日本の近代化や直入藩の発展に大きく貢献した。


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目次


1.生涯

 1.1出生と家督の相続

 1.2藩の近代化政策

 1.3九州の役での活躍

 1.4外様大名から譜代大名へ

 1.5藩の復興と日本の軍事戦術改革

 1.6将軍暗殺未遂事件

2.人物

 2.1人物像

 2.2逸話

 2.3革新派としての稲生鷹高

3.政策

 3.1藩の構造改革

 3.2工業や農業の促進及び改革

 3.3藩の軍事改革

  3.3.1稲生城

4.評価

5.出典


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生誕


・出生と家督の相続

稲生鷹高は1968年9月11日に稲生家の6男として生まれた。鷹高は一番下の末子であった為、当初は家督の相続はほぼ無い物として考えられていた。その為、鷹高は他の兄達とは違い、比較的自由奔放に過ごしていたという。しかし鷹高が6歳の頃、稲生城で稲生家による家内の会議が行われていた中、落雷による大規模な火災がおき、これに巻き込まれて城下町で家来と共に御忍びで遊んでいた鷹高以外の稲生家の面々が全員死亡するという凄惨な事故が起きた。鷹高は急遽、稲生家の家督を相続する事が決まった。鷹高は僅か6歳にもかかわらず家督を相続する事になった為、鷹高が政治を学ぶまでの間、藩の内政は直入藩の藩士達が協力して行った。鷹高が藩の内政に本格的に登場するようになったのは1980年、鷹高が17歳になった時である。また、鷹高の教育には藩士以外にも、日本の国籍を取得しオランダから直入藩に移住して寺子屋で教師をしていたユトレヒト大学の法律・経済・政治学の教授アーべ・モーレンカンプも関わった。


・藩の近代化政策

鷹高は藩の内政に大きく関わるようになると藩の改革を多く実行していった。最も有名なのは旧来より続く藩の組織構造の全面改革で、日本における諸藩との組織構造を全く違う物へと変えた。さらに鷹高は藩の力を強化するには工業の力が最も重要であるとして藩の工業力の強化を促進。また藩の軍事改革も行った。鷹高のこのような大胆で大規模な近代化政策に対して反発する者も居たが鷹高はそうした者達と直接会い説得した。鷹高は城下町や領内の村などにも全て直接出向き指導した。こうした行為はしばしば藩士の中から問題視する声も出たが結果的にこうした鷹高の身分を問わず多くの人々と交流し近代化を進めた事は領民からは多大な支持を獲得した。


・九州の役での活躍

1993年6月19日、九州の肥前国を統治していた大村藩が開国と倒幕を掲げて九州の各藩へと軍事侵攻を開始する内戦、九州の役の勃発した。大村藩は日本を開国させたいアメリカからの支援を秘密裏に受けておりアメリカから提供された兵器によって隣接する藩を次々と打ち倒していった。こうした中、直入藩では大村藩の止まらない進撃に大村藩の味方をするか幕府に付くかの議論が巻き起こったが鷹高は開国と幕府を倒す事には断固反対の姿勢を示した。これによって直入藩は幕府方に付く事が決定し大村藩の侵攻に備える事になった。


直入藩と大村藩との戦力差は圧倒的であった。大村藩は九州でも上位を争う事ができる強力な経済力と軍事力を誇っておりさらにアメリカから提供された兵器によって武装していた。しかも、大村藩と交戦した藩からの情報によって大村藩が長射程の榴弾砲を有している事も分かった。一方で直入藩は近代化政策によって鷹高が藩主となる前よりも発展したとはいえ、九州の中でも下から数えたほうが早いほどの弱小の藩であった。直入藩の兵力は凡そ800だったと言われており、武装は自藩開発のボルトアクション式のライフル銃430丁、火縄銃500丁、機関銃5丁、2連装対空重機関銃1基、山砲3基、60年近く前に作られた和製大砲6基、ケッテンクラート1両、トラック3両、軽トラック1両、その他、馬が十数騎という状況だった。


こうした状況の中、鷹高は2日間、城の周囲を歩き回り当時の日本の軍事戦略では考えられない戦術を立案し実行した。それは軍を半分に割り半分を稲生城や城下町に配置し残りの半分を城や城下町と川を挟んで南西に位置する山に配置するという物だった。鷹高は城や城下町に配備する部隊を軍集団Bと呼称し城から見て川を挟んで南西に位置する山の部隊を軍集団Aと呼称した。軍集団Bには火縄銃、機関銃2丁、和製大砲3基が配備され、軍集団Aにはその他の武装が配備された。この布陣は城を最初から放棄するものであり当時の日本の軍事戦略から見れば考えられない行為であった。しかも軍集団Aに配備された全ての砲と2連装対空重機関銃は城の方向を向いていた。鷹高の予想では大村藩の軍勢は直入藩が急流である川にかかる橋を前もって落としている事を予想し前もって部隊を二つに分け城を落とす主力部隊を稲生城のある川の反対側へと渡らせ残りを反対側に配置して進軍してくるはずと考えていた。この鷹高の予想は後に的中する。さらに、鷹高は通常の戦術では大村藩の軍勢を足止めする事はできないと考えていた。その為、鷹高は幕府軍による援軍の到着の時間を稼ぐ為に軍集団Bを囮として配置し、大村藩にあたかも直入藩の本隊が城に配置されているかの様に思わせ城へと突入させる様に仕向けさせた。軍集団Bの藩士達にはある程度の時間稼ぎが完了したら城にある地下の秘密通路を通って城から脱出する様に伝えていた。そして稲生城が敵に制圧された所で山中に隠しておいた砲と対空重機関銃で集中攻撃を行い敵に打撃を与える。これが鷹高の立案した作戦だった。


この作戦は1993年7月1日、大村藩の軍勢が直入藩の領内に侵攻を始めた事で実行された。大村藩は鷹高の予想通り軍勢を城のある東側と川を挟んで西側に進軍させた。これに対して軍集団Bは大村藩と交戦を開始。軍集団Aは沈黙を貫いた。大村藩は榴弾砲を直入藩の有する砲の最大射程よりも遠くから発射し軍集団Bを攻撃、さらにアメリカ製のM16自動小銃で武装した部隊も侵攻を開始した。軍集団Bは城内に立て篭もるなど奮戦したものの榴弾砲による攻撃や歩兵の装備の差から城の本丸も倒壊し半日も経たない間にほぼ壊滅した。鷹高の作戦通りに退却に成功した藩士の数は僅か21人だった。しかし、状況は鷹高の予想通りに進み城を攻撃していた大村藩の部隊は稲生城へと入り占領した。鷹高率いる軍集団Aはそれを確認すると時間を置いてから、城へと向けて一斉砲撃を開始した。この突然の思わぬ反撃に対して直入藩をただの弱小藩だと侮っていた大村藩の軍勢は大混乱し城下町の部隊は後退するという事態になった。しかし、大村藩は態勢を整えるとすぐさま反撃に移り軍集団Aが潜む山へと向けて榴弾砲による攻撃や歩兵部隊による攻撃を行った。その後、鷹高の予想通り幕府防空軍の零式戦闘機による支援が始まったが、ここで鷹高の大きな誤算が起きる。それは大村藩の部隊が携行式の対空ミサイルを有していた事である。さらに大村藩の有する零式戦闘機の攻撃も始まり、幕府防空軍の支援部隊は撃退された。さらに、幕府陸軍の増援が遅れているという事も分かり鷹高は後退を決定した。この時点で、直入藩の兵力は138人にまで減少しており、大型火器も2連装対空機関銃以外を全て失い弾薬にも限界が生じていた。しかし、アメリカの支援を受けた大村藩の軍勢を2日半もの間、旧式の装備で耐え陣地を守りきった事は幕府陸軍や九州の諸藩に大きな衝撃を与えた。また、この時、軍集団Aはケッテンクラート1両、トラック3両、軽トラック1両、馬十数騎を安全な場所へと隠していた為、迅速な後退が出来た。


その後、鷹高率いる軍集団Aは直入藩の領境において陣をはり、態勢を整えた大村藩の軍勢が通ると予想される道などに砲弾や火薬、爆薬などを使用したトラップを設置し大村藩の侵攻を妨害した。そして7月5日、幕府陸軍がようやく到着した事によって直入藩の軍集団Aは幕府陸軍の指揮下に入り軍集団Aが対空重機関銃を有していた事から第11重機関銃軍団として再編成され鷹高はその軍団の指揮をとった(※日本において軍団とは幕府軍に協力する各藩の軍の事を指す)。その後、第11重機関銃軍団は幕府軍と共に行動を共にし幾つかの大規模な反撃作戦に参加した。そして1994年6月15日、大村藩の敗北によって九州の役は幕府方の勝利に終わった。この内戦中、鷹高は幾つかの戦場において、大村藩を足止めした経験をかわれ第8歩兵軍団、第12重機関銃軍団、第13重機関銃軍団等の軍団の指揮を委ねられ戦闘を指揮した。


・外様大名から譜代大名へ

九州の役の終戦後、鷹高は1994年10月21日に時の将軍、徳川明國に江戸へと来るように命じられた。鷹高は幕府防空軍の輸送機にて江戸へと向かいその日の内に明國と面会した。この時、徳川明國は鷹高がやってくると笑顔で迎えたという。明國は鷹高が九州の役で行った様々な防衛戦術に大いに興味があった。そして面会中、明國は鷹高の話を真剣に聞いていたという。そして面会が終わると明國は鷹高に対して「良い話を聞いた。そこでもう一度、明日の昼にもう一度、江戸城に来てくれ。詳しい時間は使者から伝えよう」と言った。翌日、鷹高が江戸城に行くと予想外な事に明國と徳川の家臣達が集まる部屋に通された。非常に驚いた様子の鷹高に対して、明國は幕府による藩の復興の全面的な支援と大名の位を外様大名から譜代大名へと上げる事を言い渡した。この言い渡しに対して鷹高は驚きつつも最大限の感謝の言葉を明國に対して言ったという。


・藩の復興と日本の軍事戦術改革

幕府からの藩の復興支援という確約を得た鷹高は藩の復興政策を進めた。戦乱によって破壊された城下町の再建や百姓の部落の再建を鷹高は最優先で進めるように指示し自分の城は後回しで良いとしていた。また、直入藩は戦乱によって藩士の数が129人にまで減ってしまっていた。幕府からも応援として武士が補充されたがそれでも間に合わない為、鷹高は領民に対して呼びかけを行い適性試験を突破した者を武士として昇格させ藩士を補充する事になった。


また、鷹高は将軍からの直接の命令により九州の役での経験を元に日本各地の親徳川派である藩に出向き近代化された軍に対する抵抗法となる戦術を教えるという命令を受けた。鷹高は3年間に渡って日本全国を周り日本の諸藩に近代化された軍に対抗する為の戦術を伝授した。また、鷹高は2000年に「直入守護軍鑑」という戦術理論等が書かれた軍学書も発表しており、この直入守護軍鑑は直入藩の様な弱小藩のみならず多くの藩、幕府にも影響を与え現代の戦術理論への発展へと繋がっている。


・将軍暗殺未遂事件

2003年6月9日、江戸城にて鷹高は将軍、徳川明國に招待されパーティーに参加していた。しかし、その式典会場にて開国派による刺客だと思われる暗殺者が突然、ピストルを出して将軍に向けて発砲した。この時、将軍の近くに居た鷹高は誰よりも早く暗殺者の存在に気がつき発砲と同時に将軍を庇い6発の銃弾を受けた。将軍に怪我は無く、暗殺者はすぐに近くに居た水戸家の家臣にピストルを持っていた腕を切り落とされ身柄を確保された。しかし、鷹高は病院に搬送されたものの翌日、息を引取った。35歳の若さであった。鷹高には妻がおらず従って子供も居なかった。その為、この事件によって稲生家は事実上断絶した。この鷹高の突然の死の報告に直入藩は悲しみに包まれたという。その後、直入藩は跡取りの問題が発生する事になるが徳川家において鷹高と同じ革新派に属していた徳川慶美とくがわ よしみによって5男の徳川光守助とくがわ こうのすけ3歳が養子として直入藩に送られた。これによって血統は完全に途絶えてしまったものの稲生家は存続する事になった。


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人物


・人物像

稲生鷹高は幼少期を通して、とても自由奔放な性格をしていた人物であったとされる。また、誰に対しても優しく接する優しい人柄であったという。また、海外の物に大変興味を持っており藩の財政を上手く調整しながら、藩に新しい技術を導入した。こうした姿勢は領民からも大変支持された。


・逸話


 ・鷹高は革新派の大名の中でも、かなり有名な存在だった。藩士の装備の変更などを行ったが、自身も藩士と同じように官帽を着用したが、藩士達の集まりの際に官帽を脱いだ際に丁髷がずれてしまい藩士の指摘によって初めて気がつくという事があった。

 ・鷹高は15歳の頃よりコリン性蕁麻疹を発症しており、体が熱を持つと体に蕁麻疹ができ針で体を刺されているような感覚に陥る事から出かける際には必ず業務用の保冷剤とオランダ製のサーキュレーターを持ち歩いていたという。

 ・鷹高は第二次世界大戦中に連合軍から砂漠の狐と呼ばれ恐れられたドイツ国防軍の将軍、エルヴィン・ロンメル将軍を大変尊敬し賞賛していたという。鷹高は16歳の時にエルヴィン・ロンメルの存在を知りロンメルが執筆した著書「歩兵は攻撃する」を愛読した。さらにその他のドイツ軍将校に関する書籍を多く読んだという。

 ・鷹高は宇宙、物理学、量子力学、都市伝説、UFО、心霊現象などにも大変興味を持っていた。海外で出版されたハップル宇宙望遠鏡の写真集などを取り寄せ読んだり宇宙のドキュメンタリーDVD等を取り寄せて鑑賞していた。都市伝説、UFО、心霊現象等のオカルト書籍、DVDも海外より入手していた。鷹高は藩士達を時間がある時などに呼び夏には百物語を開催したり宇宙のドキュメンタリーを藩士達と見ていたという。

 ・また、鷹高は身分を問わず領民の為に二ヶ月に一回か二回、映写機を用意し野外で海外の動物に関するドキュメンタリー番組や夏には海外のホラー映画を見る催しなどを領地の各地で開いていた。この話は他の藩でも話題になり一時期は鷹高を映画大名と揶揄する言葉もあった。しかし、鷹高のこうした行為は領民に大変支持され喜ばれた。この催し目当てに他の藩から行商人がやってくる程だった。この催しは鷹高の死後も受け継がれ続けられている。

 ・鷹高は九州の役の際に直入藩に大村藩の軍勢が迫ってくる際に行われた会議である藩士が大村藩側に付いた方が良いのではないかと言った。それに対して鷹高は冷静を装いつつも明らかに普段とは厳しい口調で開国派に付く事だけは断固として反対したという。

 ・鷹高は乗馬が苦手であったと伝えられている。鷹高は幼少期から何度も馬に乗るための練習を受けていたが落ちてしまったりコントロールが出来ないという事が良くあり馬には基本的に乗らなかった。

 ・鷹高は自身の藩の軍服について異常なこだわりを持っていたという。鷹高が藩に軍服を導入した当初に原則として仕事中も軍服を着る様にという指示を出すと鷹高に近い藩士が数人、普段の仕事中も軍服というのは、如何なものかと、鷹高に問うた際に鷹高は軍服のかっこよさについて力説したという。しかし、この力説の後、藩士達の反対意見に鷹高はまともな反論ができず、泣きそうになった為、藩士達はそれ以上、鷹高をせめる事ができず、仕方なく軍服の普段の着用を認めたという話が伝えられている。

 ・鷹高は九州の役の際、移動などにはケッテンクラートをよく使用していた。鷹高はケッテンクラートの荷台に乗り込み移動しながらの戦況確認などを行っていた。

 ・鷹高は自身の指揮する軍集団Aが陣を張っていた山では地下壕から作戦指揮を取っていたが山を離れた後は、ほぼ全ての戦場において最前線で指揮をしていた。第11重機関銃軍団の指揮を行っていた際には、重機関銃の横に立ち、双眼鏡を首から下げて藩士達の陣頭指揮を取っている姿が写真を撮られ有名となっている。この様子から庶民からは畏怖をこめて機関銃大名とも呼ばれた。

 ・鷹高は幕府軍による大村藩の領地への直接侵攻作戦の際に大村藩の領地、旧佐賀藩佐賀郡への侵攻に先立ち自身の軍団に加えて第8歩兵軍団、第12重機関銃軍団の指揮を任された。この時、鷹高は直入藩での攻防戦とは違い幕府軍からの弾薬支援や、敵から奪った装備などを使っていた為、当初は作戦を非常に有利に進めたが、敵からの大反撃を受けた。これに対して、鷹高は一時後退し防衛線の構築を命じた。この防衛戦の際、激しい銃撃戦となる一幕があったが鷹高はその時に自ら対空重機関銃の近くで重機関銃による水平射撃の指揮と歩兵部隊の指揮を取った。この戦闘に勝利した日の夜、軍団の藩士が紅茶を飲んで休んでいる鷹高に対して危険だから最前線での戦闘指揮は控えて欲しいとお願いした。すると、鷹高は「君はロンメル将軍を知っているかね?私はロンメル将軍ほど頭も良くないし英雄的な人間でもない。でも、私はせめて心だけはロンメル将軍の様でありたいと思っている(日本語標準語訳)」と答えた。

 ・鷹高が徳川明國に呼ばれ食事を取りながら会談をした際に明國は鷹高の戦術の話に非常に興味を示し当初は30分の予定であった会談だったが3時間近くにわたって会談が延長された。

 ・鷹高は将軍暗殺未遂事件の際に将軍を暗殺者からの銃弾から身を呈して守った際に将軍に対して最期の言葉を言ったとされるが、その時の言葉は「上様…ご無事ですか?」と将軍の身をあんじた言葉であったという。


・革新派としての稲生鷹高

日本の幕藩体制を行っている各大名は大きく分けて3つの分類ができるとされる。海外に毒されず日本の伝統文化を守り国の鎖国という現状を維持する事を掲げた完全鎖国派。日本を開国させるべきだとする開国派。そして、鎖国という状況は保ちつつも海外の優れた技術などを導入し国を近代化させるべきだとする革新派である。鷹高はこの内、革新派に属していた。鷹高の頭には幕藩体制と鎖国の維持というものが第一にあったという。そして鎖国という体制を今後も維持するには日本は近代化されなければならないと考えていた。その為、鷹高は自身の藩において多くの改革を行った。しかし、その改革の大胆さから鷹高はしばしば同じ革新派の大名達からも変わり者と呼ばれ時には偽西洋人大名と揶揄された事もあった。だが、当の本人は余り気にしていなかった様である。


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政策


 ・藩の構造改革

鷹高は20歳の時、藩の組織構造を大胆にも一度、実質解体し、新たに組織を作り出すというそれまでの日本の藩において革新派の藩でもやらなかった大胆な改革を行った。鷹高がこの改革の時、参考にしたのはオランダ軍、ポルトガル軍、ドイツ国防軍の組織構造だった。さらに鷹高はこれらの組織構造を藩士達の反発を受けないような形で改変を加えた。この藩の組織構造の改革によって直入藩は軍事力や経済力は弱小のレベルであったとしても組織構造上は幕府軍と並ぶ近代化された組織となった。現状、直入藩のようにここまでの組織構造改革を行った藩は存在しない。


 ・工業や農業の促進及び改革

鷹高は自藩の近代化政策を幾つも行っている。オランダから農業の専門家を呼び田畑の改良を行わさせ、さらに工業においては鷹高が藩主となる前は前時代的な設備しか有していなかった町工場の設備を少しずつ最新の物へと取り替える事などを行った。鷹高が工業に力を入れた理由は軍事的な意味合いが強く刀、槍、火縄銃や前時代的な大砲しか作る能力しかなかった町工場を近代化させることで藩の軍事力を高める狙いがあった。また、1990年にはこれまで藩都の藩の施設でのみ供給され使用されていた電力の拡大政策を測り従来の石炭による小規模火力発電所に加えて新たにオランダよりマイクロ風力発電器を十機導入し藩都に直入藩初の街灯を設置した。さらに公共放送機関がなかった直入藩に初の公共放送局である藩営の直入通信所を開設し街灯と共に導入したスピーカーを利用して毎週水曜日に藩の方針や藩で起きたニュースを伝えさせた。ラジオやテレビなどが普及していない日本の地方においてこのスピーカーを利用した方法は効果的で、こうしたスピーカーを利用した公共放送機関の設置を行った藩は日本全国において幾つかあり、当時、直入藩は10番目の藩となった。教育改革では寺子屋において武士の子のオランダ語教育を必修科目とし一般の領民に対しては必修科目に科学の授業を設け生活に役立つ科学的知識の教育が行われ極一部の寺子屋では選択科目に天文学の授業を設けた。天文学の授業を設けた理由としては鷹高の個人的な願いとして何時か自分の藩からも何か大発見をするような天文学者が生まれる事を期待していたからだとされる。その為、天文においては直入天文学所という研究機関を設置しただでさえ財政的にも厳しい藩の予算から僅かではあったが予算が組まれ直入天文学所では身分に関係なく適性試験に合格した優秀な者を研究者として扱わせた。


 ・藩の軍事改革

鷹高が藩の政治に本格的に関わるようになった時、鷹高は自分の藩の軍事力の大幅な強化政策を少しずつ実行した。鷹高は藩主となる前の直入藩の装備といえば火縄銃や60年近く前に作られた前時代的な大砲だけであり近代戦争への対応は明らかにできない物であった。まず鷹高は領内の町工場の設備を他藩との取引をし得た近代工業設備を普及させた。そして、火縄銃の生産を中止させ、ボルトアクション式のライフル銃の生産を開始。そして大砲に関しても六浦藩との取引で六浦藩において退役して廃棄の予定であった山砲(オート・メラーラMod56 105mm榴弾砲の劣化コピー版)3基と砲弾を入手した。また、機関銃や対空重機関銃などの装備も入手していった。


鷹高は装備面の改革だけでなく藩士達や自らの軍服についても改革を行っている。改革前、直入藩では軍服を導入しておらず基本は着物が中心だった。通常、日本では軍服を導入している藩の場合、幕府軍が基準となった軍服などを導入している事が多い。しかし鷹高は、そうではなく日本では初めて軍服に3ボタン方式のスーツタイプの軍服を導入した。色はアイスランド・ブルーで統一された。さらに鷹高は自分の位に近い上位階級者に対して自身も含めて官帽も導入した。この官帽のデザインはドイツや旧東ドイツやロシアの官帽等が参考にされた。この官帽の導入も正式な導入としては日本では初の事であり従来では侍がしている丁髷という日本独特の髪型が崩れないように幕府軍などではケピ帽などを採用していたが、鷹高は官帽を導入した。階級が低い者には第二次大戦中のドイツの降下猟兵が使用していたヘルメットが元のデザインになったと思われるアイスランド・ブルー色のヘルメットが支給された。さらに、野外での活動や戦闘用時に制服の上から着用する用にスーツのネクタイが見えるタイプの軍用コートも採用された(これらの軍服には全て腰の部分に刀を下げる事ができるベルトが付いていた)。このように、鷹高はそれ以前の時代遅れの直入藩の装備を一新し近代的な物へと変更していった。また、さらに他藩から異彩を放った事として鷹高はこれらの制服を仕事中は原則着用するようにと藩士達に命じた事である。これは軍服を導入している他の藩では軍事的な式典や訓練や有事の際でしか軍服を着用せず普段は着物で過ごしていたのに対して直入藩の軍服の随時着用は衝撃的だった(※幕府軍に関しては一部例外があるものの一般兵は基本、随時制服となっている)。こうして、稲生鷹高は革新派の中でも突出していく様になった。現在ではスーツタイプの軍服や官帽は革新派の象徴となっている。


  ・稲生城

鷹高は九州の役の数年前、自身の城である稲生城の地下に空爆にも耐えることができるようにする為とし城の地下に作戦指揮所の建設や脱出用の地下通路の建設を行わせた事がある。この地下設備が九州の役で軍集団Bの撤退の際に活躍することになり、さらには内戦終結後、大村藩の侵攻の際に完全に焼失してしまった稲生城の本丸や屋敷の代わりに、一時的に鷹高の居住スペースとして使われた。また、九州の役で軍集団Aが陣を張った山には九州の役の前から周囲の山と共に秘密裏に開発が行われており防空壕などが建設されていた。


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評価


稲生鷹高の日本国内での評価は非常に高いとされる。日本の陸上戦分野における軍事戦術や軍事戦略の近代化を促進させ、さらに旧式の装備による近代兵器に対する有効な対処戦術も考案した。しかも、最期には開国派による将軍の暗殺を身を呈して守った事も高い評価の由縁である。直入藩では藩士や領民を問わず藩の英雄的な存在として扱われ鷹高を祭る寺も建てられた。この寺が完成した際の式典には九州の諸藩の殆どの大名が参列し本州からも多くの大名が式典に参加した。しかし、一方で極一部の完全鎖国派の人間からは外国に毒され自藩の文化を破壊した人物とも称されている。


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出典


・『1994年日本・オランダ共同報告書』国連、1994年、

・『鎖国-閉ざされた世界-』イギリス出版、2010年、

・『九州の役の真実』日本出版オランダ語訳オランダ出版、2005年、

・『謎に満ちる国』オランダ出版、2017年、

・『SYOUGUN-稲生鷹高』アメリカ出版、2017年、

・『黄金の国の真実』ポルトガル出版、2007年、


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― 新着の感想 ―
[一言] 稲生鷹高はやっぱり転生者だったりしますかな歴史好き映画好きの人ですし。この人は日本を生き残らせるために動いていたとも言えますね。でも趣味人とも言えそうな行動が目立ちますな。ドイツ軍大好きな人…
感想一覧
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