隊長と魔女
「お客様! 止めてください!」
女性の叫び声が店内に響いた。
ヴェルデとトロイがそちらを向くと、怯えた表情のウェイトレスが何か必死に抵抗している。
足下には給仕用の盆と割れたグラスが散乱していた。
「いいじゃねぇかよぉ〜。さっきのねぇちゃんはオッケーだったみたいだぜぇえ?」
そう下卑た声を上げたのは、顔を真っ赤にした中年のハゲ男。
男はニタニタと気味の悪い笑顔を浮かべながら、怪しい手付きでウェイトレスの腰の辺りを触っている。
「うわぁ。酔っぱらいだ」
気持ち悪〜い、とトロイがストレートな感想を独りごちる。
「だが放っておくわけにもいかん。同意の無い猥褻行為は犯罪だ」
「はーい」
本来犯罪行為の取り締まりは騎士団ではなく警察団の仕事だが、実際この二つの組織の境目はかなり曖昧だ。
警察団とは別に騎士団も街の内外を定期的に巡回し、犯罪行為を発見すれば犯人を捕まえるために走り回ることもある。
逆に警察団も、騎士団とは別の剣術訓練などを行い、有事の際には騎士団の増援という形で街の警備を行うことになっていた。
そんなこんなで二人が椅子から立ち上がり、未だにベタベタとウェイトレスに触っている男へ近付こうとした、その時。
「お客様。お止めくださいな」
ふわり、と男の手の上に細く白い別の手が添えられた。
店内の客たちがハッと息を飲む。ヴェルデとトロイも驚いた。
そこにはいつの間にやってきたのか『歌姫』の彼女が立っていた。
「お止めください」
穏やかに、しかしハッキリとそう言って、彼女が首を横に振る。
しかし、男は少し驚いたような顔をした後、またすぐにニヤニヤと笑って今度は彼女の方に手を伸ばした。
「おーおー堅いこと言うなよねえちゃんよぉ〜。さっき若い男に触られて嬉しそうにしてたじゃねえかよぉ〜」
男の言葉を聞いて、ヴェルデはトロイが一気に不機嫌なオーラを纏ったのを感じた。
彼女は一歩横に動いて、男の手を躱す。
「お止めくださいな」
彼女が同じ調子で返すと、男の顔がくしゃりと歪んだ。
ヴェルデとトロイは警戒を強め、二、三歩前に踏み出す。
「んだぁ……。結局、男選びは顔と金って訳かい? 高そうな服着て目当ての男漁ってぇ……とんだ阿婆擦れだなぁオイ!」
「っの……!」
「待て!」
珍しく飛び出していきそうになるトロイを、ヴェルデが腕を上げて制する。
男が彼女の首に向かって手を伸ばした。ひゅっと誰かが息を飲む。
不意に、彼女が男性の顔の前に右の手の平を突き出した。
次の瞬間。
ゴオッ!
「うお!?」
彼女の手の平を中心に強い風が巻き起こり、男や周囲の人々が手で顔を覆った。
彼女はすぐさま左手を素早く横に振る。
すると、突然男の身体がふわりと宙に浮き、それから床に強く叩きつけられた。
「なっ……。なっ……!!」
「お客様」
彼女が静かに言って、床に膝を着く。
そっと男の顔へその手を伸ばす彼女の両肩が、にゅわりと波を打った。その部分は少しずつ球に形を変え、ついにはポンと彼女の肩を外れ、
「お止めくださいな」
ギョロリと丸い二つの目玉になって、男をジッと見つめた。
対照的に、彼女の方は焦点の合わない目を男に向けている。
男の顔が、さっと真っ青になる。
「ま……魔女……!!」
男は上擦った声でそう言い、弾かれたように後ずさった。
この世界には『魔女』や『魔法使い』と呼ばれる人々が存在する。
それは一種の突然変異であり、彼ら彼女らは生まれてくる時、目が見えない、耳が聞こえない、四肢のどこかが欠けるなど、身体の一部を失う代わりに強力な魔法と言う力を得る。
魔女や魔法使いは、力を持たない一般人に特殊な薬や魔法を駆使しての様々な恩恵を与える隣人であると同時に、敵に回れば一切勝ち目の無い、脅威と恐怖を与える存在でもあった。
ふと、ヴェルデの腕を下ろしてトロイが前に出る。
ヴェルデはちらりとトロイの顔を見たが、先ほどと違って落ち着きを取り戻しているのが分かり、彼に任せることにした。
「はーいそこまでー。騎士団員のお通りでーす」
そう言って、トロイはシャツの内側に入れていたネックレスを手繰り、騎士団の紋章を男に見せた。
男がまたハッと顔を上げる。
「おじさんさー、酔った勢いで女の子の身体ベタベタ触ってー、挙げ句暴れそうになったねー。ちょっとまずいよーそういうのー」
わかるー? とトロイが首を傾げる。無表情で。
「あとおじさんさー、俺のことちょっとバカにしたよねー。警察団に掛け合ってー、色々やってもらおうかなー……」
「ごっ、ゴメンナサイイイイイイイイイイイイ!!」
トロイの言葉が終わる前に、男は叫んで一目散に逃げていった。
「あっ、食べ物のお金……って、何だ、荷物置きっぱなしじゃん。財布もあるわ」
じゃあ良いや、とトロイは言って、今度は少しびっくりしたような表情をしている彼女の方に向き直る。
「大丈夫?」
「え……。あ、はい。大丈夫です」
「そう。良かった」
そう言ってトロイが微笑むと、彼女はまた驚いたような顔をした。肩の上に浮かぶ目がトロイをジッと見る。
「あーっと、そうだ。そろそろその目玉、仕舞った方が良いかも。ほら、ここ、食べ物屋さんだからさ」
トロイが言うと彼女はハッとして、すみません、と小さく言った。
きゅぽん、と目玉が彼女の肩に吸い込まれる。
それはそれで気分が悪くなりそうな光景だった。
しかし、トロイはオッケーオッケーと言って頷き、彼女もにこっと微笑む。
「えーっと……良い雰囲気の所スマンのだが……」
と。突然、二人の間に人影が割って入った。
その人物を見て、今度はトロイが驚いた顔をする。
「あ。さっきカウンターにいた……」
そこに立っていたのは、先ほど店の隅のカウンターで彼女と話をしていた人物だった。
肩より長く伸びるボサボサの黒髪に黒い帽子を目深にかぶり、つばの下から覗く黒い目は鋭い吊り目。
シャツこそ白だが、上に着ているベストもズボンも靴も黒い。
「そうそう。こいつの友人。……で、突然で悪いんだけどさ、これから、今の事でこいつに話し聞いたりする? 飯の約束してたんだけどサ……」
その人物の言葉に、トロイが確かめるように彼女の方を見た。
彼女が一つ頷く。
「はい。その通りです」
「なるほど。まあ、あのおじさん逃げちゃったし、どっちかって言うと、ウェイトレスの子の話を聞いた方が良いかな……。あ、でも、君に対する誹謗中傷も罪になるか……」
「私はあまり気にしていませんが……」
「まあ、君がそう言うなら無理に訴えろとは言わないけど……。でもちょっとでも引っかかってるんだったら考えた方が良いよ?」
「…………」
三人揃って困った顔をして首をひねる。
と、そこに足音が近付いてきた。
「まあまあお前ら、悩むのは良いが、そこにいるのはちょいと邪魔だぞ」
そう言って、ヴェルデが三人の頭をぽんぽんと順番に叩く。
振り返った彼女の友人が、ヴェルデを見て目を見開いた。
「あれ? アンタ……」
「知っている方ですか?」
「この間話したろ? 絵を買ってったオッサン」
「ああ……。律儀な……」
「律儀?」
「トロイ! いらんことは聞かんで良い! お前も何喋ってんだよ!」
「こっちが友人に何喋ろうたってアンタには関係ねえだろうが。世間話の一環だよ」
数日前と変わらない、どこか挑発するような口調にヴェルデは一瞬応戦しかけて口を開いた。
しかし、このままでは関係のない方向に話が転がっていく事に気が付いて、首を横に振る。
「とにかく、すぐにココを離れるぞ。俺らが使ってた席で良いだろ」
その言葉にトロイと歌姫と絵描きは揃って頷いた。