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画家と客

 「騎士団長様の奥方が、病で亡くなられたらしいぞ」

 「まあ、それはお気の毒に……。仲のいい夫婦だって、評判だったのにねえ……」

 「確か、奥方様はまだ四〇代の前半だろう? 若すぎるよ。騎士団長様も、さぞ心を痛めているだろうな……」

 たくさんの商店や移動販売のワゴンが立ち並ぶ通りの一角。

 寄り集まって立ち話をする商売人たちを横目に、絵描きはフーッと煙管の煙を吐き出した。

 傍らのテーブルの上の灰皿に灰を落としてから、正面のイーゼルに乗ったカンバスに目を移す。

 描かれているのは、日の当たる明るい商店街。

 建物や道に使われるレンガは、赤やオレンジ、それから黄色が鮮やかで、その前を右から左、左から右と人が絶え間なく行き交っている。

 絵描きは煙管を灰皿に置いて、代わりに細い絵筆を手に取った。

 パレットの白を少しだけ掬うと、絵の中を駆ける少女の手に一本の紐を握らせた。それから白と青を混ぜて水色を作ると、紐の先端に少し縦に伸びた丸を描く。

 水色の風船が、暖色の街にふわりと浮く。

 絵描きは絵から身体を離してカンバスをじっと見た後、どこか満足げに頷いた。

 イーゼルをくるりと回して通りの方を向かせると、灰皿の側に置いてあった長方形の紙を手に取り、筆の水色で適当な値段を書いて、絵に立て掛ける。

 絵描きの周りには、大小様々なイーゼルと、サイズも内容も違うカンバスがいくつも置かれている。

 背後にはそれらを仕舞うための大きな箱と、運搬用の荷車もあった。

 絵描きは空に向かって両手を上げて、うーんと伸びをする。

 その時、ふと絵描きの顔に影が落ちた。

 「よう。調子はどうだい?」

 そう声を掛けてきたのは、一人の男性だった。

 絵描きは男性を無遠慮にジロジロと見る。

 年の頃は四〇代後半から五〇歳くらいだろうか。

 日の光に眩しい銀髪をオールバックにして後ろで一つに束ね、シックなブラウンの帽子を被っている。

 帽子より少し色の薄い春物のコートを身に纏い、黒い革の手袋もしているが、どれもかなり良い物のようだ。

 貴族の旦那様か、はたまたこの辺りの資本家か。

 絵描きは一瞬そんなことを考えたが、すぐに首をひねった。

 その男性は、やたらと背が高いのだ。座っている絵描きと立っている男性と言う差を考えても。

 絵描きも長身の部類に入るが、それでも及ばなさそうだった。

 体格も、服や上着の上からの為やや分かりにくいが、かなりガッシリと逞しいように見える。

 それに加えて、顔の左頬には大きな傷跡が一本。

 貴族にしても資本家にしても、ただ者ではないことは確かなようだ。

 ただ、男性の顔色はめっぽう悪かった。

 余裕を醸すようなにやりと笑った目にはいまいち覇気が無く、どこか疲れたような表情(かお)をしている。

 「ドーモ。ボチボチですかね」

 応えながら、絵描きは煙管に刻み煙草を詰めて火を着けた。

 一口吸って、男性から顔を背けて吐く。

 「危なくないか? それ」

 「気を付けてますヨ」

 絵を見ていた男性が首を傾げると、絵描きはそちらに顔を向けず答えた。

 「アンタはいつもここに?」

 「いや? 何カ所か転々としながら」

 「いつ頃から?」

 「四、五年くらい前」

 「絵を描くのは好きか?」

 「まあね」

 「こういう絵って、売れるもんなのか?」

 「……随分ハッキリ聞くね。アンタ」

 ジトッと男性を見ながら、絵描きは灰皿に灰を落とす。

 「ああ、気に障ったようなら謝る」

 「別にいいよ。実際売れないし。他の連中の詳しいことは知らないけど、大体どこも同じでしょ。売れてたらどっかの専属になっちゃうだろうしネ」

 興味なさげに絵描きが言うと、

 「なるほど」

 と男性は一つ頷いた。

 そして、小さな正方形のキャンバスの前にしゃがみ込むと、その絵の値札を指で撫でる。

 「じゃあ、何故アンタは絵を売ってんだい?」

 「約束があるんでね」

 椅子の下に置かれた鞄からスケッチブックを取り出しながら、間髪入れずに絵描きは答えた。

 男性が少し驚いた顔をする。

 「約束?」

 「そう」

 「約束って?」

 「おいおい、さすがにそんな事までアンタに教える義理、こっちには無いぜ」

 そう言うと、男性はぐっと上半身を引いて押し黙った。

 絵描きはふんと息を吐いて、スケッチブックを開く。

 それからしばらく絵描きが黙々とスケッチブックに向き合っていると、突然目の前に千リジュー紙幣が現れた。

 ギョッして顔を上げると、口を一文字に引き結んだ男性がそれを差し出している。

 随分と静かだったから、てっきりもう帰ったものだと思っていた。

 「この絵、買うヨ」

 絵描きがぽかんとしていると、男性はそう言って、先ほど見ていた正方形の小さな絵を指さす。

 絵描きは目をパチクリと瞬かせたあと、男性の意図に何となく気が付いて呆れたように肩を竦めた。

 「別に良いのにそーゆーの」

 「本当にこの絵が欲しかったんだよ!」

 「ハイハイ」

 ヒラヒラと手を振って、絵描きは椅子の下の鞄に手を伸ばし、中から鍵の着いた木箱を取り出す。

 首に引っかけていた黒い紐を手繰ると鍵が出てきて、それで木箱を開けた。中には数種の紙幣が何枚かと、硬貨がいくらか入っている。

 絵描きは男の手から千リジューを受け取ると、五百リジュー硬貨を摘み、男性の手に乗せた。

 「えーっと、後は袋か……」

 そう言うと、今度はパレットや灰皿の置かれたテーブルの下の紙袋を引き寄せる。中には大量の紙袋が詰め込まれているようだった。

 絵描きが手頃なサイズの袋を探している間、男性は買った絵を手に取ってから、また売られている他の絵を見回した。

 「風景画が多いんだな」

 「肖像画は依頼されりゃ描くよ。静物画は場所がない」

 「場所?」

 「花瓶とか果物とかを、長く置いとく場所。ハイ、これに入れて」

 差し出された紙袋を受け取って、男性は絵を入れる。サイズはぴったりだった。

 「そう言えば、さっきっから気になってたんだが」

 「あ?」

 絵描きが首を傾げると、男性は絵描きの背後を指さす。

 「チラチラ見えるその後ろにある絵は何なんだ?」

 絵描きの座る椅子の後ろに、少し低めのイーゼルが一つ置いてあった。丁度背もたれの位置にカンバスが来るくらいの大きさだ。そしてその上には、何か絵の描かれた一枚のカンバスが置いてある。

 男性はもっと絵をよく見ようと身体を動かした。

 が、

 「ああ、これはダメ。売り物じゃないから」

 そう言って、絵描きはさっと絵を裏返しにしてしまう。

 「売り物じゃない?」

 「てか、もう買い手が決まってんだ。いつでも渡せるように置いてるだけ」

 「ふーん……。……見るだけってのも、ダメかね」

 「そんなに気になんの?」

 「そりゃあ、隠されちゃあ気になるわな」

 男性が言うと、絵描きは少し考えるように宙を見上げて、うーん、とうなった。

 そして、

 「ホントに見るだけだかんな」

 身体を捻り背後のカンバスを手に取ると、それをじっと眺めてから、男性の方に差し出す。

 その絵を見た瞬間、男性は絵描きに小さく息を呑んだ。

 絵は縦に長い長方形で、サイズは先ほど絵描きが描き上げた街の絵より一回り大きいくらい。

 そこに描かれていたのは、真っ青な空の元、どこまでもどこまでも続くひまわり畑と、その真ん中を縫う一本の道。

 そして、その道に立つ、一人の女性。

 ひまわりたちに勝るとも劣らない輝くブロンドを持ち、ピンク色のワンピースドレスを着たその女性は、頭に被った大きな麦わら帽子を手で押さえ、弾けるような笑顔でこちらを見ている。

 「これは……」

 「何年か前に、この街から少し離れた所にあるひまわり畑で会ったんだ。どっかの貴族のご婦人か何かだったんだろうな。あんまりに綺麗だったもんで、描かせてもらった」

 「綺麗?」

 男性が言うと、絵描きは一つ頷いた。

 「なんて言うか、笑った顔とかもそうだけどさ。キラキラしてんたんだよ。纏ってる空気みたいなのが凄い澄んでて、時々、パチパチって光るんだ」

 絵描きは当時のことを思い出しているのか、どこか遠くを見ながら言う。

 「さっき言ってた買い手ってのは……」

 「ああ、この人だ。完成したら是非欲しいって、そう言ってくれた」

 そろそろ返せ、と絵描きが手を伸ばし、男性はもう一度絵を見てからガンバスを返した。

 「この街に住んでるってことは聞いたんだ。でも、自分らみたいなのは、この人が住んでるような区画にはなかなか入れないから、近いとこ転々として、待ってんの」

 絵描きが言う。

 その表情は随分と柔らかくて、まるで想いの人を一心に見つめているような、そんな目をしていた。

 と、その時、ゴーン、と低い音が辺りに響き、通りを歩く人々が空を見上げる。

 ゴーン……ゴーン……。

 「おっと、三時の鐘か。そろそろ行かなきゃな」

 絵描きはそう言って立ち上がり、手早く画材などを片づけ始めた。

 しかし不意に男性の方を見ると、

 「ほら、店仕舞いだ。帰った帰った」

 「なっ……。お前、こっちは客だぞ?」

 「あーハイハイ。律儀なお客様ですネー」

 さして感情の籠もっていない声でそう言い、絵描きは売り物の絵やイーゼルを大きな箱に仕舞っていく。

 「…………なあ」

 「わっ。まだ帰ってなかったのかよ。返品は不可だけど?」

 「違えよ。……『約束』ってのは、その絵を売ることなのか?」

 男性が言うと、絵描きは少し目を見開いてから、面倒くさそうな表情になってヒョイと肩を竦めた。

 話は終わり、とでも言うように、バタンと大きな箱の蓋を閉じて、椅子やテーブルも荷車に乗せる。

 「んじゃ、ドーモ」

 それだけ言うと、絵描きは荷車を引いて商店街の出口の方へ向かっていく。

 男性は何か言いたげに口を開いたが、何も言わずに閉じて、ただ絵描きの後ろ姿を見送った。

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