芸術と後援
「それで、今はそのアパートに?」
「ああ。悔しいけど、やっぱり環境は良いんだよなあ。朝も夜も好きなだけ絵が描けて、しかも金には困らない」
契約から一週間が経った頃、ハイドとエミリアは路地の奥にあるレストランで夕食となる料理を待っていた。
相変わらず店内はガヤガヤとしていて活気がある。元気なウェイトレスの声がどこからか聞こえた。
「ホントにエミリアなら養えるかも。ど?」
ワインの入ったグラスを口元に運びながら、ハイドが首を傾げる。
しかし、エミリアはクスクスと笑って、首を横に振った。
「ご提案は嬉しいのですが、残念ながら、私も既に買い手が決まっているんです」
「へ? 誰?」
「オ・レ」
ハイドが目を瞬かせると、そんな声と共に誰かがエミリアの肩に手を置いた。
その手の主を見て、ハイドはフッと苦笑する。
「やっぱりお前か。トロイ」
そう言うと、トロイはにっこり笑ってから、エミリアの隣の席に滑るように座った。
「トーゼンでしょ。狙った獲物は逃がさないヨ」
まずは引き寄せとかないとね、と、トロイはエミリアの頭を撫でる。
「でも、買い手だなんて酷いな。ヴェルデ団長みたいな、パトロンだよ。俺はエミリアの歌声が好きなんだ」
「表向きは、ですね」
「これは手厳しいなあ」
片手で顔を覆って肩を竦め、わざとらしくトロイが嘆く。
ハイドはまた苦笑。
「パトロン様が2人か……。やっぱり王国直属の騎士団様は違うねえ」
「ヴェルデ団長はどうか知らないけど、俺はそうでもないよ」
「新設部隊の隊長が何言ってんだヨ。特別待遇も良いところじゃねえか」
「いやいやいや。五年先輩の団員より給料が高いとか、そんなことは……」
「うっわ腹立つ! お前そのうち殺されるぞ!」
腹を抱えてハイドがゲラゲラ笑うと、トロイもエミリアも笑った。
と、その時、ぽこっとトロイとハイドの頭に軽い衝撃が走る。
「こんな場所で生臭い話ベラベラしてんじゃねヨ」
「あいたっ。ヴェルデ団長、こんばんは」
「何でこっちまで叩かれなきゃなんねえんだヨ」
「話を振ったのはお前じゃねえか」
そう言って、椅子に上着を引っ掛けたヴェルデがハイドの隣に腰を下ろす。
ちょうどその時、ウェイターがハイドとエミリアの料理、トロイとヴェルデの水、それからメニューを運んで来た。
「エミリアが頼んだのはパンシチュー? 俺もそれにしようかな」
エミリアが頼んだ料理は、中身をくり抜いた大きなパンにホワイトシチューがたっぷり入ったパンシチューと、パプリカの赤と黄色が鮮やかなサラダだった。
それを見てトロイが言うと、エミリアはメニューを手に取ってパラパラとページをめくりながら、
「中身はホワイトシチューの他に、ビーフとトマトがあるそうですよ」
「本当? じゃあトマトにしようかな。それで、良ければ2人で少しずつ分け合わない?」
「ええ、そうしましょう」
エミリアが頷くとトロイも笑って、今度はサラダと飲み物を選び始める。
一方ヴェルデはパラパラとメニューを見て、メインは貝類がたくさん入ったパスタに決めた。
それから、隣に座るハイドの料理をのぞき込む。
「そのスープ、中身なんだ?」
ハイドの前に置かれたのは、ジャガイモがゴロゴロと入ったグラタンと大きく切った野菜たっぷりのスープ。
「ニンジン、キャベツ、タマネギと、あとカブ。カブは多分この春最後だって」
「へえ。じゃあ俺もそれにするかな」
ヴェルデはトロイに決まったかを尋ねてからウェイターを呼び、料理を注文する。
「もうすぐ夏か。休みになったら実家に帰らないとなあ。顔出せってうるさいんだよネ」
料理を待ちながら、トロイは、はあ、と面倒くさそうに、しかし何処か嬉しそうにそう言った。
それを聞いて、ハイドが首を傾げる。
「あれ、トロイってこの街の人じゃないんだ」
「生まれはこの街だけど、諸々の事情で郊外に引っ越したんだ」
「へー。なんか中流階級辺りの住居区に住んでるんだって、勝手に思ってたけど」
「そんなこと無いよ。今住んでる所だって、騎士団員用の、寮みたいな所だし」
トロイが肩をすくめて言うと、ヴェルデが水を飲みながら話に入ってきた。
「基本的に隊長格からは、街の中なら部屋を借りるなりなんなり出来るんだが……お前はずっと残ってるよな」
「だって、働いてればタダで住める場所があるのに、わざわざ外に部屋を借りる必要って無くないですか? ……はっ。でも、部屋を借りればエミリアを連れ込める……?」
「おーっと、風魔法で吹っ飛ばされたくなかったらそれは止めとけ。パトロン様」
苦笑しながらハイドが言う。
すると、トロイは笑ってエミリアを見た。
「エミリアはそんなことしないよね?」
「…………。ええ。大事なパトロン様ですもの」
「アレ? 何か怖い間があったような……?」
首を傾げてトロイが言うと、他の三人は揃って笑った。
そんな話をしている内に、ヴェルデとトロイが頼んだ料理も届き、食事の時間をは和やかに進んでいく。
「あ、でも、もし本当に部屋を借りるんだったら、隣の部屋どうよ」
しばらくした頃、グラタンに入ったジャガイモにフォークを突き刺しながらハイドが言った。
「隣って、ハイドの?」
「そ」
「ああ。悪くねえかもな」
トロイの問いかけにハイドが頷くと、ヴェルデも頷いてそう言う。
「夢中で絵描いてると飯忘れたりするからさ、隣の部屋に来て、その辺の時間に壁でもドアでも叩いて欲しいんだワ」
「ズボラじゃん。体内時計くらい装備しときなヨ」
「芸術家魂だから。時計はある。……時間は知らせてくれないケド」
「壊れてんじゃん」
イヤだよ、と言いながらトロイが首を横に振る。
ハイドもそこまで頼み込むつもりは無かったので、そりゃ残念、と肩を竦めた。
が。
「ですが、ハイドの隣の部屋ならば、安心して訪ねて行けますね」
そうエミリアが言った瞬間、トロイの動きがピタリと止まる。
ハイドもヴェルデもエミリアも、黙ってトロイを見る。
それからたっぷりの間があった後、トロイはハイドに顔を向けてにこりと笑った。
「見るだけ見てみようかな」
「ちょろいワ」
食事が終わり、4人は路地から表通りに出るとエミリアと彼女を送るトロイの2人、それから方向が同じハイドとヴェルデの2人に分かれた。
そろそろ夏と言えど夜はまだ少し寒く、急ぎ足で帰る人の多い通りを、言葉を交わすこともなくハイドとヴェルデは歩く。
しかし、不意にハイドが、あ、と声を上げた。
「どうした?」
「そう言えば、この間アンタに渡した請求書兼契約書の写しあるじゃん」
ハイドは言いながら指で空中に縦長の長方形を描く。
「ああ」
「アレの料金の計算が少し間違ってたんだって。だから、新しい請求書と、多く貰ってた分を持ってきたんだワ」
そう言って、ハイドは上着のポケットから二つ折りにされた縦長の封筒をヴェルデに差し出す。
「初っぱなから間違いかヨ」
「しょうがねえだろ。こんな契約初めてなんだからヨ」
口を尖らせてハイドが言った。
「それでさ、支配人に古い写しは回収してこいって言われてんだけど、捨ててねえよな?」
「まあそりゃあ持ってっけど、流石に今は無いぜ?」
「分かってるよ。でも家にはあんだろ? これから取りに行っても良いか?」
ハイドが尋ねると、ヴェルデは一瞬返答に詰まる。
正直に言うと、今の家の状態はあまり他人に見せたくはなかった。
だが、ちょうど今日で休暇が終わり、明日からまた騎士団の訓練やその他の仕事に取り組むことになっている。
そうなると、ハイドと次にいつ会うかも定かではない。
「まあ、良いゼ」
そう言って、2人はヴェルデの家へ向うことになった。